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 榠樝かりんは緊張していた。

 慕っていた相手に久し振りに会うのだ。緊張くらいする。


 ふわりと懐かしい香が鼻先をくすぐる。優しい風のような香り。沈香じんこう丁子ちょうじが涼し気ですがしい。榠樝には嗅ぎ分けられないが、奥深く色々な香が品よく混ざり合っている。

縹笹百合はなだのささゆりどの、参られました」

 堅香子かたかごが告げる。


 すっと御簾みすくぐり笹百合が入って来た。

 用意されたしとねの前で膝をつき、こうべを垂れる。

「お久しゅうございますね、榠樝さま、いえ、女東宮」

 榠樝はぎこちなく笑った。

「榠樝でいいわ。久し振りね、笹百合」

 目が合って、微笑み合う。


 こうして近しく言葉を交わすのはどれくらいぶりだろう。

 やはり笹百合の側は空気が優しくて、居心地がいい。


「本日呼び立てたのは、碁の相手を頼みたくて」

「お聞きしました。菖蒲紫雲英あやめのげんげどのと勝負をなさるとか」

「どこまで噂になってるの、それは」

 苦笑する榠樝に笹百合はそっと笑う。

「まだ、それほど」

「それなりには広まってるのね」

「早耳はどこにでも居りますゆえ

 榠樝は肩を竦める。

「まあ、そういうことなの。私があまりに弱くても困るから、少し練習相手になって欲しくて」

「ええ、喜んで」

 笹百合は花が綻ぶように微笑んだ。

 その笑みを目にして、堅香子は息を呑む。

 男なのに、なんと美しい。


三子局さんしきょくでいいわね?」

 碁石を並べ始める榠樝に、笹百合が少し目を瞬いた。

「おや、置き碁ですか?」

 榠樝はくすりと笑った。

「まだそれくらいしないと勝てないんじゃないかと思ってるけど?」

 笹百合は悪戯っぽく笑い返す。

「私相手に三子では、紫雲英どのには七子、いや星目せいもくになりますよ」

 榠樝が膨れっ面になる。

「九子も置かないわよ」

「試してみましょう」

 楽し気な笹百合に榠樝は力強く応える。

「よくご覧なさいな」

 対局が始まった。


 ぱちり、ぱちりと静かに碁石の音がする以外は相手の呼吸しか聞こえない。

 二人きりの空間のような気すらする。

 いや、堅香子はすぐ側に控えているのだけれど。

 相手の動きを見て、先を読む。

 相手が何を考えているか、読む。

 榠樝はじっと笹百合の手を見つめる。優美な指先。きれいな爪。だけど堅香子とは違う、少し骨ばった、大人の男の手。

 榠樝は頭を振る。

 余計なことを考える暇は無い。少しでも強くならねば。


 本当に星目で相手しなくてはならないのなら、紫雲英は幻滅するだろう。

 虹霓国こうげいこくの将来を見るに、王家は駄目だと判じられたら。

 菖蒲が蘇芳につくことは万が一にも無いだろうけれど。それでも。

 摂政せっしょうにつく方が分のいい勝負と判断されたら。


 榠樝はまた、頭を振った。

 それだけは避けたい。


「榠樝さま?」

 笹百合が心配そうに声を掛けてくれる。榠樝は目を開け、笑う。

 大丈夫、と。

「余計なことを考えたわ。集中します」

 睫毛を伏せ、一見冷たくすら見える表情になる榠樝は、十四の少女の顔ではなくて。

 笹百合は少しだけ辛そうに睫毛を震わせる。

 無理をしないで、と言いたいけれど。それを榠樝は望んでいない。


 対局していてわかった。

 榠樝は王になりたいのだ。

 それも、亡き父王に匹敵するくらいの。比類なき王に。


「あなたは」

 笹百合はそっと囁くように、言った。

「強くなりたいのですね」

 榠樝が視線を上げる。

 先程と打って変わって、星を宿したように強く輝く双眸。


「ええ。強くなりたいわ。強くなるわ」


 そうでなければならないのだ。

 ぱちん、と碁石が置かれる。

 終盤。

 細かい陣地の争い、不完全な陣地の補強。

 気を抜くと進入されて陣地が減っていく。

 後は細やかな目配りがものをいう。見落としが一つでもあってはならない。

「力み過ぎては、却って目に入らぬことが増えるものです」

 穏やかな笹百合の言葉に、榠樝はふ、と笑った。

「笹百合には、敵わないわね」

 すべて見透かされているような気がする。

 少しだけ苦い思いを噛み締めて、榠樝は石を置いた。

「終わりね」

「終わりですね」

 ぱちり、ぱちりとダメを詰めていく。

 死石を除去し、整地。


 笹百合が微笑む。

「黒の三目勝ち。やっぱりお強くなられていますよ、榠樝さま」

「そりゃあ、幼い頃よりは」

 でも、と榠樝は笹百合を見る。

「笹百合、手加減したでしょう」

「おや、そのようなことは」

 意外そうな笹百合の表情に、榠樝は眉を下げた。

「じゃあ無意識ね」

 笹百合は怪訝そうに首を傾げている。全くの意識の外だったのだろう。

「笹百合に手加減してもらっているようでは、紫雲英には敵わないか」

 悔しそうな榠樝に、笹百合は申し訳なさそうな表情で頭を下げる。

「ご不快にさせてしまい、お詫び致します。そのようなつもりは無かったのですが」

「謝ってもらう所じゃないわ。ただ、少し残念なだけ」

「残念、ですか」


 榠樝は微妙な表情で笑った。

 大人とも子供ともつかないような、曖昧な笑顔。


「私は、まだまだ子供で、一人前には程遠いのね」


 笹百合が瞬く。

 今一瞬、榠樝がまばゆく輝いて見えたのだ。

 たとえるならば、霜の中に咲く白菊。

 朝日が当たってきらきらと輝く一面の霜の中、その霜と見分けがつかないくらいに白い菊。

 霜にも負けずと首をもたげて凛と立つ白菊は、なんと清らかで美しいことだろう。

「いいえ、榠樝さま。あなたは」

 笹百合はゆっくりと、噛み締めるように目を細めた。

「素晴らしい大人におなりですよ」

 蘇芳紅雨すおうのこううが一目で恋に落ちるくらいに。

 幼い頃から知っている自分が、思わず見蕩みとれてしまうくらいに。


 柔らかな表情の笹百合に少し照れて。

「だといいのだけど」

 小首を傾げる姿は幼いあの日と変わらないのに。

 纏う空気がきらめきを増している。

 それは決して自分の気持ちの所為だけでは無いだろう、と笹百合は胸を熱くさせた。

 父王を亡くして、その細い両肩に否応いやおうなく重責を負って。


 榠樝は強くなった。

 そして強さに見合う程に、それ以上に。

 美しくなった。

 羽化したばかりの蝶のよう。

 儚くも力強く、そしてこれからもっと輝いていく。


 その日はきっとそれほど遠くはない。


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