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10-3

【5】


『うーさむ……今日はヒーターの効きが悪いです』

『もっと厚着すれば……』

『ダサくないセーターこれくらいなんですよ』

 温度の捻りを最大まで捻ったヒーターが輝く室内で、ラジオが机に向かって宿題をしている。その後ろでタンスの中身を漁るプラネ。二人が出会ってからもう一年程の時が経ったが、今日も窓の外ではあの時と変わらず雪が降っている。一歩間違えれば凍死しかねない極寒の屋外では遊ぶことができず、子供が集まるのは自然と屋内だった。今回は遊びではなく宿題だが、同じようなものだろう。

 ラジオは今日もプラネに呼ばれて彼女の家に来ていた。

『うーん……上下茶色はダサいですね』

『……ねえ、アジア消滅って何年だっけ』

『今何の科目の宿題やってるんです?』

『歴史』

 歴史の宿題のプリントをシャーペンでコツコツと叩くラジオ。学校の成績はラジオの方が優秀だ。天才の双子の姉たちと比較することはできないが、世間的に見れば彼女も優秀な子供だ。一方、プラネの成績は平凡そのものである。

 質問され、暫く考えてからプラネが質問に答えた。

『えーと……千九百九十一年だったと思います。中国とかが核兵器で消し飛んで……』

『何が残ったんだっけ……』

『インドネシアとマレーシアと……あと日本とかですか?』

『……まあ、それでいっか』

 彼女がプリントに回答を書いていく。千九百九十一年、ソ連による中国への侵攻と大量に使用された核兵器でアジア圏は壊滅した。それは二人が生まれたばかりの時の出来事であった為に実感が湧いていないのだろうが、当時の混乱は相当なものだった。しかし、それについてはまた今度だ。

 ラジオが一人で宿題を進めていると、ふと騒いでいたプラネが静かなことに気が付いて後ろを見る。部屋のどこにも彼女は居らず、わずかに開いた扉の隙間から彼女が外に出たことだけが分かった。ラジオが不思議に思っていると、突然扉の隙間からプラネが覗き込む。

『サプラーイズ』

『何してるの……』

 彼女が扉を開けると、片手にケーキが一切れ乗った皿を持っていた。いつも通りの笑顔を浮かべるプラネと、どうやって音も立てずに部屋を出てケーキを取って戻ってきたのかを考えるラジオ。そして肝心の、何故彼女がそれを持ってきたのかは分かっていなかった。

『いやですね。父の手を借りずにケーキを焼いてみたんですよ』

『……それで?』

『フレアさんに感想を聞きたくて、試食お願いします』

 そう言って彼女が差し出したケーキに視線を奪われるラジオを見て、いい加減に自身が甘党であることを認めるべきだと思うプラネだった。机に皿が置かれるとラジオはすぐにフォークを手に取り、生クリームの輝くフルーツケーキを切り取る。そして躊躇なく口に運ぶと、もう一口食べて手を止める。

『どうです?』

『普通……』

『えー普通って何ですか!一番聞きたくない感想なんですけど!』

『人生で食べたケーキで二番目に美味しい』

 その評価を聞いてほおという表情になるプラネ。ラジオの人生におけるケーキのレパートリーと評価については、プラネは知る由もなかった。人生で二番目というのは一体どれくらいの重みなのか。

『じゃ、じゃあ二番目と言うと!』

『私の人生で一番のケーキは貴女のパパのケーキで、三番目は私のパパが急ぎで作ったケーキ』

『主夫とプロの間って微妙じゃないですかー!』

 それでも評価は悪いわけではなくむしろ良い方なのだが、プラネにそれはあまり伝わっていない。上手くいかずに悔しがる彼女とそれを気にせず食べ進めていくラジオ。普通と言いつつも甘党の彼女はがっつき、あっという間にケーキを食べ終えるとフォークを皿に置いた。

『……今後も頑張って』

『なーんかやる気なくすんですけど』

『私を満足させられたらお店開けるよ』

『おっ、それだとやる気湧きますね!』

 そう言って微笑むプラネに、いつもと変わらぬ無表情を浮かべる幼いラジオ。感情表現が苦手な彼女にとって、表情がコロコロと変わるプラネのような存在は劇薬だった。側から見ればそれはとんでもない荒療治。無口で愛想の薄いラジオは、どんなに雑な対応でも付いてくる彼女に敵わないのである。


「……あれ、私結構寝てましたか?」

「いやラジオさん、五分休憩で目を閉じてただけっすよ……」

 暖房が最大に設定された車内にて、運転席に座るラジオが目を覚ます。助手席の粳部は寒そうに腕を擦って暖を取りながらそう答えた。ラジオは車に内蔵された時計で現在時刻を確認すると時間が全く経っていないと知り、長く感じていた夢が一瞬だったことを理解する。

 その時、後部座席の扉が開くと藍川と谷口、そして一人の職員が入ってギュウギュウになりながら座った。

「遅くなった。車を出せ」

「この車狭いと思ったら日本車か……ここアメリカだろ」

「鈴先輩、暖房が効くやつこれしかないらしいっす……」

「まあ、それじゃ行きましょうか!」

 車のエンジンが白い空に唸った。



【6】


「ここが容疑者の家ってわけか」

 ラジオの運転する車が道路脇に止まり、アイドリング音が車内に響く中で藍川がそう呟く。粳部はインパネの上に置かれた資料の束を手に取ってページをいくつか捲る。ラジオが四年の間に集めた資料は膨大で、粳部の足下にも資料の入った鞄が放置されていた。

 粳部が資料を読みながら話を始める。

「と言っても、事件との関連は薄いんすよね?」

「まあ、犯人に関する証拠は碌に残ってませんから。薄い犯人像から調べてます」

「不審者情報から割り出した犯人像は三十代、白人、長いひげ、赤髪だそうだ」

「眼鏡の可能性もある。しかし、犯行の情報があまりに少ない……」

 プラネ・コールマンの行方不明事件は情報がとにかく少ない。外出の少ない吹雪の中での犯行は誰も目撃しておらず、事件前後数日の不審者情報はかなり特徴にバラつきがあるものの、これを使わないという手はラジオにはなかった。あるものは全て使ってプラネを助け出す、それ以外のことは考えていない。

「生育環境に問題があるものの成績優秀、人を隠せる広い一軒家に在住の人物で絞ってます」

「……確かに、傾向的にはそれで探すのがベストですか」

「ラジオ、この捜査の仕方は……」

「よし心を読みに行くぞ。谷口ついて来い」

 何か言いかけた谷口だったが、藍川が扉を開けて出るのを見て黙ってついて行く。その仮面の奥で彼がどんな表情をしているのかは分からなかったものの、彼が何か違和感を覚えていることは粳部にも分かっていた。扉が力を込めて閉められると車内には粳部とラジオ、職員の三人になる。

 居心地が悪かったのか、黙っていた職員が口を開く。

「あの……自分あの店で飲み物買って来ます。何か欲しいですか?」

「じゃあ、コーヒーお願いします」

「えっ?あっ、その……べ、別にお気になさらず」

「相変わらず人見知りですねー粳部さん」

 そう言われムッとした表情の粳部をよそに職員は車から出ていき、数十メートル離れた店に駆けていく。クラスΩ二人やγ+の怪物揃いの空間に居ることは恐れ多く、職員は気を利かせて飲み物を買いに行ったがそのことに勘付いているのは粳部くらいだった。

 二人だけのアイドリングの響く車内に、中途半端な静寂が満ちる。

「……嫌な事件っスね」

「嫌じゃない事件の方が少ないですから」

「にしても、かなり車で移動したのに雪ばっかりですね」

「移動したってソ連は近いですから、結局は寒いわけですよ」

 北半球、特にソ連が近い地域の寒冷化は既に手遅れの状態にある。日本も東北地方は寒冷化しており、北海道は年間平均気温がマイナスを超えることがない。それと同様にアメリカのアンカレッジも気温は低く、これだけ広大な土地があっても寒さは端でさえ極端なままだ。

 粳部が捜査資料をインパネの上に置く。

「寒さ……慣れてるんですか?」

「司祭は寒さ暑さ効かないんですよ」

「いや……何と言うか、この雪景色でも反応が薄いので。見慣れてるのかと」

 少し何かを考えた後、ラジオが話し始める。

「まあ、ずっとここで育ったわけですから。特に感想はないですよ」

「えっ、アンカレッジ出身なんですか!?」

「いえいえ、出身地は別の州です。寮制の学校に通う都合上で一時期住んでました」

 ミドルスクールに入学しハイスクールを出るまでは、ラジオはこの地域に住んでいた。ハイスクールを出た後は実家に戻ると、地元の大学に入学して卒業したのである。彼女からすればこの寒空と雪景色は見慣れたものであり、二度と見たくない白銀の地獄絵図だった。しかし、嫌でも行かないという選択肢はない。

 粳部が心配するような表情を浮かべる。

「……ラジオさん、どうしたんですか?」

「何がです?」

「この任務が始まってからずっと変じゃないですか……色々納得いかないです」

「納得いかないってのは具体的に?」

 暫く考えた後、粳部がラジオの反応を伺うように小さな声で躊躇しながら話す。彼女の中にある地雷に触れないように距離感を調節しながら、安全な部分を探っていく。

「被害者が誘拐された、今も監禁されてるって前提で話が進んでるじゃないですか……」

「……それが何かおかしいですか?」

「……焦ってるように見えます。このプラネって人、ラジオさん詳しいんですか?」

 こういう事件の場合、事件発生から八年も経ったのであれば被害者の生存は絶望的だ。誘拐事件だとしても既に亡くなっているか、そもそも最初から殺人事件だった可能性もある。犯行についての情報が殆どない為に『シュレディンガーの猫』になってしまっているが、現実的に考えれば死んでいる方が自然だ。谷口はそのことを言及したかったのだが間が悪かった。

 ラジオが目をぴくつかせながらポーカーフェイスを何とか維持しようとする。

「まあ、わざわざ組織が担当しない事件をやってるわけですから。詳しくて当然」

「……友達ですよね」

「不正解、親友が正しいです」

 この二つは似ているようで違う。プラネと彼女の関係は友達なんて簡単なものではなく、敢えて言葉を使わなくとも通じ合う親友だった。故にラジオは彼女の自発的な失踪ではないと信じており、こうして今も探し続けている。八年経っても暇さえあれば事件についての資料を集め、休暇を取っては調査に費やしてきたのだ。

 だが、それと生存を信じることについては別の話だ。

「だから、早く私が引っ張り出してあげないと。手遅れになる前に」

「でもラジオさん……もう八年が」

「粳部さん、プラネが死ぬわけないじゃないですか」

 その時、粳部はこの世で最も恐ろしいものを見た。ラジオの壊れかけのポーカーフェイスの瞳は濁り切っており、ただ一筋の光すらもない沼地がそこに広がっていた。プラネの生存を盲信するラジオは、粳部からすればとても正気とは思えなかったのだ。

 今まではプライベートな内容に触れる機会がなかった為、ラジオの精神状態について粳部は知らなかった。一度、訓練の中でラジオが誰かを探していることは分かっていたものの、あまりに具体的な情報がなく曖昧だったのである。しかし、今なら分かる。

 彼女の心は既に軋み始めている。

「それは……誰にも分かりませんよ」

「私には分かる。あの子は死なない、私に会うまで」

「お待たせしました!飲み物です!」

 後部座席から入ってきた職員は片手に紙袋を、もう片方の手にコーヒーの容器を持っている。彼女はまず紙袋を座席に置くとコーヒーをラジオに手渡し、紙袋の中から取り出した飲み物の容器を粳部に手渡した。

「あっ……ありがとうございます」

 ラジオはまだそれに口を付けず置いておくものの、粳部はすぐに口を付ける。初体験の味わいが粳部の口の中に広がっていくものの正体は分からず、リンゴに何かを混ぜた暖かい飲み物ということしか見えてこなかった。ホット・アップルサイダーが初体験の彼女にそんなことが分かる筈がない。

 その時、藍川と谷口が後部座席の扉を開けて入ってくる。

「外れだ。奴は犯人ではないだろう」

「読んだが見当違いだ。他を当たろうぜ」

「駄目か……まあ、一度捜査本部に戻ろうかな」

 職員が紙袋から飲み物を取り出して二人に手渡す中、ラジオがアイドリングで微かに揺れるコーヒーの容器をドリンクホルダーから持ち上げた。そしてそれに口を付け飲み始めた途端に表情が急変すると、突然その手が微かに震えてドリンクホルダーに再び置く。

 青ざめ口を抑える彼女の様子を、粳部が見逃す筈がなかった。

「ラジオさんどうか……」

「おえっ……うっ……!」

 車の扉を開けてギリギリ飛び出した彼女は我慢できず、飲んでいたコーヒーを吐き出してしまう。司祭は病気に罹らない。精神的な病については一般人と変わらないものの、肉体的な欠陥は元来持ち合わせていない。この場合、粳部の脳裏に浮かぶのは個人的な好き嫌いだ。

「ゲホッ!おえっ……すいませんっ」

「ああ……コーヒー嫌いでしたかラジオさん?」

「……いえ、砂糖が入ってたのが原因です」

 吐き終えた彼女が起き上がり、運転席に戻るとハンドルを握った。後部座席の職員は自分が持ってきた飲み物が原因で起きたトラブルに責任を感じていたが、ラジオは職員のことなど微塵も気にはしていなかったのだ。

 ラジオの様子を伺う粳部。

「砂糖って……あっ!確かラジオさんの弱点って……」

「甘いものが生理的に受け付けなくなる。そういう弱点なんですよね」

「えっ!?あっ……すいません!砂糖要るって勝手に答えちゃいました!」

「構いませんよ。私のミスです」

 プラネのことで頭が一杯になっていた彼女は、コーヒーに砂糖が入れられる可能性が完全に頭から抜け落ちていた。それだけ、彼女を助ける為に何もかもを犠牲にしているということだ。些細なことはどうでもよく、今はプラネを救うことを考えられればそれでいい。

 車が雪道を走り出す。

「……やっぱり、キツい弱点っすね」

「まあ、ケーキなんか食べたりしない限りは少しキツい程度で済みますよ!」

 そう言うラジオの目に光がないことを、横顔を眺める粳部は知っていた。


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