「これ、どうかな」
カップを手に、ゾランはエセラインに声をかけた。薄くて丈夫な真っ白のカップは、チューリップのように優美な形をしている。一目見て気に入ったゾランだったが、問題はこれがペアカップだということだ。
「綺麗なカップだな」
「でもペアカップ見たい。一客だけ買えないかな」
「なにも、二つ買えば良いだろ。ペアで使えば良い」
「そっ、そうだね」
二人で同じカップを使うという気恥ずかしさに、つい顔が熱くなる。エセラインは店主に声をかけ、購入を決めてしまった。
「今日は屋台でテイクアウトして帰ろう。明日の朝は何か作ろうか」
「『クジラの寝床亭』でモーニングを食べないの、カシャロに来て初めてかも」
「そうなのか? じゃあ、ちょっと良いチーズでも買っちゃおうか」
「良いね。ベーコンも買って!」
チーズの塊を買い、美味しそうなベーコンも購入する。卵は雑貨屋だ。エセラインのアパートの近くにはパン屋があり、朝はそこで買えば焼きたてのパンが買えるそうなので、パンは明日の朝買うことにする。
「エセラインは、家で過ごすことは多いの?」
「一人だと、飯は外に出ちゃうな。でも、書き物なんかは家ですることも多いよ」
「キッチンあるのに、勿体ない」
「はは。じゃあ、ゾランが作りに来ないと」
「っ、まあ、良いけど」
買い物した荷物を抱え、アパートに向かう。既に日が大きく傾き、通りは薄暗くなりつつあった。
「前に、お菓子作ってくれたことあっただろ」
「マドレーヌ?」
「ああ。あれ、美味しかったんだよな。素朴でさ」
「また、作ろうか?」
「ああ。食べたいな」
以前作ったマドレーヌのことを覚えてくれていたのかと、ゾランは少し嬉しくなった。
「あれ、お母さんとよく作ったんだ。他にも、クッキーとかパウンドケーキとか」
「へえ。興味あるな」
「そっちも作ってあげるって言いたいところだけど――あれ、オーブンがないと無理かな。マドレーヌはフライパンでも作れるんだけどさ」
「オーブンか……。さすがに、うちのキッチンにも付いてないな」
「単身向けのアパートに着いてるところは、殆どないと思うよ」
苦笑するゾランに、エセラインは何か考えるそぶりをした。
しばらくして、アパートが見えて来る。ゾランも一度だけ来たことのあるエセラインのアパートは、石造りの古い建物だ。窓には青い木戸が嵌められ、壁には漆喰が塗られている。経年でくすんだ漆喰は、うっすらと黒ずんでいた。
「ちょっとこれ、持ってて。鍵を開けるのにコツがいる」
荷物を受け取り、エセラインが扉を開けるのを待つ。エセラインはドアノブを持ってやや上に持ち上げるようにして鍵を回した。がちゃん、と重い音がして、鍵が開く。
「お邪魔しますっと」
「荷物、テーブルに」
買い物の入った紙袋をテーブルに置いて、部屋を見回す。エセラインの部屋は、必要最低限のものしか置かれていない。キッチンに置かれたハーブが世話されているのを見て、ゾランはクスリと笑った。
「冷蔵庫、これ?」
「ああ。中古で買ったんだけど、ワインくらいしか入れてない」
「中古でも良いなあ。高いでしょ」
「まあ、そこそこだな」
冷蔵庫を開けると、宣言通りワインが二本入っているだけだった。買って来たものを冷蔵庫に仕舞い、荷物を整理する。ゾランが片づけている間に、エセラインの方は買って来た惣菜をテーブルに並べた。それからワイングラスを準備し、冷蔵庫のワインを一本取り出す。
「せっかくだから、ちょっと良いヤツ」
「マジで?」
コルクを開けると、果実のような風味が漂う。ワイングラスに黄色がかった白いワインが注がれた。
「良いね」
「冷める前に食べよう」
テーブルに着き、グラスを手にする。ランプの明かりが頬を照らした。
「じゃあ、乾杯」
チン、と軽くグラスを重ねる。何でもない日のはずなのに、特別な日のように思えた。
ワインを一口含む。鼻から抜ける果実の香りに、ホッと息を吐く。
「うわ、美味しい」
「ああ、良いワインだ」
ゆっくりワインを傾けながら、テーブルに並べた惣菜の方に目をやる。買って来たのはサーモンとクリームチーズ、ほうれん草のキッシュ。トマトソースで煮込んだミートボール。イチジクのサラダ。豚肉をディープフライにしてビネガーソースで味をつけたもの。それにバゲットと鴨肉のパテだ。
エセラインが料理をとりわけ、ゾランに手渡す。
「ありがとう」
料理はどれも美味しい。知っている店ではなく知らない店でなるべく買うようにしたが、どれもあたりだったようだ。
「どの料理も美味しいね。カシャロは良い店が多いみたい」
「食い道楽が多いのかもな。美味いものがあると聞けば、すぐに流行ったりするし」
「それだけ、平和なのかも」
「そうだな。カシャロは長いこと戦争もないから」
隣国では戦争をしているというが、カシャロにまでその音は届かない。難民が増えたことと魔法石の増加くらいが、戦争を実感する材料だった。
「ん。これ美味しい。エセラインも食べて!」
「どれ」
エセラインはそう言うと、口を開けてゾランをじっと見つめる。意図するところを理解し、ジワリと頬が熱くなる。ゾランはミートボールをフォークに刺し、エセラインの前に突き出した。
「……自分で食べなよ」
「ん。美味いな。味が良い」
ニヤリと笑って、エセラインは唇に着いたソースを指で拭った。その様子を、ジトっと睨んでおく。
エセラインはカラカラと笑って、今度は自分のフォークにミートボールを突き刺し、ゾランに差し出した。
「ほら」
「えっ」
戸惑うゾランに、エセラインはニコニコ顔で待っている。ゾランが食べるまで、ずっとそうしているつもりのようだった。
「……」
恥ずかしい。耳が熱い。
(だ、誰かに見られているわけじゃないし……)
思い切って、ぱくんと差し出されたミートボールを口に含む。エセラインの菫色の瞳が、じっとゾランを見つめている。
「食べづらいって」
「良いだろ、たまには」
ミートボールを咀嚼しながら、じぃっとエセラインを睨む。エセラインは楽しそうだ。こんな風に笑う彼は、あまり見たことがない。
ゾランはハァとため息を吐き、視線を逸らして「たまにだよ」と答えたのだった。