祈里ちゃんと日下部さんが帰り、一人きりになった事務所。
ソファーに深く腰かけて、天井を仰いだ。目を閉じれば、今でも祈里ちゃんと出会った、三年前のあの日のことを鮮明に思い出すことができる。
『コスモプロダクション』を立ち上げたのは、祈里ちゃんと出会う半年前。大学時代に所属していた演劇サークルの同期や後輩数名と共に歩みだした事務所だった。
俺は俳優になる夢を大学卒業とともに諦めてしまったけれど、またこうやって仲間たちと一緒に夢を追いかけられることが嬉しかった。小さな事務所で、起業時こそ日下部さんに金銭面でフォローしてもらったけれど、営業も少しずつ成果を出し、半年ばかりで運営が軌道に乗ろうとしていることも誇らしいと思っていた。夜が明けるまで語り合った、仲間たちとの夢を一つずつ叶えていける――そう、未来への明るい道を、見つけたと思った矢先。
「やっぱり、俺たちも良い年齢だし……いつまでも、こんな遊びみたいなことしてられないだろ」
同期の一人がそう言って辞めていったのを皮切りに、一人、また一人とコスモプロダクションを離れていった。一年も経たず、誰もいなくなってしまった。仲間たちが言っていることも理解できないわけじゃない。俺たちは何年も何年も土の中で、いつか芽が出る日を待っていて、これ以上待てないという気持ちもよく分かる。けれど、残ったのは喪失感と絶望だけ。資金だって微々たるものしか残っていない。日下部さんに追加で融資してもらうことも考えたけれど、俺ひとりだけでは彼を納得させられる魅力なんて何もない。事務所を畳む以外の選択肢が見つからず、俳優を諦めたときと同じように、もう辞めてしまおうと考えている自分が、何より情けなかった。
祈里ちゃんと出会ったのは、そんなときだった。
あてもなく歩いていた繁華街。雑踏の中で、彼女はまるでスポットライトを浴びているかのように、俺の目は惹きつけられた。
一目惚れ、だったのだと思う。
気付けば彼女の腕を掴んで、「すみません」と声を掛けてしまっていた。
ファミリーレストランのボックス席。向かいに座った彼女はぼんやりとした瞳で、俺が差し出した名刺を眺めていた。
「コスモプロダクション……」
「そう。立ち上げたばかりの小さい芸能事務所なんだけど。芸能活動に興味ないかな」
思わず声を掛けてしまった手前、芸能事務所のスカウトであると無理くり取り繕ったせいで、なんて怪しくて、なんて嘘くさいセリフなんだろうと思った記憶がある。
「本当に、健全な芸能事務所で……」
相槌もなく黙ったままの彼女に、自分も口を噤む。
浮足立つような、舞い上がるような自分の心が、この沈黙によって落ち着いてきたことで、ようやく彼女がしっかりと視界に定まるのを感じる。見れば見るほど、祈里ちゃんはとても綺麗な子だった。けれど、その腕や頬に殴られたあとのような赤みや痣があることに気付いてしまって、先ほどとは違う別の意味で心臓がばくりと跳ねた。
「すぐ……お金になるような仕事があるのなら……」
ゆらめくように祈里ちゃんの視線が上がる。そう言って俺を見るその祈里ちゃんの瞳は、目の前の俺のことなんて全く見ていなくて、すべてを諦めているような虚しさが溢れていた。
それから、祈里ちゃんと二人三脚での活動が始まった。
祈里ちゃんはとても綺麗な子だったけれど、とても複雑な環境に身を置いていることを知った。何度も転々と家を変えなければいけなかったり、撮影現場にまでやって来る借金の取り立て。そのたび彼女は申し訳ないと俺に謝って、「辞めさせて欲しい」と訴えた。
けれど、俺は何度もそれを拒んだ。彼女が好きだったから、というのももちろんあるけれど、それだけではなかった。
すぐにお金になる仕事が欲しいと口癖のように祈里ちゃんは言っていたけれど、どんなに小さな役でも彼女はいつも一生懸命で、真剣で、いつからかカメラに向ける祈里ちゃんの大きな瞳はキラキラと輝くようになっていたから。祈里ちゃんが心の底から、この仕事を楽しんでいるように自分には見えたから。
自分に、彼女の借金をすべて肩代わりできるくらいの力と財力があれば、どれほど良かっただろう。でもそれができるほどの力は自分にはなくて、ならばせめて、『コスモプロダクション』を彼女の居場所にしてあげたかった。
一人の女性として祈里ちゃんに恋をしていたけれど、それだけじゃなくて、俺は、女優・羽柴祈里のファンになっていたから。
目を開ける。事務所の壁には、先日事務所宛てに送られてきた『Tutu』の大きなポスターが額に入れられて飾ってある。ポスターの中の祈里ちゃんは、アンニュイな雰囲気で微笑んでいて、決して濃い化粧ではないのに華やかさと艶やかさを纏っていてとても綺麗だ。
自分がこの魅力を引き出してあげたかったな、と日下部さんにほんのりと嫉妬心を覚えながらも、彼だからこそ引き出すことのできた祈里ちゃんの一面だと思う。
(まさか二人が知り合いだなんていうのは知らなかったけれど)
あの日、「一生のお願い」と言った祈里ちゃんの願いを叶えるため、自分が日下部さんを頼ったことも、二人が再会したことも、きっと運命だったのだろう。
俺にとって祈里ちゃんが、この世界でもう一度頑張ろうって思える運命の相手だったのと同じように、祈里ちゃんにとってのその運命の相手は、俺が知らない昔からずっと日下部さんなのだろう。
「敵わないなぁ」
薄々と、二人の関係に気付き始めていたときから思っていた。彼女の目には、ずっと日下部さんしか映っていないこと。なんて愛おしそうに、そして幸せそうな顔をするのだろうと。
祈里ちゃんへの恋心は、随分と前から自分の中で見切りをつけていた。俺が見たかったのは、祈里ちゃんが幸せな人生を歩んでいくところだったから。芸能界で瞬く間に輝き始め、家庭環境も改善されつつある。恋愛もうまくいきそうな雰囲気に安堵する。いつだったか、彼女が俺のことを「お兄ちゃんみたいだ」と言ってくれたように、俺から向ける彼女への愛情もそれに近いものになっているように思う。今日、祈里ちゃんと日下部さんから直接話を聞いて、きっぱりと踏ん切りがついた。
それなら、とソファーを立つ。祈里ちゃんのスケジュールやオファー依頼の資料が積まれたデスクへと移動して、オフィスチェアに座り一度大きく伸びをして気合を入れる。
(一層、力を入れて取り組まないとな)
今後、どこかで二人の熱愛報道が出たときに、祈里ちゃんのことも日下部さんのことも守ってあげられるように、取引先だけでなくファンとの絆もより強固なものにしていかなければならない。桜井さんとのときは大丈夫だったからと、あぐらをかくわけにはいかないのだ。
恋愛をしていてもファンを大切にし、企業に対してもマイナスのない、恋愛がプラスになるように働きかけるには、どうアプローチしていくのが良いだろうか。恋愛観について語る雑誌の取材など、これから積極的に受けていくのもいいかもしれない。できるだけ素に近い祈里ちゃんを知ってもらうことでいい方向に働けばいいのだけれど……。
「すみませーん、誰かいますか?」
「あ、はい」
事務所内に凛とした声が響き、顔を上げる。
ドアからこちらに顔を覗かせている、艶やかで長いストレートヘアと、大きな黒いサングラスがよく似合っている女性に見覚えはない。今日、来訪の予定はあっただろうかと思考を巡らせる。
「私、コスモプロダクションに入りたくて。履歴書、見ていただけますか?」
真っ赤なリップはとても印象に残る。計算されたように美しく完璧に口角を上げて、その人は微笑んだ。