グラゾンの入り口に入る頃には、雨が本格的に降り始め、ゾランたち一行を襲い始めた。馬車の幌を雨が叩き、風でガタガタと荷馬車が揺れる。何度か泥だらけになった轍に車輪が取られそうになったものの、この季節の移動に慣れている御者の手腕によってなんとか切り抜け、ホテルへとたどり着くことが出来た。
「皆様、お疲れさまでした。さあさあ、温泉の準備も出来ていますから、まずは温まってください」
「ありがたい」
「酷い嵐だった」
支配人に出迎えられ、護衛と商会の人間たちがホッと息を吐き出す。ゾランも雨に濡れた外套を脱いで、髪の雫を払った。
「あの、クレイヨン出版社のゾランと申します」
「ああ、あなたが。主人から話は聞いております。お二人とお伺いしたのですが……」
「仕事で後から合流する予定だったんですが、この嵐なので……」
「そうでしたか。お部屋の準備も出来ておりますので、どうぞこちらへ。温泉の方へ行かれるのであれば、荷物はお運びしておきますが」
「――じゃあ、そうさせていただきます」
荷物を預け、仲良くなった商会の人と共に温泉の方へと向かう。身体は雨で冷え切って、すぐに温まりたかった。
(エセライン――今どこにいるかな……。本当ならもうとっくにボヌールには着いて、俺の手紙を受け取っているはずだけど……)
本来の日程より、遅れているかもしれない。何しろあの嵐だ。エセラインもどこかで立ち往生しているかもしれない。
(……無事だと、良いけど……)
ハァとため息を吐いて、脱衣場に向かう。ゾランは温泉というものに入った経験はなかったが、風呂はある。カシャロには公衆浴場があり、何回かは利用したことがあった。上着を脱ぎ、ロッカーに仕舞っていると、不意にガタガタと大きく窓ガラスが揺れ、ヒュオオオオと風の唸るような音が響いてきた。
「わっ……!」
大きな音に、驚いて肩を震わせる。それを見ていた商会の男が、「すごいだろ」と笑った。
「この季節は嵐が多いって聞きましたけど……」
「ああ、多いな。都会の人はびっくりするだろう」
都会の人、という言葉に、ゾランは曖昧に笑う。ゾラン自身は田舎の出身だが、この商会の人間から見れば首都に暮らす『都会の人』なのだろう。
「どのくらい続くんですか?」
「この感じなら、明日には抜けているだろうな」
「えっ!? そうなんですか?」
意外な言葉に、驚いて声を上げてしまう。こんなにひどい嵐なのに、男性の話では朝にはすっかり嵐が去っているらしい。なんとも、不思議なことだ。
温泉を堪能し、軽い夕食を貰ってから部屋へと戻る。本格的な取材は明日からだ。それまでに、身体を休めておくべきだろう。
「はぁ……。温泉って暖かいんだ……。まだ体ぽかぽか」
お風呂から出てだいぶ経つのに、身体はまだ暖かかった。ホゥと息を吐いて部屋を見回すと、入ってすぐのところにゾランの荷物が置かれている。荷物をクローゼットの中に仕舞い、改めて部屋を眺め見た。
「おお……貴族の屋敷だけあって、豪華……!」
ふかふかの絨毯に、大きな暖炉。品の良い調度品に誂えられた家具。奥には装飾の施されたベッドが二台並んでいた。
「うっ……」
並んだベッドを見て、ドキリと心臓が鳴る。エセラインも一緒に来ていたら、あそこで並んで寝ていたのだと思うと、気恥ずかしい。手を伸ばせば触れるほどの距離感。寝息も聞こえるし、寝返りを打つときの衣擦れだって聞こえるだろう。
(考えて見れば、ベッドどころか、お風呂も一緒だったかも……?)
温泉なのだから、当然一緒に入ることになっていただろう。アシェ村に行った時は部屋は一緒だったが、風呂は別だった。風呂を一緒に入るとなれば、当然エセラインの肌を見ることになるわけで――。
「っ……!」
想像してしまい、カァと顔が熱くなる。抱きしめられたことがあるから解る。服越しでも、細身の体が引き締まっていた。きっと脱いだら、存外逞しいに違いない。そんなことを想像してしまい、身体が熱くなる。
「もう! ただでさえ色々気まずいと思ってたのに、全然落ち着いていられないじゃないか!」
一人、自分を叱責する。こんなに情緒不安定で、エセラインに会うことなど出来なかったかもしれない。嵐に遭ったのは災難だったが、いつも一緒の彼と距離を置けたことは、案外良かったのかも知れない。
「俺――…、どう、したいのかな……」
エセラインのことは嫌いじゃない。むしろ、好ましいと思う。自分のような、何のとりえもなく田舎者の男の、どこが良いのかと思ってしまうくらいだ。
エセラインの好意は、勘違いではないはずだ。『解るだろ』と言った時の、熱っぽい声と表情を思い出す。
「うーっ……」
生まれてこの方、恋愛らしい恋愛をして来たことなどない。ゾランにとって恋愛は遠い存在で、どこか漠然としたものだった。
「難しいな……」
溜め息を吐き出し、ゾランは鞄の中から手帳を取り出した。古びた手帳は傷だらけで、大分くたびれている。ラウカの忘れ物であるこの手帳には、ラウカの想いと愛が詰まっていた。
ページを捲り、その個所を開く。
『ヴェリテ・スクへ愛を捧げる。ともに真理を追い続けよう』
ヴェリテは、ゾランにとってはラウカの他の、もう一人の導き手だと言えるだろう。彼はゾランの背中を押し、ラウカの背中を追うことを勧めてくれた。彼がいなければ、ゾランは記者になることを諦めていたかもしれない。
そして、ゾランに『ボックス』の魔法を預けた人物でもある。空間魔法のひとつである『ボックス』をゾランに渡した理由は定かではないが、きっとゾランは何か大切な『バトン』を受け取ったのだろう。ゾラン自身が最終走者なのか、中継地点なのかは分からないが、ヴェリテの意志を引き継いだのは間違いない。
そんなヴェリテは、恐らくラウカにとって特別な人だったのだろう。愛を捧げると書かれたその文字をなぞる度に、深くそう思う。ゾランはラウカのことをライターだという事実以上を殆ど知らないが、彼の深い愛情を、手帳の端々から感じるのだ。
(愛――か……)
吐息を吐き、窓に近づく。雨が窓を叩いて、カタカタとガラスを揺らしていた。暗い闇にごうごうと風が吹き荒れ、梢が揺れている。嵐は朝には消え去るというのが、信じられないほどだ。
「……ん?」
ゾランはふと、屋敷の向かいにある家屋に、明かりが灯っているのに気がついた。ゾランたちが到着した時にはなかった馬車が、庭に停留している。
(あの人も、今日来たのか……。あそこも、商会の建物なのかな……?)
貴族の屋敷を改装したホテルよりは小さいが、中規模の商会の建屋くらいの大きさだろうか。商会の馬車ではなく、人を載せるキャリッジの付いた立派な馬車だ。遠くで良く見えないが、もしかしたら家紋も入っているかもしれない。一部屋にだけ灯った明かりが、何故か妙に気になって、ゾランは長いことその屋敷の姿を眺めていた。