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14-5

【9】


 ベッドで無機質な自室の天井を見上げる粳部だったが、嫌気が差したのか横を向く。バーベルを上げ下げする手は止めていない。壁紙でも買って貼り付ければ少しは気も紛れるのだろうが、粳部に壁紙の知識や壁紙を買う意欲はない。

 オーストラリアの海岸に流れ着いてから二日、丸一日掛かった検査と調査を終えて今は自室に幽閉されている。まあ、普段から自室に篭るかデータベースに篭るかしかしていない彼女にとってはそこまで苦しいことではないが、今は一つ気がかりなことがあった。

「……何日経ったっけ」

 武道が起こしたあの事件から何日経ったのか、彼女の記憶は少し曖昧になってしまっている。海を彷徨っていたせいで頭の中から完全に消えていたが、こうして落ち着いたことでようやく思い出すことができたわけだ。

 物思いに耽ろうとしていたその時、突然部屋の扉が開くと光が差し込む。

「粳部、もう復帰しろとのことだ」

「うわああああ!?」

 急に部屋に入って来た谷口に驚愕して粳部は叫び、うっかり手からバーベルが落ちて頭にぶつかる。痛みに悶絶しつつ彼女はベッドの毛布を引っ張って体を隠した。デリカシーのない谷口は直立不動で普段と変わらない様子でいる。

「痛っ!?急に入って来ないでください!」

「仕事が色々と入ってる。寝てる場合じゃないぞ」

「無視しないでください!」

 仮面の向こうの表情を見せない谷口に呆れた粳部は文句が言いたくなったが、彼に何を言っても無駄だと思い溜め息を吐いて諦めた。粳部が毛布を手放して起き上がる。だがその時、ふと武道の事件を思い出して彼女の動きが止まった。

「……前に会った武道さん、どうなったか知りませんか?」

「ん?知らん。名前を聞くまで忘れていた」

「……彼、人を殺したんです。逮捕されました?」

 谷口が少し考え、思い悩むように黙り込んだ後にその顔を上げる。

「藍川に口止めされていたんだがな、奴は死んだよ」

「……えっ?」

 最後のクラスメイトはもう居ない。犯罪を犯し道を踏み外した、自分が傍に居れば止められたかもしれない人がもう居ない。その事実は彼女に重くのしかかり、やっと落ち着いた彼女の精神に揺さぶりをかけていく。

「し、死んだ?武道さんが?」

「武道が殺した男の妻が彼を刺殺した。毒物もあった」

 それを聞いて粳部が俯き呟く。理解できないことの連鎖が始まった、それぞれがそれぞれの理由で殺し殺されを繰り返しているのだ。その果てにあるものが何かを何も考えずに。

「……復讐なんて」

「逮捕された女は護送車に車が激突して死亡。勿論、故意で復讐は今も続いてる」

「と、止めなきゃ……」

「……何故?時間の無駄だ」

 谷口の声は冷ややかだった。復讐の為に行動し続ける彼が粳部の意見に賛同する筈がない。燃え尽きた灰のような彼の中で燻る火はまだ燃え尽きてはおらず、彼女の声はその火を掻き消すことはできない。

「蓮向かいは通常の事件の捜査は行わない。地元警察の管轄だ」

「で、でも……同じことを繰り返すなんて……!」

「俺達の仕事じゃない。それに、好きにやらせればいい」

 いつか復讐を果たす立場である谷口からすれば、自分の願いを叶える為にも他人の復讐に口を出すつもりはないだろう。仕事が絡まない限りは無視するのが彼という人間だ。無駄を省いて最大限時間を有効活用する彼がそんなことに時間を割く筈はなかった。

 だが、粳部がそれに納得がいく筈がない。

「そんなの法の番人の言うことじゃないです!」

「ああ、粳部の言っていることは全て正しい。だが俺は全て無視する」

「無茶苦茶ですよ!」

「誰かを殺そうと思うんだ。無茶苦茶で当然」

 いつもと変わらない声色で平然と話す谷口の心情を、粳部は読み取ることができない。声色は変わらず顔色は見えない谷口が相手では、流石の粳部も分が悪過ぎるというものだ。悔しがる粳部は手を握り歯を食いしばる。

 その時、部屋の片隅で来春が壁に寄りかかって話す。いつも通りのにやけ顔で。

「別にいいんじゃないかな?世界は広い遊び場なんだ。好きにやらせればいいだろう」

「うるさいっ!お前とは話してない!」

「……誰と話してる?」

 突然、何もない場所に向かって怒る彼女が理解できず困惑する谷口。彼女は来春の居た方を見て何もないことを遅れて認識し、自分が一体何をしていたのかが分からなくなる。彼女は確かに姉の姿を見たというのに、部屋には誰も居なかったのだ。

「い、いえ……何でもないです」

「……そうか」

 暫くの間、二人の間を奇妙な無音が埋める。

 何も言う事はない。ただ静かだった。

「……」

 そんな空白が続いた後、我慢勝負に耐えられなくなったのか谷口が不意に口を開く。

「そういえば、今は次の仕事までの休憩時間だ」

「……はい?」

「一時間の休みが義務付けられているな。あーどうしたものか」

 わざとらしく話す彼の言葉の真の意味を粳部が理解した時、彼女は微笑んだ。




【10】


 夏の日差しが降り注ぐ中、スーツの男はアパートの廊下で汗を掻きながらインターホンを押す。しかし中の住人は反応を示さず、我慢できなくなった彼はPHSを取り出して中の住人に電話をかける。だが、何の反応もなかった。ただ、男がドアに耳を寄せると中から着信音が聞こえていた。

 男の顔に焦りが滲む。

「兄ちゃん何してんだ……」

 その時、階段を上ってきた初老の男が彼に気が付いて声を掛ける。

「おお、要君!久しぶりだな」

「あっ!おじさん良い所に!」

 初老の男が要と呼ばれた男の下に歩いて行き、扉の前で止まった。初老の男は懐かしい人を見た表情をしており、ハンカチで汗を拭いながら話し始める。

「今日はお兄さんに会いに来たわけか」

「そうなんですけど、兄貴急に連絡が途絶えて……今も電話に出ないんです」

「……本当だ。中で電話が鳴ってる」

「知り合いも電話できなくて、会社にも行ってないみたいだから……」

 初老の男がうーんと考え込んだ後、持っていた鍵の束の中からこの部屋の鍵を探すとそれを見せる。このアパートの大家である彼ならば部屋の鍵を開けることができる。安否確認の為にのみ限られるが。

「うーん、開けてみるか?買い物行ってるだけかもよ?」

「ずっと連絡ないなんて変だよ。倒れてるかも」

「ないと思うが……まっ、開けてみるか」

 そう言うと男は鍵で扉を開ける。要がドアノブを引っ張るとチェーンは掛かっていなかったようで、簡単に扉が開いてしまう。中からは涼しい風が外へと吹き込み、冷房は確かに効いていることを教えてくれる。一瞬自分の気にし過ぎかと思う要だったが、やはり電話にもインターホンにも出ないことはおかしい。

 要が先導して兄の部屋に入っていく。

「兄ちゃーん、俺だけどー」

「居ないなら居ないって言ってくれー」

 靴を脱いで上がり込む。部屋は整頓しており埃も少なく、つい最近まで要の兄がここに居たという証拠である。彼はシャワーでも浴びているのではないかと風呂場を覗き込むが、風呂場は乾いており誰も居ない。トイレの中にも彼は居らず、冷房の唸る音だけが静かに響いていた。

「居ないですね……やっぱり帰ってないのかな」

 そう話しながらリビングに二人が進んでいくと、そこには椅子に座ったまま死んでいる要の兄が居た。腹が切り裂かれたまま項垂れて死んでいる彼はまだ死んで日が浅いのか、冷房のおかげもあり腐敗は進んでいなかった。

 驚愕した二人が駆け寄る。

「兄ちゃん!?」

「ああっ!何てこった!」

 床には血の付いた包丁が転がっており、彼の手は赤く染まっている。唐突な兄の死が理解できなかった要は口をパクパクとさせて混乱していたが、不意に机の上に置かれていた遺書と書かれた紙が目に入る。

「こりゃアカン!ちょっと警察に通報するからな!要君は部屋から出て!」

 大家が大慌てで部屋から出ていく中、要は兄が残した遺書を手に取って折り畳まれた紙を広げると読み始める。震える手で、そこに書かれている真実を読み解く。

『私はもう生きていけない。世間様に顔向けできない』

 震えながら書いたたようなか細い文字は確かに彼の兄の文字で、それが確かに彼の書いたものだと分かる。

『父が殺され、母はその仇を取って人を殺した。もうめちゃくちゃだ。一週間で全部壊れた』

 要の手も震えている。それを読んだだけでも兄の死は他殺ではなく自殺と分かるのだから。考え続けた結果、自ら腹を切り裂いて死ぬことを選んだわけだ。

『私は疲れた。誰かが誰かを殺すなんて嫌だ』

 要は読み終わった遺書を机の上に置き、震えながら踵を返して部屋の出口へ向かう。冷房で体は冷えているというのに汗は未だに出ていた。背中に当たる風が汗の水分によって強い冷気に変わる。ここは、居心地の良い場所ではない。

 彼は後ろ手に扉を閉めると柵に手を置いた。

「……兄ちゃん」

 俯く要の手が次第に怒りで震え、柵を両手で叩く。彼はこの怒りをどこに向ければいいかをもう分かっていた。両親を復讐で失い、兄までその影響で自殺してしまった。つまり、彼も坂を転がり落ち始めてしまったのだ。

 大家が駆け付ける。

「要君!通報したよ!」

「……兄ちゃん自殺だった。遺書もあった」

「……そ、そうか」

 要は振り返らずに話を続ける。俯いていたところから顔を上げ、マンションの廊下から地平線を睨んでいる。そこにもう悲しみはなかった。

「両親が殺されて……兄ちゃんも死ぬなんておかしいよ」

「……要君」

「父さんは家族を大事にしてた。母さんは正当な復讐をしたんだ……」

 大麻の売人だったとしても、家族を大切にしていた事実は変わらない。恩義を感じていた者からすれば、極論ではあるが自分以外の人間をどう扱っていようとどうでもいい話なのである。

 要が血がにじむ程に拳を握る。

「……何も悪くない家族を、兄ちゃんを奪ったなら殺さなきゃな」


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