紗希の発言に室内はざわめきで包まれていく。篤も紗希の言葉には驚いたのか、彼は少し目を見開いていた。
演技の可能性だってある。油断してはならない。
ひどく感情が昂っているのに、紗希は自分が妙に冷静であることを自覚した。
『あの当時、わたくしは母を亡くし、家族関係にも大きな変化があったことから、島で一人寂しい想いをしていました。そんな折に出会った篤お兄さんのおかげで、立ち直ることができたのです。ほんのつい最近、わたくしが勤め先で篤お兄さんに声をかけていただくまで、すっかり忘れ切っていたほど、昔のことでした……』
次第に紗希の中で思い出が、はっきりとした形になって思い出された。
篤を助けたあと。泣きつかれた二人は同じベッドで眠ってしまった。紗希が寝泊まりしている最上階の部屋に運んでくれたのは、篤その人だったという。
男の人と一緒に寝てしまっただなんて信じられず、恥ずかしさから紗希は大慌てで部屋から抜け出した。
でもそこをホテルのスタッフに掴まってしまい、何とか恥ずかしさをごまかそうと『釣りに行きたい』と駄々をこねた。
スタッフたちは、そんな紗希を遠ざけなかった。むしろ嬉しそうに紗希のわがままを受け入れて、一緒に釣りにでかけてくれた。
朝食のお膳に並んだのは、紗希が堤防で釣った魚。目を覚ました篤はシャワーを浴び、ニキビも少し赤みが引いた様子で、昨日に比べるとずいぶんシャンとしていた。
「これは、なんていう魚なんだい?」
しげしげと焼き魚を眺める篤に、いたずらっぽく笑った幼い紗希が話しかける。
「イサキっていうのよ。私も手伝って、朝のうちに釣り上げたの」
目を見開いた彼をしり目に、紗希は箸を手に取る。
魚の解し方は、母から教わった。お米の炊き方をはじめとする料理の知識、食事のマナー、誰かを思いやる気持ち。
教えてくれた母は、もういない。
その寂しさがこみあげかけた時、篤が紗希へ言う。
「おいしい……こんなにおいしいごはん、ひさしぶりだ、よっ……」
泣きじゃくる彼につられて、紗希もたっぷり涙を流す。食べて、泣いて、眠って。時を過ごすうちに、あっという間に篤の体調はよくなっていった。
海が見えた。美しい、海岸線。
笑顔を浮かべる篤はすっかり肌もきれいになり、輝きを取り戻している。
「もう、大丈夫。俺は、もう一度飛び立つよ……紗希ちゃん」
篤が紗希の両手を包み込んだ。
「だから。いつか迎えに行くから」
彼の気持ちは嬉しかった。でも、紗希には『迎えが来ない』可能性のほうが恐ろしく思えてならない。
「篤お兄さん。誰だって未来は分からないのよ? そんな約束なんて、気軽にしちゃダメ」
彼はぐっと詰まった様子で紗希を見る。
「もしも本当に篤お兄さんが、本気の本気で会いに来たいと望むのなら、その時にもう一度どうするかお互いに決めた方が、きっと良いと思うわ」
紗希の言葉に篤はしばらく黙り込んでから、そうだね、と小さく呟いた。
「君の言う通りだ。紗希ちゃんには叶わないな。俺たちの未来なんて、まだまだ分からないんだし……」
「そうよ! むしろ私は、篤お兄さんが生きていてくれることのほうが、ずっと嬉しいから……」
紗希の意識があの日の光景から、美しいスポットライトとあまたのフラッシュに包まれる会場に戻ってくる。
『私は、かつて昇吾さんと決して良い関係であったとはいえません。私は彼に大いに甘え、迷惑をかけ、大人になることもできずにいました。婚約者として、相手の人生に責任を持つことを軽く見ていたといえるでしょう』
自分の決心が篤に伝わるように願いながら、紗希は声をあげる。
『だからこそ一層に、今回の発表会への参加に、並々ならぬ思いがあります。自分が変われたのは昇吾さんとの出会いであり、今日まで私を支えてくれた友人あってこそ……。そんな場に、思いを同じくする篤お兄さんがいてくださって嬉しく思います。あなたのご活躍をこれからも、心から祈っております』
篤は彼が行動した通り、並々ならぬ思いを紗希へ向けている。でも紗希は彼の気持ちに応えることはできない。
かつての紗希が告げた通り、どうするかお互いに決めた方が、きっと良いと思っていた。
(どうか分かって、お願い……。私は、私の今を歩んでいきたいの……)
紗希は祈るように心のうちで告げる。篤がマイクを握ると、口元へ近づけた。
『ありがとう、紗希ちゃん。ううん……蘇我さん。君がこのCMを見てくれたこと、誇りに思うよ』
満面の笑みを浮かべた篤が、紗希にピースサインを向けた。すると、脇にいた昇吾が拍手を送る。
会場内も釣られるように、拍手をしだした。その光景はあたかも、二人の麗しい過去の助け合いに対し、皆が賛同を示しているように見える。
(よ、よかった……! 篤お兄さんも、分かってくれた……!)
優しかったあの頃の彼。そして、今や芸能界で知らないものはいない人気俳優になった彼の栄誉を守れたと感じ、紗希は肩から力を抜いた。
ホッとして力を抜いた瞬間。肩に熱が触れた。昇吾の腕が紗希の肩を強く抱き寄せ、軽く頬へリップ音が響く。
キスをされた、と分かった瞬間。特訓の成果もむなしく、紗希の頬一面が真っ赤に染まった。
(え、えええええ~~~~!!?)
内心であげたはずの絶叫に、昇吾が苦笑をこぼすのが分かり、紗希は顔を俯かせた。
婚約者へのキスという光景に、即座にフラッシュが焚かれる。会場内の雰囲気はあっという間に和やかなものとなり、記者たちの質問が昇吾に向けて飛び交うのは時間の問題となった。
『それでは! 続きましてCM裏話をクリエイティブディレクターの横井氏を交えてお聞かせいただきます。この後は質疑応答ももうけますので――』
司会が本筋に引き戻す。篤に対し、紗希との関係性を改めて尋ねる記者もいたが『古い友人です』とにこやかに返事をされるにとどまった。
本当に良かった……。
そう思いながら、紗希は落ち着きをみせはじめたパーティーのざわめきに、ホッとするのだった。