楽しい時間はあっという間に過ぎ去っていく。
本当は観覧車の中で想いを伝える計画をしていたのだけれど、乗り物酔いをしたり、ファンに見つかってしまったりで色々と予定が変わってしまった。観覧車の中では普通に他愛もない話をして景色を楽しんだだけで、本題を切り出せないまま一周してしまって地上に下りた。そのあとも、なかなかタイミングを掴み切れずに陽が暮れ始めて、遊園地の電飾にも明かりが灯り始める。
間もなく閉園を迎えるというアナウンスが園内に響く。人々が退園ゲートへと向かって歩き出す。
「俺たちもそろそろ帰ろうか」
「……うん」
数歩前を歩く日下部くんの背中についていく。
結局何も言えないまま、一日が終わってしまうのだろうか。明日からは私も映画の撮影が始まって忙しくなる。日下部くんもまた忙しい日常へと戻っていってしまうだろう。次にゆっくりと話ができる日はいつになるのか。
(今日がこのまま終わっちゃうのは、絶対にいやだ)
「あの! 日下部くん、ちょっと待って」
手を伸ばして、日下部くんのシャツの背中を掴む。「うわっ」と引っ張られたことに驚いた日下部くんが声を上げた。
「どうした? なにか忘れ物、」
「あの、私……」
日下部くんのことが好き。たった一言、そう伝えたいだけだったのに。
ぽつ、と水滴が一つ、空から降ってきて私の鼻先を濡らした。
「あ、雨だ」
日下部くんが空を見上げて、手のひらを上に向ける。ぽつぽつと、ゆっくりと降り出したそれは、徐々に数を増やしていく。
「すぐに本降りになりそうだ、急ごう」
「う、ん」
日下部くんに手を引かれる。メリーゴーラウンドの幻想的な光が、日下部くんを美しく、そして儚く照らす。
後ろを振り返る。雨が降り注ぐ遊園地の中に、中学生のころの私が、ぽつりと佇んでいるのが見えた気がした。
ゲートを抜けて、遊園地最寄りの駅につくころには、私たちはすっかり濡れ鼠のようになっていた。日下部くんはシャツの裾をしぼりながら、「雨が降るなんて予報なかったのにな」とボヤいている。
日下部くんの言う通り、夕方ごろから雲が広がると今朝の天気予報では言っていたけれど、雨が降るなんて予報はなかった。「まいったね」と笑う自分の声が、震えてしまうために急いで口を噤んだ。日下部くんのほうは見ることができなかった。
「明日から撮影だろ? 少しでも体が冷えないうちに帰ろう。体調崩したらいけないし」
「うん」
今からでもきっと話せば、日下部くんは聞いてくれる。ただ、タイミングを逃してしまった自分には、もう一度勇気を振り絞る体力が残っていなくて情けない。荒木さんに話をして、もう逃げることはしないってあんなにも覚悟した気持ちは、隙間から顔を覗かせた昔の私によって怖気づいてしまっている。
突然の雨で、私が話を切り出したことを日下部くんが忘れてしまっている様子なのが救いだろうか。「なんの話だった?」と聞かれても、たぶん今の私は、「なんでもない」って言ってしまう気がするから……。
駅構内の電光掲示板を見て、次の電車の時間を確認している日下部くんの手に、そっと自分の手を絡める。雨で少し冷えてしまった手に互いの体温が滲んで心地が良いけれど、ちょっとだけ胸が詰まって、目の奥が熱くなるのを感じた。
「手、繋いで帰ってもいい?」
「うん」
「どうした?」と、日下部くんが優しく笑う。やっぱり私はそれに「なんでもない」と返す。でも、さっきまでとは違う。きっと上手に微笑むことができた。私は女優で、日下部くんが、「演技が上手だ」と桜井さんに私のことを褒めてくれたように、私はずっと、自分の気持ちを隠すのが上手だから。日下部くんに気付かれないまま、今日を終えることができるはずだ。
夜が明ける。ひどく雨に打たれたあとだったけれど、日下部くんも私も体調を崩すことなく目覚めることができた。
「今日、何時に出るの?」
朝のニュースをチェックし終わった日下部くんが、荷物の最終チェックをしている私を振り返る。
「もうあと十分くらいしたら出る予定」
「駅まで送っていこうか?」
「ううん、大丈夫だよ。日下部くんも今日仕事があるんでしょ? 昨日、私のわがままで遊園地に一緒に行ってくれたんだし、ちょっとでもゆっくり体休めて」
「別に疲れてないけど……」
「いいから。駅もすぐ近くだし、私は大丈夫」
譲らない私に、日下部くんは少し不満そうに唇を尖らせながらも「わかった」と頷いてくれた。
「帰ってくるときは連絡して。それは迎えに行かせてほしい」
「うん、わかった」
五泊六日分の荷物が入った大きめのスーツケースの蓋を閉める。よし、と自分の身なりもチェックして、出掛ける準備はこれで万端だ。
今回の映画撮影は二ヵ月を予定されている。ただ最初の五日間は遠方での撮影を行うことになっていて、今日から泊まりで撮影に挑む。今回の映画はオーディションではなく、出演オファーを引き受けた形だから、監督も撮影隊も初めてお会いする人ばかりで少しだけ緊張する。ただ、今回はルイちゃんも一緒に出演することが決まっているから楽しみでもあるのだけれど。荒木さんもこの五日間は現場に同行してくれるらしいから、その点は安心だ。
壁に掛けられた時計を見る。もうそろそろ出発しなければいけない時間だ。
スーツケースなどの荷物をもって玄関へと向かう。日下部くんも見送りをしてくれるようで、私の後ろをついてきてくれた。
「それじゃあ、行ってきます」
「ああ。何かあったらいつでも連絡して」
「日下部くんも。仕事、頑張ってね」
「それはこっちのセリフ。撮影、頑張れよ」
うん、と頷く私に、日下部くんが一瞬眉をしかめたと思ったら、腕を引かれて、日下部くんの胸元へと引き寄せられた。
同じ洗濯洗剤を使っているはずなのに、ほのかに香る服の香りは私のものとは少し違っていて、上がる心拍数に頭がくらくらとしそうになる。
「ごめん、充電」
「充電?」
「そう。祈里メーターを」
この休みが楽しすぎたから、祈里と離れたらすぐに空になりそう、と言う日下部くんは可愛らしい。思わず笑ってしまう。
「……私も。日下部くんメーター、満タンにしとく」
なんて自分がずるいんだろう。ハッキリ気持ちも伝えられる勇気もないのに、日下部くんに求められたら嬉しくて、私もそれに甘えて日下部くんにくっついて。
「……ねぇ、日下部くん」
「うん?」
私から体を離そうとする日下部くんの体を、背中に回した腕にぐっと力を込める。
「このまま聞いて欲しい」
「……ああ」
「今回の映画撮影が終わったら、話したいことがあるの」
二ヵ月も待たせてしまうことになるけれど、もう一度、日下部くんに私の気持ちをしっかりと伝える時間が欲しい。今度こそ、怖気づかないで私の想いをちゃんと伝えるから。もう、あなたから逃げたりしないから。大丈夫だよって、ちゃんと過去の私に話をするから。
「待っててくれる?」
「うん、待ってる。どんな話かは分からないけど、祈里の話が聞ける日を楽しみにしてる」
「ありがとう」
もう一度、どちらともなく互いに体を引き寄せ合って強く抱きしめ合う。たった数日離れるだけなのに、長い時間離れ離れになるみたいなことをする自分たちがおかしいって分かっているのに、寂しくなることがないように日下部くんの香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
「それじゃあ、行ってきます」
「いってらっしゃい、気を付けて」
日下部くんの優しい声に送り出される。
まだこの日の私たちは、これからの未来に本当の不安なんて抱いていなかった。