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12-4

【6】


「はあ……何かドッと疲れが出ました」

「酒飲みながらダラダラ飯食ってたらそりゃ疲れるよ」

 蓮向かいの粳部の自室にて、デリバリーのピザを摘まみながらダラダラと過ごす粳部と藍川。時計の針は既に二十時を指しているというのに話は続き、久々の会話に花を咲かせていた。机の上の白ワインのボトルとグラスが光る室内は薄暗く、正に深夜というドラマチックな雰囲気だ。

 最も、日本とオーストラリアの時差は二時間の為に日本はまだ夕方なのだが。

「カーラーさんとクーヤーさんの面倒を見るの……超大変です」

「まあ、お前って教えるのは上手くないからな。後輩だし」

「失礼な。私にだって後輩居たんですよ!……殆ど話さなかったんですけどね」

 酒が入っているからか頬を赤くして話す粳部。粳部は同い年か年上の方が話しやすく、逆に年下とは話しにくいタイプの人間だ。自分よりも年上の相手とはいえ、下の立場のカーラーとクーヤーは正直なところ扱いに困っていた。早く一人前になって欲しいとすら。

「はあ……というか、最近部屋に居ても休まらないんですよね」

「枕変えた方がいいぞ」

「そうじゃなくて……部屋が馴染まないんですよ。実家の方がマシかも」

「もう辞めちまえよ仕事」

「凄い暴言が聞こえてきたんですけどー!」

 司祭だというのに、何故か藍川も酔っぱらったようなテンションになってしまっている。

「粳部酔ってんのか?」

「酔ってるのは発言的にあなたでしょーが!」

「俺は司祭だから酔えねーんだよ!」

「じゃあ元からこれですか!」

「今の立派な暴言だろ!」

 飲み食いを暫く続けていたせいで粳部の緊張が解けてきたのか、それとも酔いが回って思考が滅茶苦茶になってきたのか。顔を赤くしている彼女はグラスのワインを飲み干すと、座っているベッドに力なく寝転ぶ。部屋に他人が居るのにこの始末だ。

 彼女が天井を見つめ真顔になる。

「最近、自分の目的が何か分からなくなってる気がするんス……」

「目的って……元の体に戻ることだろ?」

「それはそうなんですけど……そればっかり考えてられないよなーって」

 粳部は当初、元の普通の体に戻る為に組織に入った。任務をこなし情報を収集し続ける粳部であったが、残念ながらその進捗は芳しくない。それよりも任務の中で世界を知り視野を広くしていく彼女は、以前よりもずっと多くのことを考えるようになっていたのだ。

 藍川が二本目のボトルを開ける。

「色々な任務やってる内に……誰かの為に頑張りたいって思ったんです」

「……お前が気にすることじゃないだろ」

「曲がりなりにも誰かの為の仕事じゃないですか」

「それは……否定できないが」

 彼は苦い顔をしながらワインにグラスを注ぎ、味わうこともなく一気に流し込む。アルコールを概念防御が弾いてしまう司祭は酔うことが目的ではなく、ただ気まずさを乗り切る為の一杯だった。しかし、とてもではないが彼の気は紛れなかった。

「……それに、どっちか選ばないといけないって話でもないですし」

「……頑張りたいって言う割には浮かない顔してたぞ、お前」

 不意を突く彼の指摘に真顔になる粳部。確かに、彼女は言葉通りに目的が二つあるのかもしれない。だが、それでも悩みだらけの粳部の気持ちは浮かないままだ。酒の力を借りても心の奥深くに巣食う物はどうにもならない。特に、藍川には全てを話せない。

 酔いが途端に醒めた気がした粳部は起き上がり、グラスにワインを雑に注ぐと一気に飲み干す。どうにもならない自分の想いを酔いで忘れたい彼女だったが、物事はそう単純にはいかない。

「仕事してて良かったこともありますけど、辛いことは簡単に忘れられなくて」

「……」

「そんなに器用じゃないんですよ、私」

 食べて寝て全てリセットできるような単純な人間であればどれだけ幸せだっただろうか。どんなことをしようと石のように硬く結晶化して残留し続ける苦痛は忘れられない。自分で自分が面倒でどうにもならない人間だと分かっている彼女は、そのことを嫌悪して無限に堂々巡りを続けている。

 それを止める一歩は、未だ踏み出せぬままだった。

「みんな苦しんでいて、私にできることはいつだって限られてて……」

「……」

「……この話もうやめましょうよ」

 虚しくなった粳部が話を止める。自分が駄目な人間だということを知っているというのに、それを敢えて口にする必要はない。再確認せずとも分かり切った話だった。そもそも、藍川の提案に乗って酒を飲んだこと自体が未練がましい話だ。

 藍川が彼女の意を汲む。

「だな。明日は昼前に手先を罠に掛けるんだ。さっさと寝て休んどけ」

「……そうっすね」

「ところで随分と飲んだな。これ気に入ったか?」

「実に甘くて美味しかったです。高いんすか?」

 そう言われた藍川がボトルを持ち上げて書かれた文字を読み上げる。

「シャトーディケム五十九年。二本で九十万円くらいか?」

「バカスカ飲んじゃいました!?」

 かつて存在したヨーロッパはワインの名産地だったが、現在もうそこでは生産どころか人の文明もまともに残っていなかった。藍川や粳部の世代には既にその実感はない。しかし、もう二度と生産できないかつてのワインはその価値が跳ね上がり、今では貴重な在庫を金持ちが減らし続けている。

「貰い物だから気にすんな」

「何だろうと気にしますよ!一気飲みしましたし!」

「俺はそんなに味を感じなかったな」

「も、もったいなさ過ぎる……」




【7】


『ぷはあ!はあ!はあ!ゴホッゴホッ……』

『君、まだ一分しか経ってないよ』

 水の張った洗面器から顔を上げるカーラー。シャツの袖を捲った三十代の男は無表情のまま、瞬きもせずにカーラーの頭を掴んでいる。男によって無理に水の中に顔を沈められていた彼女は、肩で息をしながら水でむせた。しかし、苦しそうにする彼女の反応に彼はピクリとも反応しない。

 それは現在から数年前、まだ双子が自由を知らなかった頃の出来事。

『ゲホッ……はあ』

『もっとだ。もっと長く沈んでくれ、それにまだ最後まで言ってない』

『わ、分かったから……す、少しきゅ』

『待たない』

 客の男は再びカーラーの頭を抑え付け洗面器に沈める。その勢いで張っていた水が溢れ出し洗面所の床を濡らす。風俗店の薄暗い照明に照らされる中、壁の薄い部屋に彼女の悶え苦しむ声が響く。弾ける水音で歪んで聞こえる声を聞いても助けに入る者は居ない。客が金を払った以上、事前に選択したコースや規約に逆らわない限り邪魔は入らない。

 客の男がブツブツと数字を呟き始める。

『十六、三、二十四、九十五、百二十、七、六十、二、千五百九』

『んんんんっ!』

 呟く数字に意味はない。男の意味が分からない趣味に付き合わされているカーラーは水の中で必死に息を止めながら、男を怒らせない為に必死で数字を記憶する。困惑はしているし苦しいが逆らえばもっと酷いことになることを知っている彼女は従い、何とか期待に応えようとしていた。

『二十、四十三、六、八十一、九十一、四、五百三』

『ぷはっ!ゲホッゴホッ!はあ!はあ……』

『さあ数字を全部覚えてるだろ?全部言え』

『はあ……はあ……七十、三百二、四十一、八、九』

 双子は当然義務教育は受けていないが、誰かの言うことを聞いて生き延びてきた為に記憶力だけは高い。それに客による暴行で死にたくない一心から、必死に覚えてその場を乗り切ろうとしていたのだ。息を切らしながら次々と記憶している数字を続ける。

『七十八、三、二十七、四十、千二百九……三百』

『どうした。さっさと続けろ』

 不満になった客は彼女の首を掴むとゆっくりと絞め始める。一度も瞬きをしない男は目が乾燥することも厭わず、まるで殺意があるかのようにカーラーを苦しめ続けていた。感情がないかのような素振りではあるが、数字が途切れ途切れになる彼女に次の数字を要求することを決して止めない。まるで、それが重要な意味を持っているかのように。

『十六、三、二十四、九十五、百二十、七、六十、二、千五百九』

『そうだ、その意気だ』

『二十、四十三、六、八十一……九十一、四、五百三』

 彼女が全て言い終えると客はその手を離し、自由に呼吸できるようになった彼女は大きく息を吸う。乱れた呼吸によってむせ返り咳を何度かした後、ようやく解放された彼女は洗面所の床に力なくへたり込む。

 客は捲っていた袖を戻し、洗面器の栓を抜いて水を流す。

『上出来だ。今日は時間的にここまでにしよう』

『はあはあ……数字に……何の意味が?』

『意味なんてない。だが、楽しかったろう?』

 客の男は無表情のままタオルを手に取りカーラーの頭に乗せ、洗面所を出ると部屋の出口に向かう。彼女は立ち上がりフラフラとした足取りで洗面所を出ると、紳士的な帽子を被った客が彼女に向けて笑顔を見せた。

『お疲れ様、また指名するよ』

 彼の意味不明な情緒をカーラーが気にすることはない。首にタオルを巻いた彼女を放って客は部屋を退出し、壁の薄い部屋に一人取り残される。疲弊もあり呆然と立ち尽くすカーラーの耳に、隣の部屋からのわざとらしい嬌声は届かない。ここは地上の地獄、誰も助けに来ない無法の領域。

 濁った彼女の瞳には決して、遠い未来なんて映らない。



 狭く、ベッドと少ない調度品しかない殺風景な地下室。ゆっくりとした足取りでカーラーが中に入ると授業員が扉を閉めて鍵をかけ、足早にその場を立ち去り足音が遠ざかっていく。硬いベッドに寝転ぶクーヤーは姉が帰ってきたことに気が付いていたが、体を動かせる状態になかった。

 カーラーがベッドに向かう。この牢獄のような部屋が彼らに与えられた自室なのだ。

『お疲れ……カーラー』

『……はあ』

 疲れ切ったカーラーがベッドに腰かけ、疲れからか大きなため息が出る。生死の境をさまようような体験をしたからか、精神的にも肉体的にも摩耗した体は限界を迎えていた。これを毎日続けていれば正気を保てなくなってもおかしくないだろう。しかし、正気を失っても待っているのは暴力による治療だけだ。

 クーヤーがか細い声で喋る。

『体動かせない……お腹も痛い』

『……人を呼ぶ?』

『いい……この前診てもらったばっかだし、怒られたくない』

『そっか……分かった』

 体が不調であったとしても、目に見える形の不調でなければ助けを求めることはできない。しかし、間隔を空けずに助けを呼ぶことは彼らの怒りを買い、使えないと判断されれば精肉業者に売り払われる。一日中の仕事で限界を迎えていたクーヤーは助けを求めたい気持ちを抑え込み、そのままベッドで体を丸めた。

 カーラーが話し掛ける。

『寝れば何とかなるよ……そう思うしかない』

『……隣の部屋の奴、騒いでたけど静かになった』

『そうなんだ。名前は何だっけ?』

『多分ゾーイ……ずっと子供がって叫んでた』

『……ああ、流産かな。仕事空けないで欲しいけどどうだろう』

 最早、自分のこと以外を考える余裕など彼らにはなかった。仕事をこなしてなるべく苦しまないように最善の手を選んで、殺されないように必死で生きるだけ。唯一の家族である姉妹二人で、明日も分からないこの地獄を生きている。分けられる優しさなどそこにはない。

 クーヤーが寝返りを打ち天井を見上げる。

『……私達、何の為に生まれてきたんだろう』

『……生きる為かな』

『どうだろう……』

 そんなことを考えられる程長く生きてきたわけではないが、考えられない程適当に生きてきたわけでもない。それを考えることができないのは二人が完全に疲弊してしまっているから。生きるだけで精一杯だから。

 カーラーが吐き捨てるように言った。

『分からないよ。こんなんじゃさ……』



 柔らかいベッドの上でクーヤーが目を覚ます。明かりの消えている室内はかつて自分が閉じ込められていた牢と同じくらいの暗さだったが、枕元のスイッチを押すと瞬時に明るくなる。真っ白で無機質ではあるが清潔で整った房、それが今のクーヤーの部屋。

 彼女がまどろみながら起き上がる。別室のカーラーはここには居ない。

「……何の為に……生まれたのか」

 彼女は娼婦だった頃よりも穏やかな生活を手にし、精神的にも余裕を得始めた。生きるので精一杯だった時代は過ぎ去り、ようやく自分達の明日について考えられるようになったのだ。しかし、何の為に生まれたのかを言語化するのは難しい。

 その時、天井に備え付けられたスピーカーからラジオの声が響く。

『おはようございまーす。起きてください、作戦時刻です』

「……分かってる。仕事すればいいんでしょ」

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