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第13話 恋人たちの朝



 朝日が差し込む光で、ゾランは目を覚ました。澄んだ香りの漂うリネンに頬を擦りつけ、まだ目覚めたくないのだと布団を引っ張ろうとして、伸ばした手に触れた肌に驚いて目を開く。


「っ!」


 翡翠色の瞳に、朝日に照らされた美しい顔が映り込む。エセラインはまだ起きて居ないのか、薄く唇を開いて静かに寝息を立てている。長いまつ毛が頬に陰を落とした。


(そ、そうだった……。お泊り、したんだっけ……)


 思い出すと同時に、昨晩の甘い触れ合いが呼び起こされ、ブワッと顔が熱くなる。エセラインの、自分の、知らない一面を知ってしまったような、そんな夜だった。頬を両手で押さえ、チラリとエセラインを見る。自分は変じゃなかっただろうか。がっかりされていたらどうしよう。そんな気持ちがうっすらと湧きあがる。


 唸りながらそんなことを考えていると、不意に横から伸びた腕がゾランを捕らえた。


「おはよう、ゾラン」


「っ……!」


 優しい色を帯びた菫色の瞳が、ゾランを見つめる。胸の中にとらわれ、ゾランの鼓動が跳ねた。


「おっ、おはよう……」


 朝の陽ざしを胸いっぱいに吸い込むようにして伸びをするエセラインに、ゾランは気恥ずかしさがこみ上げてシーツを手繰り寄せる。エセラインはその様子に笑って、額にキスを落とした。


「もっと寝て居たいけど、朝食が待ってる」


「あはは。だね」


 名残惜しさを感じながら、ベッドから抜け出す。


「あ、パンの香り?」


「この時間になると、焼きたてのパンの匂いがするんだ。毎日後ろ髪を引かれながら『クジラの寝床亭』に行くんだ」


「俺だったら耐えられないよ。どうしてパン屋で買わないの?」


 ゾランだったら、近所にこんなに美味しそうなパンを焼くにおいをさせている店が合ったら、絶対にそっちに行ってしまう。首を傾げるゾランに、エセラインが薄く笑う。


「自炊しないからな。面倒が半分ってところだ」


「残りの半分は?」


「お前が居るだろ?」


 そう言われ、ドキリと心臓が跳ねる。


「えっと……? だって、その……」


 エセラインだって、最初からゾランのことが好きだったわけではないだろう。戸惑うゾランに、エセラインはニヤリと笑う。


「まあ、最初は、どちらかというとお互いに牽制し合ってたというか、そういう感じだっただろ」


「うん」


「でもまあ、俺はお前のツンツンした感じも嫌いじゃなかったし、まあ、面白かったというか――仲良くなろうとは、思ってたから」


「そ、そうなんだ。なんか、ゴメン。あの時は」


「ま、ゾランの可愛らしいところだよな」


「う。反省してる……」


 数少ないメンバーだというのに、ライバル意識剥き出しで牽制していたのは、恥ずかしい。


「ま、そういうことだ。さ、パンを買いに行こう。早くしないと売り切れちゃう」


「うん」


 アパートを出て、パン屋に向かう。既に同じ目的らしい夫婦や婦人たちが、籠を抱えて歩いていた。パン屋に着くと、店の中はパンの匂いで溢れていた。焼きたての香りを胸に吸い込みながら、焦げ目の美しいパリッとしたパンを手に会計を済ませる。焼きたてのバゲットは熱々で、それだけで幸せな気配がしていた。


「んーっ、美味しそう! ミラのご飯も美味しいけど、ここまでの焼きたてではないからね」


「焼きたてのパンって、それだけで贅沢な気分になるよな」


「はぁ~。ここに住んでたら、毎日このパンを買いにくるのに」


 思わず頬ずりしたくなるようなパンを手に、部屋に戻る。部屋に戻れば、今度は朝食の支度だ。ゾランはベーコンと卵を焼いて、エセラインはコーヒーの準備をする。市場で買ったチーズも忘れない。


 焼きたてのパンを切ると、ほわっと湯気が舞い上がった。外はパリパリ、中身はふわふわでしっとりとしている。エセラインの淹れたコーヒーも美味しい。


「エセライン、コーヒー淹れるの上手だね。専門店みたいだ」


「コーヒーは結構好きで、自分でもよく淹れるからな」


「良いなあ、キッチン。まあ、一階がダイナーっていうのも、かなり贅沢だとは思うんだけどね」


「あの下宿は当たりだよ。ミラの料理は美味いし」


「うん。だよね」


 二人で食事を準備して、向かい合って食べるのは、なんだかむず痒いような、気恥ずかしいような。それでいて、どこかすごく安心する。


(家族――みたいな……)


 自分たちは、良いパートナーになれるだろうか。エセラインは、自分を頼れるパートナーだと思ってくれるだろうか。


 未来はまだ、解らないけれど。


 今のこの時は、ゾランにとってかけがえのないものだということは、間違いなかった。





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