【9】
「……見送りだけしに来たんですか?」
「見送りだけだ。流石にまたパンチは勘弁だしな」
高い仮囲いで囲まれた立ち入り禁止区域と、それを取り囲む閑静な住宅街。その仮囲いで霧の満ちる区域を囲ってもなお周囲は霧で満ちており、昼前だというのに周囲は人気も音もない。夏の風物詩の蝉の鳴き声は全くなく、まるで時が止まったようだった。
そんな場所にラジオと粳部と、包帯を巻いた藍川が立っている。
「ここはガスが噴出していて、ウチでも申請なしじゃ入れないよ」
「……ホントに、あの子達はこの中に居るんですか?」
「近隣住人の証言、沼野の友人の証言、
「あとは……女の勘かな」
最後は半分冗談だが半分本気だ。情報が不足している中、限られた情報を元に推測を重ねた結果がこれである。法術を使って逃げ回ればその潜伏先の範囲は広大になるが、この絞り込みはある意味賭けであった。ラジオの勘も捨てたものではない。
「子供達は逃げずに、敢えて誰も探さない所に隠れたのかも」
「でも……ガスが出てるんすよ?死んじゃうんじゃ……」
「霧が……いやガスの薄い地域に居るのかも」
「それに相手は法術使いだ。ガスを解毒してるのかもしれない」
普段であればあんな子供にできる筈がないと答える粳部だろうが、今回は違った。相手は法術の名家である
「あと、過去の記録だと森の中に小屋が放置されてたな」
「私の権能も複数の子供の声を聞いた。つまり、有効範囲に居る」
権能の有効範囲である半径三百五十六キロ内に少年少女が居るかもしれない。しかし、有効範囲の広さから具体的な場所を特定できないのがデメリットだった。この場所に絞るのはある種の賭けだ。
藍川が仮囲いを睨む。
「粳部、探すのは山林部だけだ。都市部の立ち入りは……」
「禁止っすよね?分かってますよ」
彼女にそう言われても彼の表情は浮かない。彼としてもこの区域に入るのは心穏やかな話ではない。ここにはかつて二人の母校があり、粳部の本来の実家もあった。全てが始まって全てが終わる場所。そこにこんなタイミングで踏み込むことになるとは誰も考えていなかったのだ。
「……大人数の捜索ができればな」
「γ+以上でないと立ち入れないんだから、しょうがないでしょ」
「……あれ?私まだγ-じゃ」
「一昨日、γ+になったよ。開けて」
驚く粳部を放置して、ラジオが耳元の無線に呼びかける。すると仮囲いの中にあった扉が開き、中からガスマスクを着けた職員が顔を出した。
【10】
見渡す限り霧だった。三百六十度全てが霧に包まれ、視界はほぼないに等しい。ラジオは片手に携帯電話を握りアンテナを伸ばし、全く動かなくなった地図アプリを睨んでいる。こんな状況で人探しなどできる筈もない。
「……迷ってるよね」
「だからさっきから言ってるじゃないですか!」
粳部は紙の地図を両手に握りガスマスクをしながら答える。ガスの充満する危険な領域は司祭以外の人間が立ち入ることを拒んでいた。霧の中にある木々の並びはどこまで行っても変わらない。二人が今どこに居るのかも、この代り映えのしない場所では全く分からない。
「権能で藍川に案内してもらってるけど……分かんない」
「そもそも霧が濃すぎなんすよ。前見えないです」
「……この辺りは霧が薄い筈なのに」
ラジオが携帯電話のアンテナを収納すると折り畳んでポケットに突っ込む。道案内ができないのであればこんな物は必要ない。元々頼りない地図アプリがこんな時だけ都合良く力を発揮するなんてことはないのだ。
「電波も通じない……何かおかしい」
粳部が足を止めて辺りを見渡す。三メートル先に居るラジオの姿も霧で薄れ、その輪郭をハッキリと捉えることはできない。彼女はこの異常な霧が何なのかと感覚を研ぎ澄ませて考えていく。
「どうしたの?」
「何か……頭にモヤがかかってませんか?」
「モヤ?」
それはわずかな違和感。頭が正しく働いていないことにあまり違和感を感じられない謎。彼女は処理能力の落ちた脳でこの霧が何なのかを考える。今までの彼女であればただ翻弄されるだけだったが、今の法術に目覚めた彼女は違う。
彼女の感覚が法術を感知する。
「これ、法術です!感覚を狂わせて電波を遮断してます!」
耳元の無線も携帯電話も電波が遮断されて無用の長物となり、方向感覚を失った脳は正しい道を進むことができない。司祭すらも法術の影響下に置かれ侵入を阻んでいるということは、この法術を使ったのは相当の手練れだ。
「なら……こうすれば対策できる……できた!」
彼女があっという間に卜部の編み出した
粳部がラジオの方を見ると、そこにはもう誰も居なかった。辺りを見渡すが誰も居らず、彼女が大口を開けていると無線からラジオの声が響く。
『ごめん。ウロチョロしたら迷子になった』
「何やってんすか!せっかく霧を対処できたのに!」
『ごめん。先に調べに行って。音声は権能で聞こえるから』
「……はあ、分かりました」
霧の中にラジオは居らず、もう迷子になってどこかに消えてしまっている。とは言え悠長に彼女を探している余裕は粳部にはなく、一刻も早く少年少女を探さなければならなかった。彼女が再び歩き出す。
法術を無効化した影響か、彼女は先程よりも霧が薄れて見えてきていた。それでも十数メートル先がどうなっているのかまでは分からず、彼女は木々の並びを見ながら勘で歩いて行く。途中で少しだけ開けた道を見つけ、持っていた地図から大体の道を算出する。そして、道中で見かける廃墟を目印にしながら目的地へ向かった。
「道に出ました。多分行けます」
『よろしく』
前へ進む視界不良の中でも足取りは堂々としたものに変わり、彼女は遂に林を抜けてある煉瓦の壁の前に出る。そびえ立つ高い壁を迂回しようと歩いて行くも、抜けた先にはまた壁があった。何度も地図と目の前の現実を交互に見る粳部だったが、現状は何も変わらなかった。
彼女が途方に暮れる。
「こんな所に壁なんてないのに!」
『どうしたの?』
「ない筈の壁があるんです。それも一杯!」
『じゃあないんじゃないの?』
そんなアホなと思いつつも壁の中を進み続ける粳部。しかし、何度角を曲がってもゴールは見えず行き止まりに突き当たる。どうしようもない状況の中、途方に暮れた彼女が壁に寄りかかろうと手を伸ばした時、壁に向かっていた手が壁をすり抜けた。倒れそうになった彼女はギリギリで踏みとどまる。
「うわあっ!?えっ!はっ!?」
『今度は?』
「か、壁をすり抜けました!?」
彼女が恐る恐るもう一度壁に触れると、手は壁をすり抜けて向こう側に出る。そこに実体はなく夢幻のようで、通ることができると気が付いた彼女は壁をすり抜けて通過した。霧と言い壁と言い、非現実的なことばかり起きていた。
「これ、法術ですよ!ホログラムの壁です!」
『……かなり高度な法術。ウチでも熟練にしか使えない』
「じゃあ……やっぱり
『かもね』
これほどの高度な法術を使える者がその辺に転がっている筈がない。法術の名家である卜部家の血を継ぎ天才的な法術を持つ
粳部は壁を何度もすり抜けて目的地を目指していく。歩いていく内に霧が薄くなっていき木々の間隔も開いていく。鬱蒼とした森も遂に終わりが見え、彼女は駆け足で光のある場所へと向かっていった。ゴールは近い。
「……うわっ!?」
突如、木の上から光の鎖が振り下ろされ、彼女を間一髪で掠っていく。咄嗟に躱し側転で追撃も躱す粳部であったが、更にもう一本の鎖が飛んで彼女の腕に絡まる。しかし、即座に海坊主が手刀で断ち切った。それは確かに
『どうしたの?』
「誰ですか!?」
「……何でここまで来れる奴が居るんだよ」
彼女が見上げた先には少年と少女が幹に乗っており、木の上で光の鎖を握りながら彼女を見下ろしている。少年の方は記憶に新しい進藤鉄であり、にやけている少女は
「鉄、もっと訓練したらどう?」
「そもそも、人と戦う訓練なんてしてない」
「あ、あなたたち家出した進藤さんと柳さんですね!」
「……そんな奴知らない」
「柳、とっととこいつ放り出すぞ」
そう言うと二人は強化法術を使用して木の幹を跳ね、高速で森の中へと消えていく。草むらを高速で駆け回る音が周囲で響き渡り、粳部は視界不良の中でどの方向から来るのかと身構える。相手は法術使いとは言え小学生、絶対に怪我のないようにしなければならない。
『粳部、二人を……』
「分かってます!」
彼女は海坊主を網に変えると音を追ってそこに放り投げる。だが捕まえた感触はなく網は草むらだけを捕まえ、彼女の背後から迫った進藤が足に光の鎖を巻き付ける。そして常人を超えた力で粳部ごと鎖を放り投げると木の枝に巻き付けた。
「ぎょえっ!?」
「鉄!油断しないでね」
「当たり前だ!
進藤が法術を発動すると粳部は一本の朱い柱に飲み込まれる。封印系の法術としては初歩的な技ではあるが、小学生の子供に行使できる技ではない。粳部は手足をバタつかせて柱を破壊し、お返しとばかりに鎖を作ると彼に向けて投擲する。だが彼はそれを躱すと、代わりに前に出た柳が粳部を押し倒す。
「こいつ予想より強い!」
「あなたたちも!」
倒された粳部の影から海坊主が飛び出す。咄嗟に後ろに退く柳に海坊主は腕を伸ばして追っていくが、強化法術で脚力を強化している柳を捕まえることは叶わない。起き上がった彼女を捕まえようと進藤が結鎖を何度も放り投げる。
「無茶しやがる!」
「大人しくしてください!私は保護しに来たんです!」
「しなくていいよ!私達楽しんでるから!」
その時、粳部が踏んだ水溜まりの中から液状の腕が伸びて足を掴む。突然の理解を超えた現象に彼女が驚愕していた時、二人が彼女を結鎖で拘束した。雁字搦めにされた彼女が藻掻くも関節を縛られ動きが鈍っていく。
「『
「んんんん!海坊主!」
その場に現れた海坊主が手の中からノコギリや包丁を生み出すも、全て地面に落として立ち尽くしている。そうこうしている内に彼女の足を掴んでいた『
「何してんだお前えっ!?」
「よし!このまま入口まで……」
「ええい鬱陶しい!」
海坊主は役に立たない。何かから何まで確率頼みの戦法はとてもまともなものではない。ならば、どんな時でも確実な手段を取るしかない。何事にも左右されない手段を。
彼女が強化法術を発動する。全身に回路のような光が流れ、全力の粳部が鎖を引き千切った。初めての使用だというのに。
「
その瞬間、二人の周囲から飛び出した複数の光の鎖が全身に絡みつく。全くの初見の法術に二人は驚愕し、鎖で雁字搦めにされたところから脱出しようとする。しかし、
「何だ!?お前も法術使いかよ!」
「こんな技知らない!」
「そりゃ、昨日私が作った技ですから」
「クソッ!動けねえ!」
「これは予想外かな……」
「あ、後で回収に来ますから!逃げちゃ駄目ですよ!」
それだけ言うと粳部は踵を返して霧の向こう側へ駆けていった。次第に森を抜け霧が晴れていく中、全速力で駆け抜ける彼女がガスマスクを投げ捨てて開けた草原を進む。マスクを外しても何の影響もなかったのだ。
「やっぱり!……毒ガスないじゃん!」
夏野菜の並ぶ畑を尻目に彼女は古い山小屋を目指す。背の高いトウモロコシ畑を抜けて角を曲がった刹那、飛び出した彼女の横を稲妻が飛んでいった。それは法術。彼女を狙った一撃は遠くの木に直撃して幹を抉る。粳部が避けたのではなく、当たらなかったのはただの幸運だ。
彼女が肝を冷やす。
「あっ……あっ……!?」
「ようこそ、早速だけど帰ってくれない?」
「ほら卜部言わんこっちゃない!襲撃だ!」
そこに居たのは焦り気味の沼野雫と、小柄な割に堂々と佇んでいる卜部響夏。一番の問題は少女の背に隠れている彼ではなく、自信満々で脅しの法術を披露した彼女の方だ。卜部の圧倒的な才能は、進藤と柳を遥かに超え天と地ほどの差がある。
粳部に緊張が走る。
「……
遂に、