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第75話「氷の月」

浦川辺あやは、順調に芸能界復帰に向けたレッスンを続けていた。神楽りおとの恋は絶望的な状況だった。しかし前回の時間ループで、りおが自分に恋人として様々な工夫をしていた記憶を取り戻せて、芸能界復帰についてはより強固な思いになった。


観音寺芸能プロダクションの観音寺社長は、手厚くサポートしてくれるのだった。3月に行われるボーカリストオーディションに16歳11ヶ月で応募する事も決まっていた。応募の締め切りが1月18日で、期日までにデモテープと動画をオンラインでアップロードする。まず2月の書類審査を通過しないといけない。


男子バレー部の選手権大会後は、顧問の石黒先生に言って応募までの期間を1週間だけレコーディングに専念させて貰っていた。その間は女子マネージャーの仕事は、雛菊さやが頑張った。高校在学中は男子バレー部の女子マネージャーを貫徹したい。芸能活動と二足のわらじになるが、それも覚悟して決めた事だ。


2023年1月18日。この日も放課後になると、学校から少し離れた所で母親に車で拾ってもらい、豊島区にある観音寺芸能プロダクションのスタジオに向かった。


母・みちよは、


「小学校時代に戻ったみたいで嬉しいのよ」


と言う。


レコーディングが終わってオーディションに応募したら、また男子バレー部の女子マネージャーに復帰する。苦楽を共にした仲間との時間を天秤にかけるような気持ちを拭って、今日も歌う。


観音寺社長は、あやにぴったりの楽曲だと言って「ガラスのフィアンセ」という歌を選んだ。




どんな答えになるとしても僕と過ごした時間を♪


忘れないで欲しいからお願い今日だけは♪


零れ落ちる笑顔も横顔も心から愛する♪


時間を止めた君の素敵なフォトグラフ♪




観音寺社長は、


「もっと男の子の気持ちを歌って。絶対そっちだから、あやちゃんは」


と言う。


レコーディングの個室で懸命に歌唱するあや。


部屋の壁が自分自身さえも吸い込んでいきそうな虚無感と格闘しながら唄った。このような場所から、かつての栄光を追い抜いて行けるか、楽しければそれで構わない心に没頭できるか。観音寺社長の言葉にすがる事で、自分の声が出た。時折、この部屋で死んでしまいそうな気持ちを集音マイクにぶつけた。


この日は総仕上げだった。応募用の音源を録音し終えて夜の20:00に迎えの車が来た。


母・みちよは、観音寺社長に、あやが踏み出せる復帰戦を感謝した。あやは、再三の礼を言う母親を見ていると、自分の背中を誰かに見られたくない気持ちが湧いて来た。結果を出さなければ、安穏とした曖昧な時間にたむろしていた中学時代と何も変わらないから。また脚光を浴びると決めた。そうする事で芸能活動も自立し、母親との距離感もまた変わって来る。


沢山の優しさに支えられている現実を幸福と呼べない原因は、満たされない想いのせいだろうか。神楽りおと過ごした時間の記憶が、全部昨日の事のようだ。手を繋いだ時も、キスをした時も、本当は手に入った幸福が今手元にない空虚を、どうやって伝えたら、思い出した通りに笑ってくれる。




帰りの車の中で、あやは、


「お母さん。長空駅まで行って、そこで降ろして」


と言い出した。


「どうして?」


「昔の恋人に会ってくる」


「いいけど遅くならないでね。今の季節は夜にあまり独り歩きしないで。すぐに帰って来てね」


車が長空駅に向かう途中、粉雪が降り出した。


パラパラとした小さな雪が。


「傘持ってるかしら?昔の恋人ってこの間車で送った子かしら?」


あやは、少し声を荒げて、


「そうだよ。ごめんね、お母さん」


と言って母親を急かした。




前回の時間ループは2023年1月17日で終端だった。




長空駅で車を降りたあやは、粉雪の中を傘も差さずに走って行った。


記憶の中にあった、りおとキスをした公園へ。


雨上がりの道を手を繋いで歩いた記憶も蘇って行き方がわかる。


この公園が本当に存在したら、蘇った記憶を信じ抜ける。


公園は存在した。


粉雪の降るベンチにも誰もいなかった。


ここで「りお」と呼んで抱き合った。


あんなに優しくて賢い人が自分のものだった。




それから粉雪の中を佇んでいた。


白と化すコートの中で、孤独に似合う温度を纏った。


そして傘を差した人影に期待するのも辞めた頃に現れた。


りおの幻覚を見た。


「あや」


あやは、ゆっくり顔を上げると、なぜここにいるとわかったのか、なぜ来てくれたのか、そんな言葉を追い越して、


「『あや』と呼んでくれるの」


と幻覚のりおに言う。


りおの幻は、


「もしもこの雪の中であやが、どこかで私を待っているとしたら、この公園に違いないと思って、寝る前に一目見に来たよ」


と言った。


優しい声でしか再生されない、りおの幻。


あやは、


「続きをしてくれるの」


と言う。


りおの幻は、


「沢山の嘘になってしまった。記憶の中のあの日、薄情な言葉で綴ったさよならをもっとあやの生き様に前向きさがはびこるように言えたらと思って」


と言った。




私、わかったの。恋人とは良心。その人の心を恋人に埋め込んで恋人の中で良い心になるの。きらりの心は私に埋め込まれて良心になった。私の心もきらりに埋め込まれて、きっと良心になっているの。




あやは両手を差し出して、りおの幻を固く抱き寄せた。


「私は女性の恋人しか有り得ない。泉岳先輩はどうかな」


凍るような心でも、りおを慮る事が出来る。


「あやがくれたものだね」


あやは、そっと腕をほどいて、雪の中を一歩ずつ歩いて、去って行った。


きらりと決着をつける。


そして、りおがくれたものを大切に出来たら。




2023年1月19日。あやは、昼休みに教室棟2階のりおの教室に行った。ただし廊下でひっそりと立って待っていた。誰かが気づくだろうか。誰かが気づいたら誰が出てくるだろうか。泉岳きらりだろうか。


あやは、りおが出てきたら連れ去ってしまう衝動を足の裏に感じる。ただやって来たのはきらりだった。きらりは、少しの間を無言で、廊下に立ち尽くすあやを見た。


「浦川辺」


あやは、言葉の響きが悔しかった。この人物はもう恋敵だった頃の者ではない。蘇った記憶とは違う、少しは女の子らしい口調で話す人物に変わっていた。いまどんな言葉を吐いたらいい。


きらりが鬱陶しい様子であやを眺めていると、あやは、


「今日。長空市中央図書館に私と来てください」


と落ち着いた声で言った。


きらりは、あやなりに決着をつけたいのかと思った。あやが「決着」とかそういう性分である事は、信じられる。あやの顔に薄っすらと残る残骸のような感情を、受け取ってくれと言うのか。何かがきっかけで込み上げた悲しみが尋ねて来た今日の昼休み。


あやは、


「殴打した件は謝ります。すみませんでした。もう何を言われる謂われもないでしょう」


と言った。


きらりは、この独特の不気味さに怖気づいてはいけないと思った。


しかし、きらりが本当にあやの独特の不気味さを思い知るのは放課後、互いに部活動を休んで長空市中央図書館に向かう道中での事だった。あやは、たまたま通り道にあった花屋で立ち止まると、突然花を選び出した。


赤いアネモネ。


財布からお金を出して買った。お花屋さんはきらりが友達だと思ったのだろう笑顔だった。あやは、


「誰にあげると思いますか?」


と言い、あやの振る舞いを不気味がるきらりに向かって、


「このようなものが美しいと思えるのです」


と言った。


きらりは「しっかりしろ」と言ってやる義理がない。あやは、何かに怖気づいた様子のきらりに満足したら、前回の時間ループで付き合っていた頃の記憶をきらりに教えた。キスしたり、抱きしめ合ったり。励まし合ったり、互いの心を確かめ合ったり。


「今好きな人が、実は恋人だった気持ちがわかりますか?」


と言って、アネモネを大切に運んだ。


長空市立中央図書館に着くと、社会科学の本棚のある3Fに向かった。


あやは『女性同性愛者のライフワーク』という本を選んで、借りた。そして「誘ったのは私ですから奢ります」と言って1階のカフェに行った。


あやは、アネモネを握りしめたまま、借りた本をきらりに差し出した。


「異性愛者が女性同性愛者を理解するのにたとえばこんな本が必要なのですよ。こんな本を何冊も読む。当事者になってしまえば分かる事ばかり書かれています」


「浦川辺さん。貴方は何をしたいのか?」


きらりが聞いても無言だった。


同じホットコーヒーが二つ運ばれてきた。


あやは、


「譲ってください」


と言った。


きらりは、


「断る。女性同性愛というラベルが貼られても私達は誓い合った二人だ」


と即答した。


「心を拾ってあげられますか?自分を犠牲に出来ますか?」


「犠牲のわけないだろう」


「弱者とも思わない心は愛とは言えませんよ」


あやは、黙ったままのきらりに、


「この本を受け取ってください。返却は誰でも出来ます。この本を持って帰るなら、私はアネモネのほうをりおに見立てて持ち帰ります。受け取らないなら、本物のりおを返して貰います」


と言って、アネモネを握りしめたままコーヒーを飲んだ。


きらりは、本を受け取ってパラパラとめくった。確かに、考え方が沢山書いてあった。


あやは、


「今日、貴方に埋め込まれた心が良心となって、りおと手を繋ぐ」


と言うと、きらりは、


「ああ、そうだな」


と言った。


あやは、大きく頷くとアネモネを握りしめて泣き出した。


「あぁよかった。終わった…」


あやがそう呟いて、この話は結末を迎えた。


きらりは、コーヒーを飲み終わると先に帰った。あやが貸してくれた本は大切に読む事にした。わからない事をわからないと知り調べる事、知る事。この先必要な知恵だと思った。まるでりおがあやに埋め込んだ良心を、あやからきらりは受け取った。

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