第四十八話『地獄の門番・ケルベロス』
大きな黒蜜のキャンディーは、いつもの美月なら絶対に買わないだろし口の中には入れないだうけれど、今は空腹です。お腹が空っぽで、体からのエネルギー補給の催促が絶え間ない状態です。
「舐めないんですか?」
暗いエレベーターホール。昇りのエレベーターが来るのを待ちながら、美月は貰ったキャンディーを手の平において、ジッと見つめていました。
「甘いのが苦手で…」
体は求めているって分かっているんだけれど、苦手意識が先にきて手が止まっちゃう。
「和食は大丈夫ですよね?」
「あ、はい。和食、大丈夫です。好きです」
ポ~ン。と軽く小さな音がして、エレベーターのドアが開きました。中に進むと、すぐに上昇を始めます。
「それは良かったです。この病院内にあるレストラン、洋食はイマイチだそうで、和食を進められたので」
エスポアさんからかな? 和食だったら、ワカメのお味噌汁が飲みたいな。
「レストランて、こんな時間でもやっているんですか?」
採血してもらっている時に壁時計が見えたけれど、夜中の2時を過ぎていたよね?
「やっているそうですよ。当直の医師や看護師、付き添い等で来ているご家族達が使えるようにと。メニューは少なくなるそうですけれどね」
そんなに大きな病院なんだ、ここ。最上階が… 15階か。そこにレストランがあるんだね。
「あ、あの、そういえば、高坂さんはこの病院に入院しているんですか?」
ドアの上、ポンポンと数字がリズミカルに光っては消えていきます。その数字をぼーっと見つめながら聞きます。
「高坂さんは、ダンジョンバーの近くの総合病院です。哀川さんは色々なデータを取る都合で、こちらの病院になりました」
「データ収取なら、会社の研究室でも… いつもはそうなんですけれど」
病院だなんて、お婆ちゃんにバレたら心配かけちゃう。ただでさえ最近、会社の研究室にお世話になりすぎて、家にいる時間が少ないのに。
「今回は警察が介入しましたし、組合からのお達しがあったばかりですしね。自社の研究室ではなく警察関連の病院になりました。まぁ、一番の理由は、エスポアが研究室データを取りたいがためですけれど」
じゃぁ、やっぱりエスポアさんは警察? 大人の事情って、いろいろと大変だよね。
「それに、あそこまで瀕死になってしまったら、研究室での治療は無理ですよ」
… す、すみません。
黒崎先生の呆れた声に、美月は体を小さくして項垂れました。
ポ~ン。と軽く小さな音がして、エレベーターのドアが開きました。反射的に美月は顔を上げ…
「「…」」
目の前の光景に体が硬直しました。
開いたドアの向こうは、一面の赤。床も壁も天井も、ペンキがぶちまけられたような赤。その中で、一匹の犬が美月達に背中を向けて食事をしています。黒い体毛で覆われた体はとても大きく、咀嚼で動いている頭は3つ。丸太のような足に押さえつけられているのは、入院着に包まれた人間の体…
スッとドアが閉まると、黒崎先生が素早く1階のボタンを押しました。
なにあれ? 幻? 幽霊? 落ち着いて、落ち着いて美月。あれはきっと幻。いや、ここは病院なんだから、幽霊だ幽霊。でも大丈夫。もうドアは閉まったし、下に向かって… 動いてない。
カチャカチャとボタンを連打する音に視線を向けると、黒崎先生が15階以外のボタンを押しても、明かりはついたかと思ったらすぐに消えていきました。
もしかして、もしかしなくても、ここで降りろってことかな?
「あれは、『地獄の番犬・ケルベロス』ですね。牛、三頭分の大きさといったところですね。戦ったことはありますか?」
黒崎先生は回数ボタンを押すことをあきらめて、代わりに『閉』のボタンを連打しています。
「ないです」
「僕もありません」
ケルベロスなんて、なかなか遭遇しないよね。あの野良ダンジョンなら、可能性はあるだろうけれど。エキドナがいたし。
ドォン! と、ドアが大きな音を立てて揺れました。外から何かが当たったようです。そして、ガリガリと何かでひっかく音。
もしかして、もしかしなくてもケルベロス? 魔力回復まではいってない。アイテムもないし…
「とにかく、ここは何とかしますから、哀川さんは『絶対に』手を出さないように。車椅子から降りないでください。『絶対に』」
そわそわし始めた美月の顎を、黒崎先生がグッと鷲頭紙にしました。黒崎先生の顔が美月の顔に近づいて、ジッと眼鏡の奥の瞳を見つめます。
… 怖い。先生が、怖い。
圧です。黒崎先生の圧は、半端ありません。その間も、ドアはガリガリと嫌な音を立てていました。
近い! 近すぎです、先生。怖いです! 分かりました、わかりましたから。
「は、はひ。絶対に…」
黒崎先生の圧に飲み込まれて、いつも以上に言葉が出ない美月。まぁ、口も満足に開けないですけれど。
「決して、車椅子から降りない。決して、エレベーターから出ない。決して、参戦しない。いいですか?」
さらにダメ押しです。美月はコクコクと頷くので精一杯。カタカタと美月の体が振るえているのに気が付いて、黒崎先生はようやく顎を放してくれました。
メリメリと、ドアの隙間が開き始めて、太くて鋭い爪先が少しずつ入ってきました。
「それと、そのキャンディーでも、舐めれば少しは魔力回復しますよね? してください。そして、いつでも脱出呪文を使えるようにスタンバイをお願いします。いいですか? 僕が合図を出したら、すぐに発動してください」
言いながら、黒崎先生はスラックスの後ろポケットから平べったいアイスピックを取り出して、太くて鋭い爪を下から上へと切り刻みました。
あんな細いアイスピックで、シュって切っちゃった。大根の輪切りみたい。さすが先生、さすがスピリタスさん。
震えるのも忘れて、思わず見とれた美月。同時に、ドアが今までで一番強く攻撃を受けました。
ドン!
「キャッ!」
それはエレベーターをも激しく揺らします。思わず小さな悲鳴を上げる美月。
「チッ」
黒崎先生は舌打ちをすると、眼鏡を外して美月の手に握らせると、代わりにキャンディーを取りました。そして中身を素早く口の中に入れると、ガリ! とひと噛み。そして、ジッと自分を見ていた美月の顎を掴んで顔を近づけると
… えっ?!
コロンとキャンディーの半分を美月の口の中に入れました。
ちょっ… え?… 甘っ… え?
「決っして! 絶対に! そこから動くな。いいな」
混乱している美月の額に人差し指を立ててそう言うと、黒崎先生は侍が刀を抜くように左の腰に右手を当てて、斜めに引き上げました。
「… ケペシュだ」
現れたのは、スピリタスの愛剣・ケペシュ。日本刀のようにまっすぐな刀身ではないけれど、切れ味は負けてはいません。その剣先は、ぐりぐりとエレベーターのドアをこじ開けている新しい爪を切り刻み、ついでにドアそのものを切りつけました。
ズズズズズ… ガラガラガラララ…
エレベーターのドアは崩れ落ちて、再び外が見えました。さっきと違うのは、一匹の体とその上の3つの頭がしっかりとこちらを向いて、血に濡れた牙をむき出しにしていること。
やっぱり、ケルベロスだ。初めて見た。ドーベルマン似ている? でも、頭が3つあっても、まるっきり同じじゃないんだ。
それにしても黒崎先生、いや、もうスピリタスさんか。スピリタスさん、ケペシュの収納って、自分の体の中って事? あの剣一つあれば、いつでも『スピリタス』にチェンジできるって事? いいな~。
美月はケルベロスを相手に、華麗にケペシュを振り回し応戦しているスピリタスから目が放せません。ケルベロスにとって、空間はスピリタスを相手に暴れるには狭いようで、せっかくある三つの頭が上手く機能していないようです。けれどスピリタスにとっては攻撃範囲が広く、攻撃への足場も稼げているようです。あちらこちらと、いつも以上に動きが素早くキレがあるように見えました。
「相変わらず強い… 甘っ!」
口の中で、キャンディーがコロンと転がった瞬間でした。
ケペシュの出し方に驚いて忘れていたけれど… キャンディー! ああ… 口の中が痺れるぐらい甘い。けれど、美味しい。体が糖分を吸収していってるなぁ~。て、違う!違うよね。いや、甘いのも美味しいのも体が喜んでいるのも違わないけれど… く、口、口移し… 私の、ファーストキス!
思い出した美月は、ボン! と音が聞こえるぐらいの勢いで、顔を真っ赤にしました。
「いや、違う違う。あれは、緊急処置。人工呼吸みたいなものだよね。うん、人工呼吸。確か、人工呼吸はキスに入らないんだったよね? ノーカン、ノーカン、ノーカウント」
目の前で、スピリタスが自分より何倍も大きなケルベロスと戦っているのに、美月はぶつぶつ言いながら、真っ赤になった顔を左手で仰いでいました。右手はしっかりと、『黒崎先生』の眼鏡を握っています。
ドン!
そんな美月の横に、切り落とされた尻尾が飛んできました。同時に、ケルベロスの叫び声が響き渡ります。思わず両手で両耳をふさぐ美月。また、大きくエレベーターが揺れます。
あ、先生の眼鏡、落としちゃった。エレベーターが揺れたせいで、車椅子に座ったままだと微妙に届かないなぁ。… 拾うぐらいはいいよね。揺れたのが悪いんだもの。ほんの少しだし。
と、誰にともなく言い訳をしながらソロッと車椅子から立ち上がり、落とした眼鏡を腰をかがめて拾うと…
「わぁ~、すごい。切り落とされたのに、まだビクビク動いてる。トカゲの尻尾みたい」
ほんの少しだけ… と、切り落とされたケルベロスの尻尾の観察を始めました。拾った眼鏡を入院着の胸元に引っかけて。
美月、いろいろとショックな事があっても、やっぱり一番は変わりません。Next→