目の前の人が凄く憎く思える。だって、そんなはずがないんだ。俺を庇って自分を捨てた人だ。俺を常に気遣ってくれる人だ。気遣って……でも俺がやれると思う時には頷いて背中を押してくれて、手が足りない時には惜しみなく手を貸してくれる。
伸ばされた手を、俺は初めて乱暴に払った。
「何を根拠に、クナルの言い分を突っぱねたんですか?」
「現にこうして乱暴の痕跡が」
「クナルが先程言った事でも、同じようになりますよね?」
「私は嘘なんて!」
「彼の事を何も知らないで疑う人を俺が信用する事はできません! 何より今回のリヴァイアサン討伐は彼がいないと困ります! それは貴方だって困るじゃないですか!」
睨み付けた夫人は……まるで物を見るような目で俺を見ていた。
「別に、あのような男がいなくとも大丈夫ですわよ」
「何を根拠に……」
「だって、聖人様がいてくださいますもの」
「!」
「それに、現状困っていませんわ」
言っている意味が分からない。困っているから俺達は呼ばれたんだ。実際紫釉は困っていた。彼等だって商人が不安がって今度の事があるからって……。
嘘、なのか? それともこの人は最初から俺をここに呼ぶのが目的だったのか?
困惑する俺の肩を誰かが叩く。驚いて見た先に、シルヴォがいた。
「ここに居ても無駄だよ」
「シルヴォ」
「行こう」
言われて、躊躇って……肩を落として俺は従った。
部屋に戻るとシルヴォが温かいお茶を淹れてくれた。それを飲み込んで……俺は奥歯を噛んだ。
「クナルはそんなことしていない」
「していないと思うよ」
「!」
思わぬ肯定の言葉に顔を上げる。だがシルヴォは暗い目をしたままだった。
「言っただろ? ここはあの女王の庭なのさ。ここでは白だって黒になる。赤だって言えば何でも赤だ」
「どうして」
「それが分かれば僕も苦労はしていないんだよ」
そう重い息と共に吐き出された言葉は既に諦めたものだった。
「数日で父上が来ると言っていたけれど、それも怪しいかも。こちらに二人が来たら連絡する手はずになっていたから」
「そんな! だって、困って!」
「困ってるよ、僕達は。でもあの人は困っていないんだ。現実が、現状が見えていないからね」
「っ」
もう、何を言えばいいか分からなかった。
「とにかく今日は鍵を掛けて……可能なら結界を張って寝る方がいいよ」
「……うん」
「……明日、何か動きそうなら知らせるから」
気遣いの言葉を残してシルヴォは部屋を出て行った。
残された俺は悔しくてたまらない。クナルは絶対にそんな事をしていない。そう言いきれるのに「証拠は?」と言われると何も出せない。見ていないから。
そもそも困ってないのに呼ばれたって何? アントニーが来ないってどういうこと? それは今回の作戦を共同で行っている紫釉だって困る事なのに。
でも、分かっている。他人が困っているから、なんて考えがある人はこんな事できない。自分が良ければ他なんてどうでもいいという身勝手な人だからこそこんなに横暴な事が出来るんだ。
「っ」
また、ドロドロした気持ちが出てくる。これは憎しみ? 恨み? 憤り? 分からないけれど、良くない事は分かる。だからって消し去ろうとも思えないんだ。
『キュイ』
「キュイ?」
不意に頬に柔らかな感触が触れる。キュイが俺の頬に体を擦り寄せていた。
「……そうだ、キュイなら!」
現状を知らないからこれが出来る。シルヴォは知らせる手段を持たなかった。でも俺にはキュイがいる。
「キュイ、手紙を書くから殿下に伝えて! できる?」
『キューィ!』
まるで「任せろ!」と言わんばかりの凜々しい目をしたキュイを見て、俺は急いで手紙を書いた。手紙っていっても長ったらしいものは書けない。短く用件だけを書いて、それを小さく丸めてリボンで縛ってキュイに括り付けた。
「これで大丈夫かな? 落とさないかな」
『キューゥ!』
「大丈夫!」と言われた気がする。それを信じて窓を開けるとキュイはそこからスルリと外に出て、まるで稲妻みたいな速さで王都方面へと屋根を伝って走っていった。
お願い、伝わって。こんな冤罪をかけるくらいだから、まともな取り調べなんてしない。きっと何か要求があるんだ。それを飲まなければクナルは解放されない。
情けない、祈るしか出来ないなんて。俺を沢山助けてくれたクナルを助ける手段がないなんて。
でも、絶対に助け出すから。それまで待っていて。
眠れぬ夜は過ぎていって、結局外が明るくなっても眠れる様子はなくて……俺は翌朝を迎えるのだった。
§
翌日も俺は夫人に同じ訴えをした。だが「取調中」という事しか言わず、面会もさせてもらえなかった。
部屋に戻って頭が痛くなってただただ俯いて悔しさに震えていると、不意にノックの音がした。
出る気力はあまりない。でも相手の方から声をかけてくれた。
「マサ殿、いる?」
「シルヴォさん」
フラフラと立って出ていくと軽い食事をトレーに乗せたシルヴォがいて、俺の顔を見て眉根を寄せた。
「酷い顔だね。まぁ、分かるけれど」
「ごめん」
「謝るのはこちらのほうだよ。強欲は醜いよね」
そう言って苦笑して入って来た彼がテーブルセットに軽食を置く。でも、食べられる気がしなかった。
「食べなよ。体力もたないよ」
「食欲なくて」
なんて、飲食店経営者が言うのもどうなんだろうな。
でも本当に食欲がない。まず美味しそうに見えないんだ。気の持ちようでこんなに違うんだって、改めて感じた。
そんな俺を見て、シルヴォは離れて座ったまま小さく呟いた。
「ちょっと羨ましいかな」
「え?」
「クナル殿の事。こんなに思ってくれる相手がいるなんて、羨ましいなって」
「そんな」
「僕にはいないよ。母だって僕の事は便利な道具くらいにしか思っていないんだ。父も帰ってこないしさ」
否定……しようと思ったのに出来なかった。アントニーの方は分からないけれど、夫人の方は分かる。あの人が自分以外を大事になんて、想像ができなかった。