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第9話 元悪女と、思い出(4)


 記者質問や新CMに関連した施策や企画を紹介したところで、社交パーティーの開始が昇吾から告げられた。


 参加者同士の交流に合わせて、軽食や飲み物が提供されていく。先ほどのCMに合わせた楽曲のライブも予定されており、人々が浮足立つのが分かった。


 昇吾の隣で笑みを振りまいていた紗希の肘を、軽くつつく者がいた。見覚えがある、と紗希は思う。


 何名かいる昇吾の秘書、そのうちの一人である森田という女性だ。凛とした黒い目に肩口で切りそろえられたショートヘアと、いかにも仕事ができそうな雰囲気を醸し出している。


紗希とは年齢が近く、秘書陣の中では比較的話しやすそうだと、勝手に紗希は思っていた。


「森田さん。こんにちは」


「お久しぶりです。……お手洗いが空いているのですが、大丈夫でしょうか?」


 気を遣ってくれたらしい。


(そうね……今のタイミングなら、ライブまでに戻れそうだし……)


手元のシャンパングラスは少しも空けていないが、紗希自身、少しメイク直しなどはしておきたいと思っていたのが実情だった。


「昇吾さん」


 軽く隣にいる彼に視線を送ると、紗希の想いが聞こえていたように頷きがくる。


「森田さん。行く前に均にも声をかけておいてくれ」


 昇吾が声をかけると、森田は即座に頷いた。


「かしこまりました」


 彼女に案内されながら、紗希は奥の通路へ向かう。途中で何度か声をかけられたが、いずれも「お幸せに」など、昇吾との未来を祝うものだった。


「紗希さん。どちらに?」


 素早く近づいてきた均に尋ねられて、紗希は笑顔で通路の奥にあるトイレを指さした。


 察した様子の均が頷く。


「そうか。森田さん、何かあったらすぐ教えて」


 彼にも言われたことで、森田も何か思うところがあったらしい。紗希のそばにより近づくと、表情を引き締める。


 到着したトイレはシンプルなデザインだ。それぞれの性別に向けたものだけでなく、ユニバーサルデザイン化された多目的トイレもある。


「すぐ済むと思うから」


 森田へ紗希が声をかけると、彼女は強い意志を感じられる目で頷いた。


「はい、こちらでお待ちしております」


 トイレへ入ると、紗希一人だけだった。


個室が右手に三つ、室内の手前側にはパウダールームが二つある。奥のトイレで用を済ませて、軽くメイクを整えた。


 ところが。外に出ると、森田の姿がない。時間にして五分もかけていないというのに。


(どこへいったのかしら……?)


 均にも、昇吾にも釘を刺されたのに、森田が全く覚えておらずに従わないとは思えない。


 何気なく廊下の左右に視線をやって……紗希はギョッとした。


 男性用のトイレから、篤が出てきたところだった。


「紗希ちゃん」


 うっとりとした眼差しで篤が微笑む。そして。何のためらいもなく、紗希の右肩に手をかけて、近くの休憩室の壁に押し付けてきた。


 休憩室の壁は段差があり、会場からは篤の姿しか見えない。紗希は反射的に「彼は何も納得していない」と悟った。


 森田はどこかと視線を左右にやり、神経をそばだてる。彼女がどこにいるのかは、すぐに見つかった。奥で篤のマネージャーに熱心に話しかけられている。


「お願いします、最後のチャンスだと思って!」


「そんなことできません!」


どうしよう、とこちらに視線をやるのが見える。


 紗希だってまさか。こんな風に会場で篤が話しかけてくるなんて、思いもよらなかった。


「白川さん、何か御用でしょうか?」


 紗希からの呼びかけに篤はショックを受けた様子でたじろいだ。しかし思い直した様子で、口を開く。


「紗希ちゃん。僕はずっと本気だ。君がそばにいてくれるのなら、芸能界も白川家も、知ったことじゃない」


「やめてください、白川さん!」


 反射的に紗希は大声を出したつもりだった。だが、唇からは擦れた激しいささやきが出るだけだ。


 自分が目の前の男に恐怖していることに、紗希は気づいた。


「っ、白川さん。一つ、聞いておきたいことがあります」


「一つじゃなくて、いくつでも。紗希ちゃんになら、何でも応えるよ」


「白川さん。あの記事はあなたが出させたのですか? 私があなたから、勤め先で連絡先を受け取った、という……」


 莉々果の予測でしかない。そうだと信じたい。


 心の奥底で篤を信じている幼い自分が、必死に言葉を紡ぎだすのが紗希には分かった。


 しかし。篤は「ああ」と短く笑うと、こともなげに言った。


「君を会社から離す必要があると感じたんだ。あのままでは君はいつまでも、昇吾との関係性を揶揄されて、その才能を埋もれさせるばかりだ」


 言いつのる篤に、紗希は思い切り平手打ちをくらわせたい気持ちになる。ぐっとこらえたおかげで、手のひらに爪が強く食いこんでしまった。


篤は本気で自分のためを思っていると感じられた。でもやり方が、あまりにも紗希に対する思いやりがなさすぎる。


「白川さんは、私がどんな思いをしたかご存じないのでしょうね。いいえ、あの絶望さえも私を手に入れるための手段だったのかしら?」


「何のこと?」


 不思議そうに首を傾げた篤に、紗希はついに彼が肩に置いていた手を鋭く払いのけた。


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