噴水のある広場は、マーケットで花を買うものの姿や、ホットドック売りの屋台を覗くもので溢れかえっている。毎週マーケットが開かれるこの広場では、骨とう品や古着、雑貨などの店が多く並んでいる。そしてそのマーケットに来る客目当ての屋台が、所狭しとならんで、さながらお祭りのような賑わいを見せる。
アロイスは道の端っこに陣取って、キャンバスを拡げた。ここのところ、『クジラの寝床亭』の仕事がない時間には、大抵この広場にやって来て絵を描くのが、彼の日課だった。
(給料で新しい絵の具も買えたし、こうして絵を描きながらお金も貯められる。僕は運がいい)
前の仕事は、あまり良い仕事ではなかった。金貸しの仕事は恨まれるし、心がすり減っていく。それに、絵を描く時間がちっとも取れないのだ。それに比べると、ダイナーの仕事は良かった。店に来る客たちの姿を見るのはとても勉強になったし、ダイナーの仕事はやりがいがあって楽しい。それに、下宿させて貰っているおかげで、前の職場よりも給料は下がったが、結果としては貯金まで出来るようになっていた。
いずれ画家として成功して、絵だけで飯を食う。それが、アロイスの当面の目標だ。もちろん、将来的には有名になって、個展や展示を行いたいと思うのが本音だが。
今日は噴水広場の絵を仕上げるつもりでやって来た。新しい絵の具は、鮮やかなグリーンだ。この緑は、最近発明されたという染料で、鮮やかで退色に強いという特徴がある。
ペタペタと絵の具を置くようにして絵を描いていたアロイスの背後から、一人の老紳士が声をかけて来たのだ。
「緑ですか。噴水の色に使うには、少々大胆なように思えますが」
老人の言葉に、アロイスはドキリとして振り返った。髭を蓄えた老紳士は、穏やかな表情に見えて眼光が鋭い。アロイスは紳士が、かなり身なりの良いことに気づいて、知らずに筆が震えた。質のいい絹のスーツに、高級そうな革靴。帽子は、アロイスも良く知るブランド、ニュアージュ衣装店のものだ。
「え、ええ。噴水の水に木々の緑が映っているでしょう? 僕はそれを描いているんです」
「ほう」
アロイスの説明に、紳士は興味を持ったようだった。透明の水を描くには、映り込みを描く必要がある。緑の絵の具は安く手に入るようになったとはいえ、まだまだ駆け出しも駆け出しのアロイスが大量に使えるほどは安くない。一点を美しく見せるための道具として、ほんの少しだけ使うことにしたのだ。
紳士はその後も、「これはなんだ?」とか「これはどうしてこの色を?」などと、アロイスを質問攻めにする。アロイスはそれに、根気強く答えて行った。
やがて、紳士がようやく満足したように笑い、大きく頷く。
「なるほど。君。名前は?」
「あ、アロイスです。よろしくお願いします。旦那様」
アロイスは立ち上がり、ぺこりと頭を下げた。緊張に、指が震える。
「この緑は、まだ使っている画家を見ない。目の付け所が良いな」
「あ、ありがとうございますっ……」
紳士はそう言うと、アロイスの肩を叩いた。
「今度私の家に来なさい。いくつか絵を頼もう」
「はっ……、はいっ……!」
紳士の言葉に、アロイスは背筋を伸ばしてから頭を思い切り下げたのだった。