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第76話「空を駆ける青い竜」

泉岳きらりは、恋人の神楽りおを、彼女の元恋人の浦川辺あやから「任せる」という趣旨の言葉を受け取った。奪った恋と育てた愛が心の奥深くに根差した。


「犠牲と思えないようではいけない」


乾いた風の昼も、空の暗がりに駅前のビルが夜を告げても、たとえばこの道を独りで歩くときに思い描く少女を、求めてやまない心では足りないのか。


思わず傷つけてしまっても、交錯する願望がせめぎ合っても、愛情と同等の憎しみが沸き上がる事も無く、猜疑心もりおの知性と優しさが吸い込んでいく。


「犠牲ってなんだ」


きらりは、休日にりおと図書館に行くようになった。本が好きなりおは喜んで付き合った。きらりは、有名な画家の絵の画集を開いた。小学生の頃に見た時は、下手糞とさえ思った絵ばかり。どうして人の顔がこのように見えるのだろうかと笑った子どもの頃の絵。そのうちの一つだった、寝ている女性の絵でハッとした。


「この画家は本当に守りたい女性を描いた」


直感でそう思った。隣のページに解説があって、モデルの女性は2年後に画家の娘の継母になったという。時計のような顔が壁のような気色で描かれていた。壁に埋め込まれて動かなくなった時計とは「永遠」のメタファーだろうか。それを画家が願ったのか。


きらりは、自習スペースで黙々と受験勉強をするりおの元へ行くと、隣の席に座って無言で自分の受験勉強を始めた。教え合った夏が、どこか遠く、そこから歩いて来た私達が友情とは似て非なる愛を運んできた事を、褪せてしまわないように寄り添うような二人。


「眠り」が「死」のメタファーだとしたら、画家は、愛が肉体の終わる時を超える意志があるのだろうか。犠牲とは、たとえば女性が己を被写体に差し出す事だったのか。それは仕事でもあるから、女性は自分だけが知っている犠牲に没頭したのか。肉体を捧げたのか。


きらりは、自分の事ばかり考えて生きて来た自分に限って犠牲を払ったとはあり得ないと思ったが、それでは届かない所にりおを守り抜く使命が置かれているのか。異性愛を基軸とする世界の外律から、必ずしも共感しない他者からの修正から。


青い竜が、


「力づくで守ればいいだろう。りお以外大切でなければ、りおが大切だろう」


と言う。


恋愛における犠牲とは、自分らしく変わらない剛体の本性で身を切る事なのか。


そういえば冬休みの女子サッカー部で、1年生の星雲に教えてやったんだった。


他者を上から押さえつけて特待生のような待遇でいられる事、それをポンと与えられ続けてその気になっているウチは上昇志向ともまた違う。もっと下から上にいる者に対する復讐心を蓄えて、いつかやらかしてやろうと思う荒んだ心と同居できてはじめて上昇志向だろう。


星雲は、U-15のトレーニングキャンプに呼ばれた癖にサッカーを離れようとしたのも束の間、長空北高校の女子サッカー部なんかに入部してくれた。言葉を相手方にオーダーメイドしても自分の本性が見える。


根源。


花をみて綺麗だという浦川辺あや。


なんでもサッカーボールのきらり。


りおはきらりを選んだ。


りおのシャープペンシルの音が聴こえる。この世で最も大切な音が。


その日は図書館に籠って受験勉強をして、図書館を後にした。


これから徐々に日が伸びて、夕方の散歩も気が滅入らなくなって、また春が来る。


抱きしめる腕は君を傷つけてしまいそうだね。


抱きとめる胸は君を逃がさないようだね。




そう思って握り込んだコートの端っこが、あの日のりおのように、


「いまさら大切だよ」


と言うから、腕を伸ばして2月のチョコレートのように溶け合った。




抱き合ったまま、りおは、5月のコンクールに応募する原稿も無事仕上がった事を伝えた。きらりが半年間読んで励まし続けた物語。たとえばそれが幸せなのか、望みなのかと問い詰めた日から、よく頑張ってくれたと、きらりは思った。


きらりは、


「こうしていたいよ」


と言って、りおを閉じ込めた。りおは一言も話さなかった。自分の優れた能力を誇る心と欲望を抑え込む心で堅牢な檻を作って、いつでも守ってあげられる事。それだけ伝えて、そっと錠を外した。


きらりは、


「目的地があるといいな。小説家としての目的地が」


と言って、今度は笑った。りおは、自分の幸せのように喜ぶきらりが連れて行ってくれる世界でもあると思った。


青い竜は魔法使いを乗せ、赤い鳥はきらりの指先で安心している。立ち止まった時がゴールに思えるのなら、何処へでも行ける。 

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