全ての仕事が終わって、家に帰るころには二十二時を過ぎていた。
玄関扉を開けて家の中に入れば、ほんのりと漂うルームフレグランスの甘い香りに出迎えられる。
やっと家に帰って来たのだと、強張っていた肩の力が抜けた。
ドッと疲れが押し寄せてくる。靴を脱いだら、そこでもう動けなくなってしまって、壁に寄りかかって座り込んだ。
体育座りをした膝に顔を埋める。深く息を吐いて、目を閉じた。
「……り、祈里」
肩を揺すられる。顔を上げれば、心配そうな顔をした梓くんが目の前にいた。
「大丈夫?」
梓くんの髪は濡れていて、肩にかけられたバスタオルに水滴を落としている。お風呂から上がったばかりのようだ。
どれくらいの時間、私はここで座り込んでいたのだろう。
「ごめん、ちょっと寝てたみたい」
「疲れてる?」
「うん、少しだけね」
ああ、そうだ。梓くんにお父さんに会ったことを伝えなくちゃ。
でもこれを話したら、きっとまた、梓くんに心配かけてしまうだろうな。いつまでこんな生活が続くのだろう。
溜息を吐きそうになるのを、奥歯を噛み締めてこらえる。梓くんが私の背中を、慰めるように優しく撫でてくれた。
「なにかあった?」
「あのね……お父さんが、来たの」
梓くんが息を飲む。空気が少しだけ張りつめるのを、肌で感じる。
「……どこで会ったの?」
「撮影が終わって、次の打ち合わせに移動する前。待ち伏せされてた」
「それで? なんて言ってた?」
「いつもと同じ。助けて欲しいって。お金ならいくらでも持っているんだろうって……。荒木さんが助けてくれたから、逃げ出すことができたけど」
梓くんは舌打ちすると苦い顔をして溜息を吐いた。
「いつまで、こんな風にビクビクしながら生活しなくちゃいけないんだろう」
迷惑かけてごめんね、と梓くんに頭を下げた。
「謝るのは俺のほうだ。守るって言っておきながら、何もできてない……」
「梓くんは何も悪くないよ」
家の場所も知られている。コスモプロダクションの事務所だって知っているだろう。私の後をつけることなんてとても簡単なことで、お父さんはタイミングを見計らっていただけだ。
この数日静かだったのは、私の周囲に近藤組の組員や、お父さんにとって不利益になる何かがないことを確認していたのかもしれない。
「とにかく今日は、荒木さんが祈里の傍にいてくれてよかった」
「うん、本当に。私だけだったら、どうにもできなかったかも」
「祈里に近付けないって分かったら、もう来なくなると思う。俺も何か方法を考えておくから」
「うん、ありがとう」
梓くんの手が私の頬に触れる。そのまま髪を耳にかけられて、私は目を閉じた。梓くんのお風呂上りで温かい唇が、私の唇に触れた。
「梓くんの言葉を、ずっと頭の中で繰り返してた」
「うん?」
「祈里は、祈里の幸せのために生きていいんだって、言ってくれたこと。私は今すごく幸せだから。この幸せを絶対に手放したくない」
梓くんにもらったピンキーリングに触れる。自分の決意と小指を結んでいるような気持になれる。絶対に破りたくない約束なんだ。
梓くん、荒木さんと話し合って、真希乃ちゃんと久留生さんにも状況は伝えておいたほうがいいと言うことになった。
翌日、事務所の中で二人は最後まで真剣に話を聞いてくれて、怪しい人物を見かけたらすぐに報告してくれるとのことだった。
一緒に仕事がある日は、極力離れずに行動しようということにもなった。
「祈里ちゃんも、私と同じくらいの長さまで髪切る? こんなことになってるんだったら、私、髪切らなかったのに」
真希乃ちゃんはそう言って、顎ラインほどまでしかない自分の毛先を指で触った。
「背格好も似てて、ヘアスタイルも似てたら、パッと見騙せるかも」
「そんな、真希乃ちゃんに迷惑かけられないよ」
「迷惑だなんて。祈里ちゃんが危ない目に遭うほうが嫌だよ」
「ありがとう。でも、お金をせびられるくらいだから。大丈夫だよ」
私に近付くことがないことはもちろんだけれど、私がお金を絶対に渡さないって分かったらもう現れないと思う。あと少しの辛抱だ。
お母さんの病院にも、お父さんがもし尋ねてきても決して中に通さないようにと伝えてある。体調を崩した理由も知ってくれているから、そこは大丈夫だろう。
私もお母さんも、もう、お父さんとは縁を切ったのだ。
「何か困ったことがあったらすぐに連絡して」
ソファーの向かいに座る久留生さんが言った。それに賛同するように、真希乃ちゃんは久留生さんの隣で「うんうん」と強く頷く。
「梓くんや荒木さんが傍にいられないときは、私たちも協力するから」
「ありがとう。助かるよ」
二人の優しさに胸がいっぱいになって、少しだけ潤んだ目を真希乃ちゃんは見逃してくれなかった。泣かないで、と身を乗り出して私の頭を撫でてくれる。久留生さんは慌てた様子でティッシュを取りに行った。途中、デスクやら資材の入った段ボールに激しくぶつかる音が聞こえてくる。荒木さんがそれに対して「落ち着いて」と笑った。その温かな雰囲気に自然と頬が緩んだ。
家に帰り、バルコニーに出て夜風に当たる。高層階から見渡せる夜の街をぼんやりと眺めていた。
「おお、結構寒いな」
カラカラと窓が開く音がして、軽く後ろを振り返れば梓くんが二つマグカップを持ってやって来た。
ふわふわとカップからは湯気が立っている。
「はい、紅茶ラテ」
「わ、ありがとう」
「インスタントのやつだけど」
「嬉しいよ」
黒と白のカップを梓くんは持っていて、白色のほうのマグカップを受け取る。水族館デートからの帰り道、立ち寄った雑貨屋さんで買ったものだ。今まで、梓くんがこれまで使っていた食器を使わせてもらっていたから、二人で選んだのは初めてだった。
ふぅふぅ、と息を吹きかけて、火傷しないように少しずつ飲む。優しい甘さが口の中に広がっていく。紅茶のほろ苦い香りに癒される。
「映画の撮影で、少し梓くんと離れたことあったでしょう?」
「ああ、羽風監督の映画の撮影で」
「うん。そのときに泊まった旅館で、こうやって夜風に当たってたの」
「うん」
まだ梓くんと正式にお付き合いをしていなかったころ。映画の撮影が終わったら、気持ちを伝えようって思っていた。
「ぽっかり夜空に月が浮かんでいて、梓くんと一緒に見たいなって思ってた」
隣に立つ梓くんへと視線を移す。
「だから、今日、それが叶ってよかったな」
自分で言って照れ臭くなって笑ってしまう。梓くんは暗がりでも分かるくらい顔を赤くして、「急にそういう可愛いこと言うのやめて」とぼやくように言った。
梓くんに一歩近づく。肩が触れ合った。
「……寒くない?」
「私は大丈夫」
「ん。じゃあ、もう少しだけ」
うん、と頷く。紅茶ラテが入ったマグカップを両手で包むように持つ。冷えた指先が温もっていく。
街の明かりは、梓くんと行った温泉旅館や、撮影期間中に梓くんを想いながら見た夜空の星のようだ。
都会は明る過ぎて満天の星空が見えないけれど、この街明かりが星空のようにとても輝いて見えた。
「ねぇ、梓くん」
遠くの街の明かりを眺めていた梓くんが「うん?」と私を振り向いた。
「これからも、ずっと一緒にいようね」
梓くんの肩に頭を預ける。
「うん」
寄りかかった私に寄り添うように梓くんも頭を傾ける。
「ずっと一緒にいよう」
肩を引き寄せられて、さっきよりも体が密着する。
夜風はまだまだ冷たいはずなのに、梓くんの触れ合ったところから熱が灯るような感覚がする。
優しい温もりに心が満たされていく。