病院の屋上で、颯太は青い液体の入ったボトルを手にしながら、遠くの景色を眺めていた。
もちろん、これは木村先生からもらった例の海外のドリンクだ。
甘くて独特な香りがする。
──思えば、長かった。
父の名誉を回復するためにここまで走り続け、ついにすべてが明らかになった。
病院の体質は変わり、黒沢は姿を消し、前院長も自身の過ちを認めた。
そして、颯太は医者としての決意を新たにした。
これから、この病院をどう守るか──それが、次の課題だった。
そんなことを考えながら、ふと隣を見る。
そこには、真田先生の姿があった。まるで、当たり前のようにそこにいる。それが、なんだか不思議で、少しだけ安心した。
「先生、やっと終わりました。」
静かに言うと、真田先生は、少しだけ目を細めて微笑んだ。
「ああ。お前の母親も喜んでいたな。」
「はい。僕の前では笑っていましたけど、僕が部屋を出た後、泣いていました。」
そう思い出すと、胸が温かくなった。
──母は、ずっと父のことを信じていた。
──ようやく、それが報われたのだ。
「……俺も、兄の死の真実がわかってよかったよ。」
真田先生が、ぽつりと呟く。それは、まるでここに留まる理由がなくなったかのような言葉だった。
「もしかして、先生が幽霊になってからも、この病院から出られない理由って……お兄さんの真実を明かしたかったからじゃ……」
「……そうかもしれないな。」
その瞬間だった。真田先生の姿が、うっすらと薄くなっていく。
「先生っ!」
颯太は思わず声を上げる。まだ、消えないでくれ。けれど、真田先生は、どこか満足したような表情を浮かべていた。
「これからも鍛錬を怠るな……」
「はい……」
「プライドを高く持つな。」
「はい……」
「医療は進化し続けるんだ。忘れるな。」
「はい……」
「……俺はいつでもそばにいるぞ。」
「はい!!」
そう言い残し、真田先生の姿は、ふっと消えた。屋上に吹く風が、少しだけ強くなった気がする。いなくなってしまったのか?
「……真田先生……俺、やります。」
自然と、涙がこぼれる。父の無実を証明できた。でも、それだけでは終わらない。これからは、自分が医者として何を成すかが問われる。その思いが、じんわりと胸を満たす。
と、その時だった。
「わっ!!」
「うわぁぁぁぁぁぁあああ!!」
突然、背後から大きな声が響き、颯太は驚いて尻もちをついた。驚いて振り返ると、そこにはにやりと笑う真田先生の姿が。
「そんな簡単に消えないな。」
「ちょ……ま……!!」
呆然としながら、颯太は真田先生を見上げる。
「……先生、消えたんじゃ……!?」
「まあ、まだ少し気がかりがあってな。」
「なんなんですか、それ!? さっきの感動的な雰囲気、返してくださいよ!!」
「感動的な雰囲気なんて、俺には似合わない。」
そう言いながら、真田先生は肩をすくめる。
「それに……もう少し、お前の成長を見ていたいしな。」
「……本当は、ただ見守るのが好きなだけじゃないんですか?」
「かもしれないな。」
真田先生は、どこか楽しそうに笑った。まだ、そばにいてくれるのか。そのことが、なぜか嬉しかった。
「真田先生、先生が成仏するまで、一緒にいてください。」
「そうだな。飽きるまではな。」
にやりと笑う真田先生の顔を見て、颯太もふっと微笑んだ。
すべてが終わったわけではない。むしろ、ここからが本当の始まりなのかもしれない。これから、自分はこの病院で何を成し遂げるのか。父が守ろうとしたものを、どうやって受け継ぐのか。それを考えながら、青い液体の入ったボトルを軽く振る。
甘くて独特な香りがする、木村先生にもらった海外のドリンク。今、この一口がいつもより少しだけ美味しく感じられた。
「さて……そろそろ行きますか。」
そう言って立ち上がろうとした時、屋上の入り口から小さな声が響いた。
「あっ、やっと見つけた!」
振り向くと、由芽がこちらに顔を出していた。額には少し汗が滲み、急いで探していたことが分かる。
「颯太、早く来て。気になる症状の患者さんがいるのよ。」
由芽の言葉に、颯太は少し驚いた後、そっと笑う。
変わらない日常が、すぐそこにある。父のことがあっても、それが解決しても、由芽は以前と変わらずに自分を探してきた。
まるで、さっさと医者に戻れと言わんばかりの態度だ。
「……由芽、俺の父親のことがあっても……解決しても……いつも通り接してくれてありがとう。」
そう言うと、由芽はふっと目を丸くし、すぐに頬を赤らめた。
「あ、あたりまえじゃない。」
少し気まずそうに目をそらしながら、照れ隠しのようにそっけない声で続ける。
「ほら、行くよ!」
「ああ、わかったって。」
そう言いながら、颯太は由芽の後を追う。由芽は、まるで子供を急かす姉のように、後ろから軽く背中を押してくる。
いつもと変わらない、日常の風景。
これからも、この病院ではたくさんの患者が訪れる。助かる命もあれば、助けられない命もある。それでも、自分はここで医者として生きていくのだ。
由芽とともに、病院の廊下へと消えていく颯太を見送りながら、屋上に残った真田先生は、ひとり微笑んで呟いた。
「あいつも、まだまだだなぁ。」
そう言いながら、ふっと風とともに消えていく。
だが、見守るのはもう少しだけにしておこう。
彼が本当の医者になる、その時まで。
澄み渡る青空が、未来へと続く道を照らしていた。
──完──