壇上の白川篤は、静かに目を閉じる。均整とれた揺るぎない姿に、人々がかすかに息を飲む音があちらこちらから聞こえた。
「かつて、自分は生きるのを諦めようとした時期がありました。芸能界にて子役として活躍し、これこそが自分の生きる道と信じていた。ですがいつしか心は疲れ、僕を心配した両親が南方の島へと休養に向かわせたのです」
ゆっくりとした語り口。俳優としてセリフを読んでいるのではないと、会場にいる人々は直感していた。
紗希ももちろんその一人だ。
(もしかして、あの島での出来事を語ろうとしているの? ……)
どう動くべきだろう。紗希は篤が何を語ろうとしているのか、彼の動き全てから感じ取ろうと神経を尖らせる。
「しかし僕はその島で、最悪の決断をしました。あれほど好きだった俳優の仕事など何もかも嫌になり、海へ身を投げようとしたんです。消波ブロックの上から見た暗い海は、僕へこの世との別れを決意させるに十分でした」
会場から小さく悲鳴が聞こえる。人々の耳にはいつしか、海沿いに吹き荒れる風が、波が打ち砕ける潮騒が聞こえていた。
もちろん会場のBGMは変わっていない。篤の語りが、人々にそう錯覚させていた。
「でも。そんな僕をこの世に引き留めてくれた女の子がいました。偶然にも、僕が身を投げる瞬間を見つけた彼女が、周囲の大人に働きかけて助けてくれたんです。それだけではありません。僕自身に、他の何者でもないただの僕に、懸命に心を砕いてくれたんです。彼女がいてくれたおかげで、僕は生きる決心をしました。両親や当時所属した事務所、仕事先などと相談しあうという道を選べました……」
うっすらと篤の目に涙が浮かぶ。
「それまで自分の才能を生かせるからという理由で向かい合っていた芸能界に、僕は改めて向かい合いました。そして、家族や友人、多くの皆様がいてくださったからこそ、人と人とのつながりの中で僕が生きてきたからこそ、今の自分があると理解したのです」
会場には涙ぐむ人々もいた。今や大人気の俳優として、他に並ぶもののない唯一無二の存在となった白川篤。彼が放つ存在感の原点に、ほんの少しでも触れられた気持ちを味わったからだ。
しかし紗希だけは、その言葉や周囲の熱狂に追いつけずにいた。
(どうしてこんな話をするの? 確かに、CMのテーマにはぴったりかもしれないけど……)
顔をあげた篤が微笑む。そして彼の目は真っすぐに、紗希へとむけられた。
熱を帯びた甘い瞳が、紗希をとらえて離さない。
「今回のCMには、その少女に僕の感謝が届いてほしいと願いながら出演いたしました」
誰がその少女だったのか、会場の人間には即座に理解できた。あまりにも意味深に放たれた視線と、今年になって突然流布された篤と紗希に関する報道。
「じゃあ、あの白川篤との熱愛報道、連絡先を渡されたとか、事実なのか?」
記者席がざわつきだす。とんでもないスクープの予感に、彼らの放つ気配が色濃くなったようだった。
続いて篤への記者からの質問タイムが予定されている。彼らの興味は一気に、どのような質問をすれば、この週刊誌をにぎわせそうな話題に結び付くのかに向けられていた。
(なんてこと……!)
激しくショックを受けながら、紗希は今は視線をそらした篤を睨みつけた。
篤お兄さんと慕ってきた彼への気持ちさえも踏みにじられたような感覚に、胃の奥がぞわぞわとしてしまう。
このままでは、篤から紗希への恋慕を週刊誌が書き立て、青木産業の新CMの話題などあってないものになりかねない。
このパーティーで注目されるべきは、あのCMに込められたメッセージと、それを実現していく青木産業の各社員やトップである昇吾のはずだ。
(私にできることはないの……? 嘘はつきたくない。篤お兄さんが元気に活躍しているのは嬉しい。けど、こんなのあんまりよ……)
ふ、と紗希は熱いまなざしを感じた。昇吾だ。彼は紗希の方をじっと見つめていた。
「紗希さん。君の想いを、そのまま語ることはできる?」
まるで自分に頼るような口ぶりに、紗希は胸の奥に熱が込みあがるのを感じた。
もし名を付けるのなら、きっと勇気と呼ばれるべき感情。紗希は微笑みながら昇吾に頷き、彼の手へ自らの手を重ねた。
(篤お兄さん、ごめんなさい。私はどうしても、あなたに応えることはできない……)
冷や汗をかきながら篤を見守っていた司会者の女性が、ハッとした様子で紗希と昇吾の行動に目を留めた。
当初の予定では、紗希と昇吾が再び壇上へ向かうのはパーティーのラストと決まっている。
だがこの不測の事態を前に、司会者は意を決した様子でマイクを握った。
『ではここで、青木昇吾さま、蘇我紗希さまからも、CMについてコメントを頂戴いたします!』
当初通りの予定だと言いたげな口ぶり。篤はそんな司会者の行動に一瞬だけ視線を向けたが、それでも動く様子はない。むしろ紗希が何を語るのか、気にするようにこちらを見てくる。
紗希は司会者からマイクを受け取った。
先ほどに増して、フラッシュが激しく炊かれ、会場を埋め尽くす。
脳裏にYouTubeでの配信がよぎった。あの時と何も変わらない。ネット上に残る動画を出せたくらいなんだから、このくらいなんてことはない。
自分自身を鼓舞しながら、紗希は笑顔で人々を見回す。
そして、篤に視線を合わせた。
『白川さま。――いえ、篤お兄さん、今回はCMへの出演。誠におめでとうございます』
軽やかな紗希の声に会場内がどよめく。
篤の話に出た命を救った少女。彼女こそ、蘇我紗希であると、確定したも同然だった。