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第2話

ゆっくりと開いた手帳の最初のページには、きれいに整った文字が並んでいた。まるで、今まさに父がここにいて、ペンを走らせているかのような錯覚を覚えるほど、父の筆跡は力強く、迷いのないものだった。


「4月6日」

──重度のファロー四徴症の患者さんを診た。

素直で我慢強い患者さんだ。

ほかの病院で断られ続けていたらしい。

入院の運びとなる。


読んだ瞬間、颯太の背筋がぞわりとした。


「ファロー四徴症……」


心臓の先天性疾患であり、重症度が高い場合は早期の手術が必要になる。しかし、合併症や血流障害が複雑に絡むケースが多く、手術を断られる患者もいる。ましてや、当時の医療技術で救える可能性は今よりも低かったはずだ。

そんな患者が、父の手によって「入院の運びとなる」と書かれている。

つまり、父はその患者を見捨てず、受け入れる決断をしたのだ。ページをめくる。


「4月7日」

──N君は人生に絶望している。

生きることをあきらめている。

自分がいたら家族に迷惑をかけるばかりだと泣いていた。

抱きしめた。

N君が颯太と重なった。


「……N君?」


手が止まる。父の事件の患者……もしかして、これが……?ページをめくる速度が、一気に鈍くなる。目が文字を追うたびに、鼓動が不規則に乱れた。たしか…患者の名前は、「西浦栄真」だった


「西浦君…」


父は、過去の自分と何かを重ねるようにして、その患者と向き合っていたのだろうか。

西浦がどれほどの絶望を抱えていたのか、文字だけでも痛いほど伝わってくる。


──生きることをあきらめている。

──自分がいたら家族に迷惑をかけるばかりだと泣いていた。


その言葉を読んだだけで、胸が締め付けられる。患者がどれだけ追い詰められていたのか、手帳の文字からひしひしと伝わってくる。そして、父は、彼を抱きしめた。何も言わずに、ただその小さな体を支えたのだろう。それがどんな感情だったのか、父は詳しくは書いていない。

一度、ページを閉じようとしたが、手が動かない。まるで父が、最後まで読めと言っているような気がした。深く息を吸い、震える指で次のページをめくる。


「4月8日」

──手術および治療は父親が猛反対している。

母親が検査の同意書に署名してくれた。

体調を考慮しながら検査をすすめる。


ここまで読んで、めくる手を止めた。


「……俺は、本当にこれを知っていいのか?」


その疑問が、急に心の奥底から湧き上がってくる。父は、本当に西浦を救おうとしたんだろう。失敗する覚悟だったのか?過信していた?同情…?それとも……本当に医療ミスを犯したのか?


これまで、"事件"としてしか知らなかった出来事が、目の前の手帳には父の生々しい言葉で目の前に記されている。

まるで、父がそこにいて、苦悩しながらペンを走らせているかのように。


心臓が、痛いほどに高鳴る。

鼓動が耳の奥に響き、手のひらがじっとりと汗ばむ。


「……父さん……」


小さく呟いた。

父が、どんな思いでこの手帳を書いたのかを思うと、胸が締め付けられるようだ。


自分がこれまで思い描いていた父の姿と、今、目の前の手帳に書かれている父の姿が、どこか違う気がする。父は、優しい人だった。医者としての矜持を持っていた。

でも。

この手帳の中の父は、悩み、苦しみ、必死に誰かを救おうとしている。颯太の知らない、医者の顔をした父がいた。震える息を整えながら、ゆっくりと目を閉じた。


そして、再び手帳に視線を戻す。この先に何が書かれているのか。怖くてたまらなかった。

それでも、知るべきなのだ。自分は、父の息子なのだから。

──そして、ページを、そっとめくった。


震える指で、ゆっくりとページをめくる。目の前に現れたのは、「4月10日」の文字。


まるで、ここまで読み進めることを待ち構えていたかのように、父の文字が規則正しく並んでいた。まっすぐで迷いのない筆跡は、どこか冷静さを保とうとしているように見えた。その裏に込められた父の感情を想像するだけで、颯太の喉がひどく渇いていく。


「4月10日」

──N君の検査結果がそろった。

やはり、重度の状態だ。


〈検査結果〉

・動脈血酸素飽和度(SaO₂):68%(正常値 95~100%)

・右心室肥大(RVH):著明

・肺動脈狭窄:圧較差 80mmHg(重度)

・大動脈の騎乗率:約50%

・心室中隔欠損(VSD):9mm(極めて大きい)

・心拍出量(CO):3.2 L/min(低下傾向)


──やはり、状態は深刻だ。このままでは、長くはもたない。

──明日は循環器チームでカンファレンスを行う。どの手術方法が最適か、慎重に検討しなければならない。


目を走らせるたびに、息苦しさが増していく。手のひらにじっとりと汗が滲み、指先がじわじわと冷たくなる。酸素飽和度**68%**という数字が、視界に焼き付いて離れない。


──68%。


通常の人間なら95%以上が当たり前の酸素飽和度が、彼の場合はそのはるか下にある。身体の隅々まで酸素が行き渡らず、動くだけで息切れし、常に苦しさを抱えたまま生きている状態だったのだろう。そのうえ、肺動脈狭窄の圧較差は80mmHg。これは心臓が血液を送り出そうとしても、狭くなった血管がそれを阻み、右心室に過剰な負担がかかっている証拠だ。


さらに、大動脈の騎乗率50%。これは、心臓の中で本来左心室にのみつながっているはずの大動脈が、心室中隔欠損によって右心室にもまたがるように位置していることを意味する。結果として、酸素の少ない血液が全身に巡ってしまうのだ。


──このままでは、確実に助からない。


ページをめくる手が、再び止まった。

息を吸おうとしても、胸が詰まるようで上手く空気が入ってこない。喉がひりつくように乾いているのに、唾を飲み込むことさえできない。背中にじっとりと汗が滲み、シャツが張り付くのがわかった。


──読めない。


視界が歪み、文字が滲む。まるで、目の前に火花が散っているかのような錯覚に陥る。


「……っ、だめだ……」


手帳を閉じた。

強く、乱暴に、まるでそれをこれ以上開くことが許されない禁忌の書物かのように。

だが、それでも、父の言葉を遠ざけることはできなかった。閉じられた手帳の中には、まだ続きがある。そこには、聡太の知りたかった事件の核心に触れる何かが書かれているかもしれない。それなのに、今の自分には耐えられそうになかった。


このまま部屋にいるのが、苦しくてたまらなかった。

手帳を強く胸に抱えたまま、颯太は乱れた呼吸を整えようとするが、肩が小刻みに震える。逃げ出すように部屋を飛び出し、自分の部屋へと向かった。

自室の扉を開けるなり、手帳を机の上に置く。

その場に立ち尽くしたまま、何をするべきかもわからず、ただ動悸の激しさだけを感じていた。意識がかすかにぼやけている。


──外の空気を吸わなきゃ。


身体が勝手に動いた。窓へ駆け寄り、思い切りそれを開け放つ。


「……っ、はぁ……はぁ……」


冷たい風が、室内に流れ込んだ。

強い風がカーテンを大きく揺らし、頬を撫でていく。その冷たさが、焼けるように熱くなっていた肌を一瞬で冷却する。夜の街灯がぼんやりと滲んで見えた。

目を閉じ、肺いっぱいに外の空気を吸い込む。

──けれど、それだけでは、胸のざわつきは収まらなかった。


こんなにも簡単に動揺してしまうとは思わなかった。医者として、日々多くの患者と向き合い、時には厳しい現実も突きつけられる。そのはずなのに、なぜ、ここまで動揺してしまうのか。


それは、この手帳が「患者の記録」ではなく、「父の記録」だからだった。


「……っ、くそ……」


窓枠に額を押し当て、拳をぎゅっと握りしめる。やっぱり、一人で読むのは無理だ。

この手帳の続きを開けば、間違いなく"事件"の核心に触れることになる。それに向き合うには、どうしても気持ちの整理が追いつかない。


──誰かと一緒に、読まないと。


頭の中に、ある人の顔が浮かんだ。

真田先生。

先生なら、きっと一緒に読んでくれるはずだ。父の事件の真実を知りたがっていたのは、自分だけじゃない。


「……明日、先生に話そう」


ようやく、一つの決断を下す。冷たい風に吹かれながら、ゆっくりと手を伸ばし、窓を閉めた。振り返ると、机の上に置かれた手帳が目に入る。

──次に開くときは、一人じゃない。

そう誓うように、颯太は手帳をそっと手に取り、慎重にカバンの奥へしまった。

震えはまだ完全には収まらない。けれど、確かに心の中には、一つの"道筋"ができていた。


「……父さん、待ってて。ちゃんと読むから」


再びそう呟き、ゆっくりとベッドに腰を下ろした。目を閉じると、今も手帳の中の父の筆跡が、まぶたの裏に焼き付いている気がした。


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