家に入ると、いつもよりきちんと整えられた玄関に、緊張した様子の両親が並んで立っていた。
先に蓮さんが、落ち着いた声で丁寧に挨拶をする。彼も少し緊張していたけれど、礼儀正しく穏やかな人柄は、十分に伝わったようだった。
蓮さんの雰囲気に安心したのか、両親の表情がふっと緩み、途端に口数が増える。
「いらっしゃい。一瞬、俳優さんが来たのかと思ってドキドキしちゃったわ」
「本当だよ。さ、上がって。うな重が冷めないうちに食べよう」
通されたのは客間ではなく、家族がいつも使っているダイニングだった。「客」ではなく「家族」として迎えるという意味なのだろう。
上座をすすめられ、蓮さんが恐縮しながら椅子を引く。そこにはすでにキジトラ猫のミオが陣取っていて、「何か用?」とでも言いたげに顔を上げた。
「ミオちゃん!」
私が愛情たっぷりに声をかけると、ミオはあからさまに不機嫌な顔をして、椅子からぴょんと飛び降りた。私が拾って育てた猫なのに、甘やかしすぎたせいか、私はどうやら召使いの扱いらしい。
「相変わらず、ミオに嫌われてるのね」
シャワーを終えたおばあちゃんが、ミオを抱えてテーブルにやってくる。世話はほとんどしていないのに、なぜかミオはおばあちゃんにべったりなのだ。理不尽にもほどがある。
「蓮くん、ビールはどうかね?」
お父さんが冷えた瓶ビールを手に取ったが、蓮さんは軽く笑って首を横に振った。
「すみません、僕、お酒は飲まないんです」
「そうか、それは失礼。それじゃあ……お母さん、紅茶でも淹れて差し上げて」
「お父さん、うな重に紅茶合わせるの?」
夫婦のやりとりに割って入るように、おばあちゃんがガラス瓶と氷入りのグラスをテーブルに置いて言った。
「蓮くん、このあいだ取り寄せた九州のクラフトコーラがあるから、特別に分けてあげるよ」
キャップをひねると、スパイスの香りがふわりと立ちのぼる。おばあちゃんはコーラの原液を豪快にグラスに注ぎ、炭酸水で割り、レモンスライスを浮かべて蓮さんの前に差し出した。
「ありがとうございます」
「蓮くんが飲まないなら、僕もビールはやめて、その……くらんどコーラってやつをもらおうかな」
「クラフトよ、クラフト」おばあちゃんが笑って訂正する。
「じゃあ今度は、クラフトジンジャーエールのお取り寄せを奢ってもらうわね」
私は甘い食べ物は好きだけど、甘い飲み物はあまり得意ではない。そこで自分用に緑茶を淹れようとキッチンに立った。
茶葉を蒸らしながら、蓮さんも緑茶好きだったことを思い出す。お客様用の湯呑みに丁寧に一煎目を注ぎ、席へ戻った。
「蓮さん、お茶もどうぞ」
「ありがとう」
湯呑みを置こうとしたそのとき、蓮さんの指がふいに動いて、ほんの一瞬、私の手に触れた。
たったそれだけのことなのに、胸に小さな灯がともるような感覚が走り、私は咄嗟に手を引っ込める。
意識しすぎて、心臓の音が急にうるさくなる。どうか伝わりませんように──そう願いながら、何事もなかったふりで席に戻った。
私の動揺など気づいていない様子で、家族はいつも通りの空気のまま、和やかに食卓の準備を進めていた。
うちの家族は、お客さんが来たときは精一杯のおもてなしをする。そして、相手が自ら話し出さない限り、プライベートには踏み込まない。そういう距離感を大切にしている人たちだ。
蓮さんが、家族──とくにお母さんのことを話したがらないのは、この一ヶ月の暮らしで何となく察していた。
でも彼が何も言わなくても、構えることなく自然に接してくれる両親とおばあちゃんの姿に、私は少しだけ誇らしい気持ちになる。
「いただきます」の声をそろえて、箸を手に取ったあと、ふと、家族と蓮さんが一緒に囲むこの食卓を、少し引いた視点で眺めてみた。
お父さんは「これ、庭で育てた山椒なんだ。一緒にどうぞ」と蓮さんに差し出し、どこか得意げな顔をしている。すかさずお母さんが「育ててるって言うけど、放ったらかしでしょ」と笑いながら言う。
おばあちゃんはというと、キャンプでの失敗談を披露しては、蓮さんと顔を見合わせて笑い合っている。
なんだか、ずっと前から一緒にいる家族みたいだ。
そして蓮さんは、いつもよりずっとリラックスして見えた。おばあちゃんの冗談に笑う横顔もやわらかくて、肩の力が自然と抜けているようだった。
そこへミオがふらりとやってきて、当然のように蓮さんの膝へ飛び乗った。お母さんが慌てて立ち上がる。
「ダメよ、ミオちゃん」
「大丈夫です。ネコ、好きなので」
ミオは喉を鳴らしながら、蓮さんの膝の上で前足をフミフミと動かし始めた。
「蓮くん、ミオに気に入られちゃったみたいね」
おばあちゃんが嬉しそうに笑う。
そのとき、ふと蓮さんと目が合った。
彼は優しく微笑みながら、私に向かって、ゆっくりと二度、小さくうなずいた。それだけのことなのに、胸がじんわりとあたたかくなる。
──この人が、私の大切な場所で笑ってくれている……それだけで、胸がいっぱいになった。
* * *
約束の時間より少し早く、明日香ちゃんが再び車で迎えに来てくれた。
さっきまで着ていたパーカーとデニムではなく、今はふんわりと広がるフレアシルエットのフェミニンなワンピースに身を包んでいる。
おしゃれが大好きな彼女は、同級生の飲み会でもいつだって全力投球だ。
「代行、予約済みだから、今日は私も飲んじゃうよ!」
そう言いながら、慣れたハンドルさばきで車を駐車場に滑り込ませた。
会場は、高校時代によく通った定食屋兼居酒屋「だぐらす」。
学生ラーメンでお腹を満たした思い出が詰まっていて、地元で飲み会といえばまずここ、という定番のお店だ。
暖簾をくぐって引き戸を開けた瞬間、「らっしゃあい!」という大将の威勢のいい声が響いた。カウンターも小上がりも常連客でにぎわい、包丁を握る大将の姿もあの頃のままだ。
懐かしい光景に気持ちがほどけて、「ああ、帰ってきたんだな」と実感する。
「おう、毎度。みんな奥にいるぞ」
大将は親指で奥のふすまを指した。
「お待たせー!」
明日香ちゃんがふすまを開けると、懐かしい顔ぶれが一斉にこちらを振り向いた。胸が高鳴り、高校時代にタイムスリップした気分になる。
「薫! 久しぶり!」
あちこちから声が上がり、私は満面の笑みで手のひらを打ち合わせながら、ひとりずつ挨拶を交わしていった。
ふと気がつくと、部屋中の女子の視線が一点に集まっている。「誰?」「モデル?」「めっちゃタイプなんだけど……」と、ひそひそ声がざわめいていた。
そんな空気を察した明日香ちゃんが、すかさず蓮さんの横に立った。
「みなさん! 紹介します。こちらのイケメン、蓮さんは──なんと、薫の婚約者です!」
「ええーっ⁉︎」
座敷中に、驚きと興奮が入り混じった声が響きわたった。
「マジで⁉︎」
「すごいイケメン!」
「都会の風が見える……!」
「薫、いいなぁ!」
冷やかしとも羨望ともつかない声が飛び交う。その中心で、蓮さんは少し照れたように笑いながら、「よろしくお願いします」と丁寧に会釈をした。
その仕草までもが洗練されていて、まるで雑誌の一ページのようだった。
「ごめんね。本当は私が紹介するべきだったのに……舞い上がっちゃって」
蓮さんに聞こえるように顔を近づけてそう言うと、彼も私の耳元に口を寄せて囁いた。
「大丈夫だよ。友達に会えてよかったね」
吐息が耳に触れた瞬間、心臓が止まりそうになる。頬が熱くなっているのを悟られないように、私はなんとか平静を装いながら言った。
「蓮さんは、炭酸水にする?」
料理やドリンクが次々に運ばれ、みんなでグラスを掲げて「乾杯!」と声を揃える。店中に笑い声が広がっていった。
私は友達が集まるテーブルに呼ばれ、しばらく高校時代の思い出話で盛り上がっていた。ふと視線を戻すと、蓮さんは私の男友達に囲まれて、楽しそうに談笑している。すっかり輪の中に溶け込んでいるようだった。
一時間ほど経ったころ、名物のほうとう鍋が運ばれてきた。山梨出身の女将が腕を振るう、「だぐらす」自慢の看板料理だ。
とびきり美味しいこの鍋を、ぜひ蓮さんにも味わってほしい。そう思って彼の姿を探すと、ちょうど男友達に誘われて、別のテーブルへ移ったところだった。
ムードメーカーの亮くんが、嬉しそうに鍋のこだわりを語っているのが見える。
蓮さんは、あっちの席で亮くんたちと食べるのか。
きっと彼は、「うわ、美味しい!」って笑顔で言ってくれる。その顔を見て、「でしょ?」と得意げに言いたかったけど……今回は、その役目は亮くんに譲ることにしよう。
そう思ったとき、蓮さんの隣に、細いシルエットがすっと腰を下ろした。
あれは……高校時代、「学校一の美女」と呼ばれていた果歩ちゃんだ。
彼女は魅力的な笑顔を浮かべ、小首をかしげながら蓮さんに話しかけている。そのまま顔をそっと近づけ、耳元で何かを囁いたかと思うと──次の瞬間、彼女の手が自然な流れで蓮さんの腕に添えられた。
その指先は、まるで撫でるように、甘えるように、ゆっくりと蓮さんの腕を滑っていく。……そこに滲んでいたのは、確かな誘いの気配だった。
隣の明日香ちゃんが、私の袖を引っ張る。
「ちょっと、果歩がまたちょっかい出してるよ」
果歩ちゃんは、筋金入りの恋愛体質だ。口癖は「だって、ビビっと来ちゃったんだもん」。狙った相手を落とすためには、手段を選ばないという噂もある。もちろん、相手に彼女がいようが関係ない。
「蓮さん、果歩のボディタッチの餌食になってるよ。隣に行ってきたら?」
明日香ちゃんはそう言ったけれど、正直、私はこういう状況が苦手だ。
もちろん、目の前の光景にモヤモヤはしている。でも、それに堂々と立ち向かえるほどの恋愛スキルは持ち合わせていない……経験値ゼロでボス戦に突入するようなものだ。
それに、蓮さんはそんなことで揺れる人じゃないと、私はちゃんと知っている。
蓮さんの反対隣に座った亮くんが、「果歩、蓮さんは今、俺たちと話してるから!」と間に割って入ってくれていた。
亮くん、ありがとう。どうか頑張って……!
「きっと亮くんが何とかしてくれるよ。とりあえず、私はお手洗い行ってくるね」
「ちょっと、薫!」
明日香ちゃんの呆れた声を背中に受けながら、私はその場を離れた。チキンって笑いたければ笑えばいい。恋愛経験ゼロの私には、これが精いっぱいなのだ。
トイレから戻ると、通路に人影があった。ほかのグループのお客さんかと思い、そのまま通り過ぎようとしたとき──
「薫」
懐かしい声に、足が止まる。
見上げるとそこには……高校時代の面影を残しながら、少し精悍になった和樹が立っていた。
「和樹!」
「久しぶり。元気そうだな」
これまでも地元の飲み会はあったけれど、名古屋で暮らす和樹はなかなか来られなかった。だから私たちが会うのは、卒業式以来になる。
あまりに突然で、そして懐かしすぎて、しばらく言葉が出てこなかった。
「……いつ来たの? 全然気づかなかった」
「今さっき着いたところ」
人懐っこい笑い方は、昔のままだった。
「ちょうど薫が出てくるのが見えたから、ここで待ってたんだ」
「そっか。元気そうでよかった。早くお座敷に行こう、みんな和樹に会いたがってたよ」
そう言って足を向けたその瞬間、和樹の手が私の手首をつかみ、壁際に押しやった。急に距離が縮まる。
驚いて見上げると、和樹のまっすぐな視線が私を射抜いた。
「……どうしたの?」
「卒業式以来だなって思ってさ」
和樹は手を離さない。
「告白してくれたのに、何も始まらないまま終わって……。薫も、俺に言いたいこと、あるんじゃないの?」
その目が、なんだか知らない人のようで、少し怖くなる。
「気にしてないし、言いたいこともないから、手を離して。これ、『壁ドン』だよ!」
冗談めかして笑おうとしたけれど、和樹は動かなかった。恐怖と困惑が一気に押し寄せてきて、私は体を強ばらせる。
そのとき──肩に力強い手がかかり、私は後ろへと引き戻された。誰かの体にぶつかる。振り返ると、険しい表情の蓮さんがいた。
「薫は、嫌がってる」
その声は低く、冷静で……それでいて、揺るぎない意思が宿っていた。
和樹は驚いたように私を見て、尋ねる。
「薫……この人、誰?」
──婚約者です。
本当なら、その一言で済んだはずだった。
けれど私は、背中越しに蓮さんの体温を感じた瞬間、もう嘘がつけなかった。
代わりに口をついて出たのは、ずっと胸の奥にしまっていた──誰にも言ったことのない、本当の気持ちだった。
「この人は……私のいちばん大切な人です」
和樹はしばらく私と蓮さんを見比べ、やがて小さく息を吐いて視線を外すと、無言のまま座敷へと向かった。
ふすまが閉まった瞬間、「おー、和樹が来たー!」という仲間たちの明るい声が内側から弾ける。
その歓声に、私はふと我にかえった。そして──私はまだ蓮さんに抱き寄せられていることに気づき、慌てて体を起こした。
「あ、ありがとう」
「彼が、十年間好きだった人?」
「……うん。でも、記憶の中の和樹とは、ちょっと違ってた」
友達として積み重ねた時間が、少しだけ遠ざかった気がして、胸の奥に切なさがにじむ。
ふと視線を上げると、蓮さんと目が合った。彼は穏やかに微笑みながら──私の額に自分の額をそっと重ねてきた。
「な、何? 近いよ……」
頬が一気に熱くなる。蓮さんはそのまま、私の髪に頬を寄せて、耳元でそっと囁いた。
「さっき……大切な人って、言ってくれた?」
胸の鼓動が早まって、息すら忘れそうになる。言葉なんて、とても出てこない。私はただ、固まることしかできなかった。
座敷からは、和樹の到着を祝う三度目の乾杯の声が、賑やかに響いてくる。人気者の彼は、もう私に構うことはないだろう。
「れ、蓮さん。そろそろ、戻ろう……」
そう言って背を向けようとした瞬間、蓮さんが不意に私に覆いかぶさってきた。
抱きしめられた? ……でも、何か違う。ずしりと重い。これは……もたれかかられてる?
「蓮さん?」
おそるおそる覗き込むと、彼は目を閉じ、眉間にしわを寄せていた。かすかに漂うお酒の香り……酔ってる。
スリムだけど筋肉質な蓮さんの体は、意外と重い。どうにか座らせたいけど……どうしよう。
そのとき、ふすまが開いて、明日香ちゃんが顔を覗かせた。
「薫、和樹が来たからもう一度乾杯するって……って、どうしたの!?」
「蓮さん、お酒を飲んじゃったみたい。普段は飲まないのに……」
彼女は眉をひそめてから、ふと何かを思い出したように声を落とす。
「そういえばさっき、果歩のところにドリンクが二つ届いたの。ソフトドリンクとアルコール……で、果歩、ノンアル目印のマドラーを入れ替えてた気がする」
一瞬、私は言葉を失った。
「そのときは、気にもとめなかったんだけど……もしかして、酔わせるつもりだったのかも」
「つまり、果歩ちゃん、ソフトドリンクと偽って蓮さんにお酒を?」
私の胸に、冷たい怒りが広がっていく。明日香ちゃんも悔しそうに唇を噛んだ。
「ああもう、私のバカ! 見てたのに、あのとき気づいていたら……!」
「明日香ちゃんのせいじゃないよ。とりあえず、手伝って」
ふたりで蓮さんを通路脇の椅子に座らせる。彼はしばらくして、ゆっくりとまぶたを開いた。
「……ごめん。たぶん……間違えて、お酒飲んじゃった……」
こめかみに手を当てながら、かすれた声でそう呟く。昔は飲めたらしいけど、今はもう身体がアルコールに慣れていないのだろう。
果歩ちゃんはきっと、お酒で蓮さんの理性を緩ませたかったのだと思う。けれど、これはあまりにも卑怯だ。
その場にいなかった自分が、悔しくてたまらない。
「薫、タクシー呼ぶね。蓮さんと一緒に帰って」
明日香ちゃんがスマホを手に外へ出ていったそのとき、蓮さんの手がそっと私の手を包んだ。
指先から伝わる温もりに、気持ちがほどけていく。だけどそれと同時に、込み上げてきたのは、やるせなさと切なさだった。
「薫……ごめん……」
聞いたことがないくらい、弱く、滲むような声だった。
「謝らないで。蓮さんのせいじゃないって、ちゃんとわかってるから」
そう伝えると、私はそっと腕を伸ばし、蓮さんの背を包み込んだ。彼も静かに応えるように、片方の腕を私の背中にまわしてくれる。
いつもは頼もしい背中が、今は少しだけ力なくて──その弱さごと抱きしめたくなるような、そんな温もりだった。
この人のすべてが、どうしようもなく愛おしかった。