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 逢ふまではゆめゆめ死なずと思へども燃えむ心にこの身は焦げなむ


 貴方にお逢いするまでは決して死ねないと思ったけれど、燃え盛る心にこの身は焦げてしまうでしょう。


 蛍のごとく燃えたる心が目に見えば君もあはれと少しや思はむ


 蛍のように燃えているこの恋心が目に見えたならば、貴方も少しは憐れとおもってくれるでしょうか。


 君思ひ恋に燃えたる我がさまを思ふ心をいかで見せむや


 貴方を思って恋に燃えているこの私の姿を、思う心を、どうやって貴方に見せたらよいのでしょうか。どうしたらこの恋心が貴方に伝わるのでしょう。


「いや、伝わってるのよ。伝わってるから困ってるのよ」

 榠樝かりんは頭を抱えている。

 三首とも蘇芳紅雨すおうのこううからの恋歌である。最後の歌は中々良い、などと思い始めている自分に喝を入れたい榠樝であった。

 ほだされるな。必要なのは恋心ではなく、共に立てる存在だ。


 とはいえ榠樝も十四の乙女。恋歌を贈られれば少なからず心は揺れ動くのである。

 しかも連日凝った薄様うすよう紙で流麗な文字で書かれた恋歌を季節の花に添えて。

 ときめかないはずがあろうか。いやない。




 そんな夏のある日。飛香舎ひぎょうしゃにて。

 榠樝かりんの前にぬかづくのは黒鳶山桜桃くろとびのゆすら。黒鳶家当主夕菅ゆうすげの姪、野茨のいばらの娘。

 早い話が榠樝の母方の従姉妹である。


 杜若かきつばたのかさねの女房装束がとても鮮やかに似合っている。

女東宮にょとうぐうにおかれましてはご機嫌麗しく」

 やや低めの声におや、と榠樝は思った。

「久しいな、山桜桃。何年振りであろうか」

 記憶にあったのは、確かにお互い女童めのわらわの頃のことで。

 今は昔となってしまった日々。

「私が十の頃でございましたので、ざっと八年ほどでございましょうか」

「そんなになるか」

 山桜桃は扁桃アーモンドの実のような丸い目を細めて笑う。

 年上だが猫のようで可愛らしい人だ。

「あの頃の女東宮はようやく笑顔を見せてくださるようになられて」

 そう。母を亡くしてまだ二年。

 あの頃はまだ前のようには笑えなかった。

 それに比べて今は強くなったものだ。

 父を亡くしてまだ数か月だというのに。


 ふっと榠樝の瞳に影が差す。

 それでも。

 もっともっと強くならねばならない。


「先日の小弓合こゆみあわせのことを耳にしました」

 山桜桃の言葉に榠樝は意識を過去から引き戻した。

誓約うけいをなされたとか」

「うむ」

 少々やってしまった感があるのだが、何にせよ。

 榠樝の願いは龍神に届いた。

 王たる器であると神に認められた。

 それはこの上ない強みである。


「つきましては私、女東宮にお仕えしたいと思いまして」


「はあ?」

 思わず品の無い返事をしてしまい、榠樝は咳払いして誤魔化した。

「本気か?六家の姫が宮仕えなどと」

 堅香子は母親が藤黄とうおうの姫だが父親は受領であり参議ですらない。

 黒鳶本家次男の娘、山桜桃とは格が違う。

「前例が無い訳では御座いませんでしょう?」

「いや、妃がねでなければ無かったと思うが……」

 山桜桃はくすりと笑った。やはり猫のようで可愛らしい。

「何故、と思われますか」

「それはそうだろう」

 頷く榠樝に山桜桃がすっとこうべを垂れた。

「いずれ王たる榠樝さまのお役に立ちたいと思います。何といっても当家は花時はなどきどのを筆頭に、男子がことごとく頼りなくございますれば」

 ぬかづき、山桜桃は言う。

「黒鳶家にどうか御慈悲を」




 ともかく帰らないと言う山桜桃に慌ててつぼねしつらえて。

 堅香子かたかご杜鵑花さつきは額を突き合わせてひそひそ話。

 杜鵑花は飛香舎へ向かう途中を捕獲されたのである。


「どう思う?」

「どうってやっぱり怪しいと申しましょうか、普通ではありませんよね」

「そうよねえ」

 山桜桃に聞かれてはまずいので渡殿わたどのでの秘密会議だ。

 流石に妙齢の男子を自身の局に引っ張り込むのは控えた堅香子である。

 とはいえ、渡殿に人の往来が無い訳がない。

 通り掛かった浅沙あさざに怪訝な顔をされてしまった。

「お二人で何をなさっておいでなのです」

 堅香子は眉を跳ね上げる。

「そういうあなたこそ、何処へ」


 自分の倒れていた間に榠樝に取り入った女官ということで、堅香子は若干浅沙を目の敵にしている節があるのだ。


 杜鵑花が苦笑を堪えた。まるで猫の威嚇の様相だ。

尚侍ないしのかみさまの命で女東宮へ削りを」

 浅沙の台詞に堅香子が目をく。

「では早く参りましょう。溶けてしまっては大変!」


 削り氷とは、文字通り削り砕いた氷を銀の器に盛り、その上から甘葛煎あまずらせんや蜂蜜を掛けて食すものである。いわゆるかき氷だ。

 この頃、貴族であっても滅多に口にできるものでは無い。


「女東宮へ、尚侍より削り氷でございます。銀器でございますれば、毒の心配は無いかと」

 榠樝に高坏たかつきを差し出し、浅沙はちらりと杜鵑花を見る。

 杜鵑花も頷いた。

「銀ですから、毒がありましたらば反応して黒くなります」

 あの毒殺未遂事件以来、榠樝の食器は銀器が使われている。

 献上される品も毒見を経て、銀器に盛られる。更に使うのは銀のはし、銀のさじだ。


「さ、さ。榠樝さま召し上がれ」

 榠樝は促されるままに削り氷を口に含んだ。

 さぁっと溶けてなくなる冷たさと甘さはたまらない。

 にっこりと笑みの形を作った唇に、三人は視線を交わしてにこにこと頷き合う。


「ところで黒鳶の姫君が女東宮の御側おそばに上がられたというのはまことですか」

 堅香子が目を細める。

「相変わらず早耳はやみみですわー。何処から仕入れましたの。つい先程の事ですわよ」

じゃの道はへびと申しますでしょう」

 ほほほほほと牽制けんせいし合う女二人に、榠樝と杜鵑花はやれやれと首を振った。

「相変わらず仲が悪いのだな」

「はい」

「いいえ」

 榠樝の言葉に同時に正反対の答えを返す。

 そして二人顔を見合わせて、また逸らす。

「私は別に。ですが堅香子どのが私を気に入らぬようですね」

「あら、全然自分は悪くないみたいな言い方なさならないで。わたくしを悪者になさりたいの?」


 割と相性は良いのではないかと榠樝などは思うのだが。

 二人は年齢差もあるので、確かに合わない所も多かろうけれど。


 しゃくしゃくと氷をんでいる間も、言い争いは続いている。

「だいたいまだお仕えすると決まった訳ではありませんのよ。帰らないとおっしゃるから仕方なしに局を設えただけで」

「おや、そうなのですか」

 まんまと乗せられて情報を渡してしまっている。

 歳の分だけ浅沙が上手うわてだ。

「まあ、よい。大方おおかた私が誰を選ぶか探りに来たのだろう」

 それは確かに誰もが気になる所ではある。

「実際どうなのです?」

 堅香子が水を向けると榠樝は匙をくわえたまま首を振る。

「はしたのうございますよ」

「食べてる途中でくのが悪い」

「ごもっとも」

 堅香子は平伏した。


 最後の一滴まで飲み干して。

 榠樝は満足げに匙を置いた。


「美味しかった」

「ようございました。尚侍も喜びましょう」

 浅沙が優しく微笑む。

「何かと気忙きぜわしい女東宮の御心が少しでも安らげばと申しておりました」

「尚侍にありがとうと伝えておいて」

「畏まりました」

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