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 その日、清涼殿せいりょうでん昼御座ひのおましに仔猫が現れた。


 そんな突然現れるはずもないのに、何所からかふらりと出てきて。

 ぽすんと榠樝かりんの膝に納まった。

 蘇芳銀河すおうのぎんがよりの報告書を読んでいた榠樝は吃驚して固まるし、居るはずの無い猫に女房達も固まった。


「……何処の子?」

「さあ……?首輪も紐もついてはおりませんわね」

 猫は我関せずと榠樝の袴の紐にじゃれついている。

「どなたからかの献上?」

「いえ、何も聞いてはおりませぬが」

 堅香子かたかご山桜桃ゆすらも首を傾げるばかり。


 そんな所に蔵人頭くろうどのとう菖蒲霜野あやめのそうやが文箱を抱えてやってきた。

「女東宮、追加にございます」

「まだ読み終わっておらぬゆえ少し待て」

「は」


 なぁん、と猫が霜野に向かって歩き出す。


 くるくると周りを回り、なぁん、ともう一度鳴いた。

「可愛らしゅうございますな。女東宮、いつから猫を?」

「知らぬ。今さっき来た」

 銀河の文に目を通しながら、段々と榠樝の眉間の皺が深くなっていく。

 気付かずに皆は猫に夢中だ。猫の方も愛嬌を振り撒いている。懐っこい。

「可愛いのう」

「どこから来ましたの?」

「お名前はなにかしら」

 榠樝がぱしんと扇を鳴らした。


「それをどこかへ連れて行け」


 不機嫌そうな榠樝に皆が一様に榠樝を見た。

「女東宮、猫はお嫌いでいらっしゃいましたか」

 霜野の台詞に首を振る。

「いや。愛らしいが今は邪魔だ。集中できぬ故、どこぞへ繋いで置け。頭中将とうのちゅうじょう、連れ帰っても良いぞ」

「いえ、滅相も無いことにございますれば」

 榠樝はがりがりとこめかみの辺りを扇で掻いた。


「すまぬがでている余裕がない。放って置いては可哀想だから、誰ぞどこかで可愛がってやってはくれぬか。それと頭中将、右大将うだいしょう検非違使別当けびいしべっとうに参上せよと言伝を頼む」


「今すぐでございますか」

「いや、都合がつき次第でいい。急ぎは急ぎだが火急ではない」

「畏まりました。では追加分でございます」

「……うむ」

 ずっと眉間に皺を寄せっぱなしの榠樝に、猫を抱えた山桜桃が心配そうに訊く。

「悪いしらせでございますか?」

 榠樝は溜息を吐いた。

「良い報せでないのは確かだ。堅香子、陰陽頭おんみょうのかみを此処へ」


 なぁん、と猫が返事をする。






 榠樝は清涼殿の東庇に座して、孫庇に控える老人を見た。

 陰陽頭朱鷺尾花ときのおばなは皺くちゃの老人で、今幾つなのか榠樝も知らない。

 前の大戦を知っているとかいないとかいう話なので八〇は超えているのだろう。


 単刀直入に榠樝は問うた。

「父上の崩御に呪詛の気配があるというのはまことか」

 尾花はもごもごと何かしら呟いて頭を下げた。

「真なのか」


「あるともないとも申し上げられませぬ」


「どういうことだ。左大将からの文で、南の大宰府へ行く道々奇妙な噂がたっているというではないか」

 榠樝は声を低める。

前王さきのおうは、のだと」

「流言にございまする」

「何故言い切れる」

「証拠がございませぬ」


 ぐっと榠樝が言葉に詰まった。


 尾花は開いているとも閉じているともわからぬ目で榠樝を射抜く。

 なんという圧迫。

 可愛らしい外見とは似ても似つかぬ狸爺め。

 榠樝は内心毒づいた。


「狸でもわかることとわからぬことがございますれば」


 こやつ、心を読んだのか?


「心を読んだわけではございませぬ。ただ、お顔に出ておりまする」


 榠樝は冷や汗が背中を伝うのを感じる。

 流石はあの摂政でさえも頼りにするという陰陽頭。

 常人では太刀打ちできない迫力がある。


「前王の死因は今以て不明でございまする」

 尾花は淡々と言葉を紡ぐ。

「呪詛であった証拠も、毒殺であった証拠も、病死であった証拠も、何も、ございませぬ。また、典薬頭てんやくのかみも同意見にございまする」

 榠樝は頭を抱えた。


「裏を返せばどれでもあり得るということか」

然様さようにございまする」


「外傷はなかった」

 ただ眠るように。

 眠っているだけのように見えた。

 死の穢れが云々いう輩に遠ざけられ、最期の別れすら満足にできなかったけれど。

 苦しんだ跡が無いのだけが幸いだった。


「だが、噂の出所と真偽を確かめねばならぬ。火のない所に煙は立たぬというからな」


 誰が何故、今になってそんなことを言い出したのか。

「陰陽師の賢木さかきをお貸しいたしまする。お役に立ちましょう」

「確か朱鷺家の秘蔵とかいう」

 尾花は肯いた。


 朱鷺家は代々陰陽師を輩出してきた家系で、異能の子を引き取り育てているという。

 引き取られた子たちの中でも歴代随一と言われるのが賢木。

 現在陰陽寮で働いているが、六家からも公私に渡り頼りにされているという。


「猫が居りまするな」

「は?」

 何の脈絡もない台詞に榠樝はきょとんとする。

「掴まえて置くのが宜しゅうございまする」

「猫、いや、確かに今朝何でだか居たが……あれは俗にいう式神とかいう奴なのか?」

「いいえ、ただの猫にございまするな」

「……そうか。あ」

 榠樝はふと思い出して訊いた。

「夢渡りの法、だったか、そういう術があるのか?」

「陰陽道にはございませぬが……。確か異国ことくにの呪法にそのようなものがあったと記憶してございます」

「そうか。異国か。わかった」

 尾花は平伏して下がった。






「という訳でだ」

 右大将藤黄南天とうおうのなんてんと検非違使別当黒鳶野茨くろとびののいばらを前に榠樝は声を低めて告げる。

「都で噂はどれくらい流れているのだ」

 南天と野茨は顔を見合わせる。


「それほど、というよりほとんど」

「都外のことにございますな」


 榠樝は眉間にぎゅっと皺を寄せた。

「うーん、わからん。朝廷を揺るがせたいのなら足元を狙えばいいものを、わざわざ遠くからじわじわと、しかも信憑性に欠ける噂を何故流す」

 南天が野茨に視線を遣った。

からめ手ですかね」

「搦め手?」

 きょとんとする榠樝に野茨が説明をする。

「相手の弱点や注意を払っていない場所を狙うということですな。敵陣の後ろや裏を狙います」

「うーん」


 敵。五雲国か。


 いやしかし、仮に噂が五雲国の仕業として、何の得になる。

 此方の不安を煽るためか。

 朝廷を疑心暗鬼に陥らせ、抵抗する力を削ごうということか。


 唸ったまま黙ってしまった榠樝に、南天と野茨は顔を見合わせて難しい表情をした。

「我ら、虹霓国こうげいこくの結束を断とうとする手段かもしれませんな」

「動揺を誘って軍の配備ができぬ内に攻め込んでくるとか」

 榠樝はまた唸った。


「五雲国で無い場合もある。かもしれない」


 言いたくないな、と榠樝は思った。だが浮かんでしまった以上言わねばなるまい。

「五雲国で無いとすると?」

「獅子身中の虫」

 榠樝は言って肺腑の空気を出し切るような溜息を吐いた。

「敵が身内に居て。その敵の敵、これが味方かはわからないが、それが敵の秘密を暴いてみせた、とか。そういうややこしい事態になって居たら困る」

 此処だけの話にしろ、と榠樝は南天と野茨の顔を引き寄せ小声で囁く。


「これは女東宮の言葉ではなく、ただの小娘の戯言たわごとだ。もしも敵が摂政だったら。摂政が父上を害して、そのことを摂政の敵が漏らしたとしたら」


「女東宮」

 野茨が声を荒げ、南天が渋面になり、榠樝が顔を歪めた。

「だからただの小娘の戯言だと言っておろうが。臣下を疑ってはならぬし、万が一にもあってはならぬし、とにかく東宮の位にある者がしていい発言ではない。わかっておる」

「まあでも女東宮の仰りたいことはわかります」

 南天が渋面のまま頷いた。

「とにかく噂の出所だ。それを突き止めないことには誰を疑えばいいいのかすらわからん」

「しかし女東宮、噂の出所と仰せになられても、都外となりますともはやどこから手を付けてよいのやら」

「そこで助っ人を呼んだ」

「助っ人」


「陰陽師朱鷺賢木。占いでは既に尾花をも抜くというぞ」

 南天が頭を掻いた。

卜占ぼくせんですかあ」

 南天はあまり卜占を信用してはいないらしい。


「正直に言おう。他に取っ掛かりがない。何も無い」


 三人は顔を見合わせ、揃って溜め息を吐いた。

 前途多難どころではない。


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