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14-4

【6】


「正気で言ってるのか?」

 蓮向かいの会議室に佇む真顔の藍川。職員が慌ただしく中を出入りし、谷口は壁に寄りかかって状況を静観している。丁度職員が部屋から出て行ったタイミングで、ラジオは二台のパソコンを操作しながら藍川の方を向いた。

「粳部が消えた……連絡が完全に途絶えてるの」

「面目ない。連絡を受けて探したが見つからなかった」

「……最後の目撃は?」

「私が音を聞いた……男と口論した後、急に彼女の音が消えた」

 ラジオが権能で聞くことができるのは音だけだ。有効範囲内にある音が出る機械を使って盗聴ができる彼女だが、何でも知っているというわけではない。特に、相手が音の出る機械を持っていない場合は無力だ。

「その男は調べたのか?」

「取り調べした……気が付いたらもう居なかったって」

「……何でこんなことになるんだ!」

 取り乱す藍川を二人は悲し気な目で見る。突然、粳部が消えてしまったと言われればこうもなるだろう。蓮向かいの職員が音信不通になるというのは問題だ。死んでしまったのであればまだいいが、攫われて組織の情報を漏らすのが一番の問題だ。

 とは言え、藍川が気にしているのはそこではない。彼は怒りから腕を振り上げていたがそれを机に叩きつけることはできず、手を震わせながらゆっくりと下ろす。

「既に最後の目撃から二十六時間。どこで何しているのか」

「私の権能の有効範囲に居ないか……音の出る機械が近くにないか」

「何でもいい!関係する話題があったら報告しろ!」

 最早、追い詰められた藍川は完全に余裕を失っていた。一体どのような理由で姿を消したのかは分からなかったが、現実問題彼女は失踪している。彼は彼女が被害に遭うことを何よりも恐れているのだ。今は自分の命よりも大事だというのに。

「何が何でも見つける!最優先だ!」

 それは完全に私情だった。一応、部隊の隊長はラジオなのだが彼はそんなことなど忘れて会議室を出て行った。自動ドアが閉じると部屋は途端に静寂に包まれ、少しの間の後に二人が目を見合わせる。誰がどう見ても藍川はまともな状態ではない。

「……俺は反社会的勢力の線で調べてみよう」

「私は音を聞き続ける。もしかしたら……何か聞こえるかも」

 とは言え、望みは薄い。彼女が今国内に居るのか国外に居るのかがサッパリ分かっていないのだから。このまま調べて本当に見つかるかどうか。二人は粳部の性格的に自ら姿を消したわけではないと分かっていたが、それにしても何も分からなかったのだ。

 寄りかかっていた谷口が壁から離れる。

「……奴、今年中が限界じゃないか?」

「……今でもとっくに限界でしょ」

「まあな。問題は壊れても動いているということだ」

 多少壊れたところで藍川は止まらない。肉体的にも精神的にも、坂を転がり落ちる球のように止まらずに落ち続ける。終点が来るまでどこまでも、彼の心情を無視して悪化し続ける。その果てに生まれる怪物がどれだけのものなのか、彼らにはもう分からない。




【7】


「武道さん、気が抜けた感じですね」

「ああ、この間のでもう腑抜けたよ」

 ラーメン屋の屋台、武道と弟分が席に並んで麺を啜っている。静かで少しだけ冷えた夏の夜、白い湯気が空に立ち昇っていた。明るい顔の弟分と空虚な表情の武道。南條を殺し仇を討った時からその表情は変わらず、その虚ろな目は何も見ていない。

「一昨日からそんな感じですけど、このまま引退しそうじゃないっすか」

「……実際引退だろ」

 近藤の仇を討ったことで、彼の中では何もかもが終わってしまったのだ。あまりに大き過ぎる出来事が、彼の心の全てを支配していたことの反動が今になって彼を襲っていた。だが、それを今理解したところで既に手遅れだ。本当に、何もかもが終わってしまったのだから。

「そんな縁起でもない……」

「今はただの猶予だ。明日にでも自首するかな」

「えっ、そんな……悪いのは近藤さんを殺したあの南條でしょう」

「まあそうだが、それはそれとして筋は通さないとな」

 武道の中で全てが終わった以上、その後のことに意味はない。刑務所に入って服役しようとどうなろうと興味はないのだろう。武道の本心では、近藤の居なくなった組織に関心がないのだ。傍に居る弟分のこともどうでもよくなっている。

 武道が空の器を前に箸を置いた。

「もう疲れた。勘弁してくれ」

「……分かりました。残念ですが、武道さんがそこまで言うなら」

「苦労かけるな」

「いえいえ、多分斎藤さんが跡を継ぎますよ。何とかなりますって」

 弟分が武道の肩を叩いて励ます。そんな言葉も彼には届かず、武道の体に空いた空虚な穴を通り抜けて夜の町へ消えていった。後のことは彼の知ったことではない。そんなことも知らずに弟分は微笑みながらラーメンのスープを飲み干し、器を置いた。

 その二人の背中を遠くから女が見つめている。

「そうだな。大将おあいそ」

「へい」

 武道がポケットからお札を置いて立ち上がろうとする。しかし、彼らを見つめていた女がゆっくりと近付いていくと、武道の背後で包丁を取り出して彼の背を突き刺す。あまりにも急な出来事に二人は何が起こったのか分からず、屋台の大将は尻もちをついた。

 その隙に包丁を握った女が何度も突き刺す。

「んっ!んっ!」

「おいてめえ!」

 弟分が女に掴み掛かろうとするが彼女は包丁から手を離し、武道から少し離れると顔が光に当てられる。少しやつれた顔をした壮年の女は、少し涙をにじませて叫ぶ。

 包丁が刺さったままの武道は椅子から崩れ落ちた。

「ざまあみろ!あの人の仇だ!」

「クソっ!兄貴!」

 女が夜道を駆けて消えていく中、倒れた武道を弟分が起こす。彼は背中の傷口から激しく出血し、どういうわけか口から泡を吹いて痙攣していた。不審に思った弟分が背中から包丁を引き抜くと、そこには血だけではなく緑色の液体も付着していたのだ。

「あいつ毒を!兄貴!おい救急車呼んでくれ!」

「へ、へい!直ちに!」

「あと水くれ!」

 武道の体内に毒が入ったことで痙攣と口から泡が止まらず、弟分は店主から水の入ったペットボトルを受け取ると武道の服を破いて傷口に水をかける。そして弟分は彼を横にすると、破いた服を傷口に押し当てて圧迫止血を試みた。しかし流れる血の量はマシにならない。

 店主が近くの公衆電話に駆け込み救急車を呼ぶ。

「何でだ!兄貴は正しいことをしたのにっ!」

 既に虚ろな目の武道は死に体で、呼吸は殆どないようなものだった。思考も次第に停止していき、死体のように生きていた彼は本当の死体へと変わっていく。必死で彼をこの世に繋ぎとめようとする弟分の苦労虚しく、彼の震えは止まった。

「こんな……こんなのおかしいだろ!」

 男の叫びが夜に木霊する。彼の問いに答える者は居ない。




【8】


「はあ……はあ……」

 寒空の下、どこまでも広がる曇天の空とそれを水面に映した濁った海。肌寒いオーストラリアの海を、粳部は小船と古ぼけたオール一つで進んでいた。八月が近付いてきたオーストラリアは丁度冬真っ只中で、現在の気温は七度。

 とは言え、休まずオールを漕ぐ粳部の体温は高かった。

「(海坊主を伸ばして船とオール作ったけど……)」

 空から海に落ちた粳部は当初泳いで岸を目指したものの、途中で海坊主で小舟を作ればいいことに気が付きそこから楽をすることに成功した。今の粳部は睡眠も食事も要らず、休息を取る必要すらもない疲労を感じない体だ。とは言え、精神的な疲労はどうにもならない。

 岸まであと少しの距離になり、粳部の顔に少し笑顔が戻る。

「やった!あと少し……」

 精神的に疲れた粳部は小舟の底に横たわり、今にも雨が降りそうな灰色の空を見つめる。自分が今どこに居るのか分からない粳部は寝ることもできない海上で常に不安だったが、ここが無人島だったとしても有人島だったとしても海上よりはまだマシだと思っていた。

 上体を起こして陸地を見つめる粳部。遠くから見ても大きな陸地に彼女は疑問を覚えていた。

「……ここどこっすかね」

 何の目印もない海をただ進み続けたところで分かることはない。粳部に海外の植生に関する知識はなく、その広大な土地が世界地図のどこにあるのかを彼女は知らない。

 その時、粳部はあることに気が付いてしまう。

「あっ……そんな」

 恐ろしいことに気が付いた粳部は自分の影から海坊主を出す。そして海坊主がオールを漕いで小舟が岸に近付いていくと、彼女は叫んで頭を抱えた。

「ああああ!もっと早くやらせれば良かったああ!クソおお!」

 自力で漕ぐよりも海坊主にやらせた方が早い上、自分は精神的に疲れることがない。そんな簡単なことにも粳部は気が付けなかった。今までの苦労が無駄だったことを知った粳部は小舟の中で暴れ回り、彼らを乗せた小舟はとうとう砂浜まで五メートルという所までやって来た。

 粳部が飛び起きると小舟から砂浜に飛び移る。

「着いたああああ!」

 砂浜に着地と同時に彼女が叫ぶと、それと同時に物陰や草むらから特殊装備の兵隊が飛び出し銃を構えて彼女を包囲する。あまりのことに飛び跳ねて驚く粳部だったが、咄嗟に両手を挙げて降参した。何が何だか分からなかった彼女の混乱が加速していく。

「えっ?えっ!?」

「動くな!どうやってこの海域に現れた!」

「こ、小舟で!」

「どこの所属だ!言え!」

「所属なんてありゃしませんよ!」

 痛い目に遭わないように必死に説明する粳部だったが、ふと隊員の特殊装備に気を取られる。それは以前どこかで見たことがあるようなもので、目を凝らして見つめるとそれがなんて名前をしていたのかを思い出す。蓮向かいのデータベースを漁っていた時に見たことがあったのだ。

「あれ?そ、その装備ウチが開発したTTティーツー-14じゃ……?」

「機密が漏れてるぞ。おい、どうなってる」

「待て、判断を仰ぐ」

 隊員の装備の名前を言い当てる粳部に困惑する彼らだったが、そんな彼らを見かねたのか奥の茂みから女性がやって来る。粳部はというと、蓮向かいのみが使える装備を謎の集団が使っていることが理解できていなかった。呆れた表情をした女性が近寄ると隊員らは彼女を二度見する。

「君達、彼女が誰だと思ってるんだ」

「バンカー司祭!」

「君、今行方不明になってるうちの職員の粳部音夏だろう?」

「は、はい!な、難破しちゃって!」

 バンカー司祭と呼ばれた女性が首を横に振ると、隊員達は構えていた銃を上に向けて気を付けの体勢を取る。そして、彼らはその場を立ち去ると再び物陰や草むらに姿を消していく。残ったのは呆気に取られる粳部と彼女だけだった。

「私は藍川の昔の同僚、バレルだ。皆が君を探してるぞ」

「えっ、じゃあ組織の……あ、あのここってどこなんです?」

「えっ?」

 バレルが大口を開けた後に粳部の事情を察したのか、咳払いをして気を取り直す。

「ここはオーストラリア。いつもの基地はこの地下にあるぞ」

 オーストラリアというとんでもない単語を聞いた粳部は、バレルのように大口を開けるしかなかった。


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