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六十四 前世の人

人間界、三毛猫が経営する妖怪の旅館。

幸一の体がいきなり震え始めた。

「幸一!」

珊瑚はさっそく様子を確認する。

幸一の眉がきつく締まっていて、額から汗が滲み出る。

「魂が混乱している!呼び戻さないと!」

珊瑚は紫苑の鈴を鳴らした。


*********

「還初、太子……どうして……」

修良の目が焦点を失った。

「鬼さん」という呼称から彼は分かった。

目の前に人は、もう「幸一」ではない。

「還初太子」と呼ばれた「幸一」は薄い笑顔を浮かべた。

「幸一は、あなたを信じるために、自分の意志まで潰したんだ。だから、前世の意識である私が解放された」

「!!」

その言葉は、まさに修良の心臓を貫く一矢。

「私より、あの悪鬼を庇った平安という少年が直近の前世だけど、彼は小さい頃に死んだから、自己意識が薄くて、この魂の力を支えきれない」

「あなたは……」

修良は、何かを言おうとしたが、頭が空白になり、言葉に詰まった。


旧世界の「還初太子」、それは、彼がもっともよく知っている幸一の前世だ。

彼と「キミだけのために生きていこう」という約束をした人で、

彼の目の前で天罰を受けて、一片の血の霧となった人だ。


「どうしたの、失望した?」

修良の言葉が途絶えたら、「還初太子」はふっと軽く笑った。

「だよね、鬼さんにとって、私は一番都合の悪い人だから。全然思い出したくないだろう。だから、幸一にあんなに追い詰められても、前世のことが知らないって――」

「っ!違う……!」

その言葉から歪んだ情緒を感じて、修良は慌てて弁解しようとした。

その時、幸一の腰帯にかけている紫金色の鈴が綺麗な音を出した。

「友達が呼んでいる。魂にこれほどの揺れが生じたら、肉体も反応するはずだ。珊瑚たちが心配しているから先に戻るね」

幸一は身を翻し、手を振った。

「父の魂をちゃんと返してくださいね。修良先輩~」


*********

三毛猫の旅館で、幸一は目を開けた。

体の震えも荒い息も落ち着いた。

紫苑と珊瑚は寝台の傍で心配な目で彼を見守っている。

「幸一様!よかった、ご無事で……」

「何があったの……幸一?」

幸一が二人に視線を向けたら、二人とも異様な気配を感じた。

「初めまして、って言うべきかな」

幸一が軽く笑って身を起こした。

表情を整え、珊瑚と紫苑にあらためて自己紹介をした。

「私の名は元還初、幸一の前世だった人だ」

「!」

二人は驚いた。

特に、珊瑚は困惑した。

「幸一の前世の意識は、修良さんの術によって抑えられていたのでは……?」

「あの術はね、幸一が修良先輩を信頼しないと成立しないんだ」

「ということは、幸一は修良さんへの信頼を失ったのか!?」

珊瑚は更に信じられない表情になった。

彼の経験によると、幸一は修良に絶対的な信頼を持っている。

一体何があって、その信頼を失くさせたのか!?

「失ったというより、現実逃避かな」

「幸一」は苦笑いをして、話題を変えた。

「そう言えば、この間のこと、ごめんな」

「……なんのこと?」

淡い笑みと儚い眼差しの幸一を見て、珊瑚はますます距離を感じる。

「妖界の乱心のことだ。今は分かった。あの『世界の意志』とやらは、私を探すために妖怪たちを利用したんだ」

「!それじゃ、あなたは自分の力を……!」

「うん、知っているよ。私はどんな力を持っているのか、世界は私に何を求めているのか」


妖界乱心の一件で、珊瑚は幸一の力の秘密に察した。

この世界の妖界と人間界の分離が失敗したのは、世界の力が不足しているから。

この新世界は旧世界のすべてを糧にして生れるはずだが、旧世界の一部の力は新世界に投入されなかった。

その失われた旧世界の力は、おそらく、幸一の魂が持っている「生命の霊気」だ。

修良は現世の幸一の存在を守るために、幸一の前世の意識と力を抑えた。

いろいろ悟ったが、幻みたいな「世界の完成」より、珊瑚は目の前にいる友達の幸一を選んだ。

修良との約束を守って、それ以上幸一の力を追わなかった。

ただ、あの妖怪たちを乱心させた「世界の意志」というものが気になって、調査し続けていた。

今回、修良に会いたいのも、その件を相談するためだ。


「えっ、なんの話、ですか?」

驚き連続の珊瑚と淡々に答える幸一の話を聞いても、紫苑はわけが分からなかった。

「世界の意志というのは、もしかしたら、おのれが聞いた『あれ』ですか……」

「『あれ』?」

珊瑚と幸一は紫苑に目を向けた。

「今まで気付かなかったけど、紫苑さんって……」

幸一は紫苑に近づいて、好奇心満々な様子で紫苑をよく観察した。

幸一の顔なのに、紫苑はなぜか鋭い威圧を感じた。その感覚に耐えられなく、紫苑は床に跪いて自白した。

「も、申し訳ありません!わざと幸一様を騙したのではないです!!おのれ、本当はさまよう魂でありません!魔です!!」

「そうか。別に構わないから、謝らなくていい」

幸一は驚きもしないし、怒りもしなかった。

「……えっ、い、いいんですか!?おのれは……ずっと幸一様を騙して……」

「前世の人もこんな感じなのか。人生経験がかなり豊富のようだね」

幸一のああいう反応にすでに慣れた珊瑚は興味深い目で「幸一」を見た。

「それより、私は紫苑さんに謝らなけれならないようだ」

幸一は身を屈めて、紫苑の肩を持つ。

「どうして、ですか?」

「紫苑さんも会っただろ?その『世界の意志』というもの。本当に、みんなにご迷惑をかけたな」

幸一は紫苑が手に付ける指輪に指した。その指輪から、懐かしい旧世界の気配を感じる。

(しまった!)

紫苑はひくっと寒気を感じた。

(幸一様に教えてはいけないと修良様に言われたのに、つい……)

(いいえ、でも、しかし……今の幸一様は幸一様ではなくて、幸一様に教えたことにならないじゃないですか……)

(おのれは一体、どうすれば……)

冷汗を掻くほど焦っている紫苑に、幸一はやさしい微笑みをかけて、彼の肩に手を軽く置いた。

「こうなったら仕方がない。紫苑さん、ちょっと頼んでもいいかな」

「あっ、はい!な、なんなりと……」

紫苑は思わず身震いをした。

(やはり、怖い……幸一様の顔で、やさしく微笑んでいるのに、なぜか、怖いです!)

(鋭くて、鉄の匂い……いいえ、血と殺伐の匂いがします!!)

ひどく怯えているが、紫苑は動くこともできず、呼吸を止て、おどおど幸一の続きを待っていた。

「修良先輩と、戦ってくれないか――」

「!!」



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