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第30話

 海岸沿いの国道をしばらく走り、海に臨む駐車場に車を停めた。ドアを開けた瞬間、冷たい潮風が一気に車内に流れ込んだ。あたりはしんと静まり返り、規則正しい波の音だけが響いている。


──月のない夜だった。


「寒い?」


 蓮さんが尋ねた。


「コートを着てるから、大丈夫」


 彼は頷いて、街灯の下にあるベンチに腰を下ろすと、自分のコートを脱いで隣に広げた。


「どうぞ」


「いいよ、蓮さんのコートが汚れちゃう」


「せっかく薫がおしゃれして来てくれたのに、汚せないよ」


「──あはは、今日おしゃれしてるの、気づいてないと思ってた」


 笑いながら言うと、蓮さんは私の手を取って、自分のコートの上にそっと座らせた。


「気づいてないわけないよ。……言葉が出なかっただけだ。きれいで」


 最後の一言は、潮風にかき消されそうなほど小さかった。思わず蓮さんを見つめると、彼は耳まで赤くなって、そっと視線を外した。


 しばらくのあいだ、私たちは黙って座っていた。潮風に髪が揺れ、波だけが、世界のすべての音のように感じられた。


 沈黙を破ったのは私の方だった。


「……蓮さんのお母さん、とっても素敵な人だった」


 私がそう言うと、蓮さんは静かに息を吐いた。


「薫、聞いてほしいことがあるんだ。──母のことで」


 視線を上げると、蓮さんと目が合った。憂いを帯びたその瞳に、言葉をのみ込まれそうになる。けれど私は、勇気を出して問いかけた。


「もしかして……あの人は継母で、禁断の恋人なの?」


 蓮さんが一瞬、驚いたように目を見開く。そして次の瞬間、弾けるように笑い出した。


「ちょっと、蓮さん! 人が真剣に聞いてるのに……」


 蓮さんは、笑い涙を拭いながら「薫の想像力……本当にすごいな」と、途切れ途切れに言った。


「──あの人は、僕の本当の母親で間違いないよ。……あー、なんか吹っ切れた」


 大笑いしたあとの蓮さんの横顔は、さっきまでの張りつめた気配が嘘のようにほぐれていて──気持ちまで、軽くなったように見えた。


 そして彼は、呼吸を整えてから、真顔に戻って言った。


「母は……アルコール依存症なんだ」


 その声は、ほんのわずかに震えていた。


 私は言葉を失って、凍りついたように蓮さんを見つめる。


「今は断酒できているけどね。一番ひどかったのは、僕が高校生のころから、就職したばかりのころまで」


 蓮さんの視線は、ゆっくりと海へ向けられた。


「旧家の嫁というプレッシャーと、三人の子育て、それに、父の不在。いろんなものが重なって……。最初は、隠れて飲んでいたみたいなんだけど、気づいたときには、本人の意思ではどうにもならなくなっていた」


 蓮さんはそこで言葉を切った。どこまでも静かなその横顔には、深い孤独と寂しさがにじんでいた。


「僕たちに悪影響があるってことで、父が母を大磯の別荘に移したんだ。お手伝いさんをつけて。でも……母はそこでさえ飲み続けていた」


 私のほうを見た蓮さんの瞳には、どうしようもない悲しみが宿っている。私は何も言えず、ただ静かに頷くことしかできなかった。


「就職してすぐのころ、久しぶりに様子を見に行ったら……母はひどく酔っていて。それでも『夕食を作ってあげる』って、震える手で包丁を握ったんだ。危なくて取り上げようとしたら、振り払われて……この通り」


 蓮さんはセーターとシャツをめくり、脇腹を見せた。


 そこには、痛々しいほどはっきりとした傷跡が刻まれていた。その深さを見た瞬間、どれだけの恐怖と痛みに襲われたのかが伝わってきて、息が止まりそうになった。


「驚いた?」


 ……驚きを、通り越していた。


 蓮さんは穏やかな家庭で、なに不自由なく、大切に育てられてきた人だと──私は勝手に、そう思い込んでいた。


 それが、こんなにも浅はかな思い込みだったなんて──胸が痛くて、私は唇を噛んだ。


「母さんも……事故とはいえ、僕を怪我させたことが相当ショックだったみたいでね。それから病院に通って、いろんな人に支えられて、ようやく断酒できるようになった」


 私は、わずかな希望に縋るように尋ねた。


「今はもう治ったの?」


 けれど蓮さんは、ゆっくりと首を横に振った。


「アルコール依存症はね、回復はできても、完治はしないって言われてる。どれだけ長く断酒していても、たった一口のビールで元に戻ってしまう……そんな病気なんだ」


 遠くを見つめていた彼の視線が、ゆっくりと私に戻ってくる。そして、ほんの少し微笑みながら言った。


「つまり、母さんは今でも依存症で、断酒し続けるしかないんだよ」


 私は、これまで蓮さんと一緒に過ごしてきた日々を思い返した。


 彼が昔は人並みに飲んでいたと話していたこと。けれど今は、お酒から距離を置いていること──。


 それはきっと、ただの好みや体質の問題じゃなかった。


 お母さんが断酒を続けられるように、息子として、できる限りの距離で、寄り添い続けようとしていたのだ。


 蓮さんは、そんな想いをずっと心の奥に抱えていたんだ。


 しばらくのあいだ、私たちは何も言わなかった。潮の香りだけが濃くなり、静かな波の音が、絶え間なく響いていた。


 どれくらい時間が流れただろう。ふいに、蓮さんが口を開いた。


「薫と始めて出会った日」


 私は顔を上げて、蓮さんを見る。


「あの日、もう何年も断酒していた母が、スリップ──再飲酒してしまったんだ」


 蓮さんの瞳は、暗い海を見つめ続けている。


「大磯の別荘で、母さんに友達ができて、ワイン会に誘われたらしい。本人は飲まないつもりだったみたいだけど、テイスティング程度なら……って言われて。でも、一口飲んだら、止まるわけがなかった」


 涙をこらえるように空を見上げ、彼は言葉を続ける。


「案の定、かなり酔ってしまってね。送ると言われても頑なに断って……結局、『ワインを何本かあげるから』と説得されて、ようやく応じたらしい。家に戻って、一人で全部飲んで……そのまま、リビングの床で眠っていたそうだ」


 私は何も言えずに、ただ彼の言葉を受け止めるしかなかった。


「その知らせを、お手伝いさんから聞いて……あの日の僕には、絶望しかなかった。何をどうすればいいかもわからなかった。そんなときに、駅で酔っ払いに絡まれてる女の子を見かけて……助けなきゃって思った。でも、僕より先に……君が飛び込んで行ったんだ」


 その瞬間、出会った日の、蓮さんの氷のように冷たい眼差しがはっきりとよみがえった。


 感情をシャットダウンしたような、誰も寄せつけない視線。でも、きっと──あのときの彼の心は、限界ぎりぎりのところで、一人で耐えていたのだ。


「母さんがスリップしてしまうのは、母さん自身の問題であって、僕がどうにかできることじゃない。飲まないように見張って防ぐなんて、間違ってる。でも……今でもあの人が一人でパントリーに行くと、不安になる。こっそり飲んで、何事もなかった顔で戻って来るんじゃないかって」


 さっき、お母さんの背中にに顔を近づけていたのは……お酒を飲んでいないか、確かめるためだったのか。


 そのとき、蓮さんの手が、私の頬に触れた。


「薫が泣くことじゃない」


 その言葉で、私は初めて、自分が泣いていることに気づいた。


「ごめん……泣きたいのは、蓮さんの方なのに」


 蓮さんはゆっくり微笑んで、私をやさしく見つめた。気づけば私は、手を伸ばしていた。


「蓮さん……抱きしめてもいい?」


 その言葉を言い終える前に、蓮さんが私を強く抱き寄せた。彼の頬が、私の髪にそっと触れる。


 蓮さんの痛みと寂しさが少しでもやわらぐように、私は精いっぱいの力で、彼を抱きしめ返した。


──いつの間にか風はやみ、海も穏やかになっていた。


 腕が少し緩んで、私は顔を上げる。


 蓮さんの頬を伝っていた涙に気づいて、私はそっと指先で拭った。


「ありがとう。……おばあちゃんが言ってたんだ、薫なら全部受け止めてくれるって」


 一瞬、何のことかわからなかったけれど、すぐに思い出した。長野の最終日、蓮さんがおばあちゃんにドナドナされた日だ。


 だけど──


「なんで、おばあちゃんが……?」


 蓮さんは私の頬を両手で包み、顔をそっと近づけてくる。こんなときでも、彼が近づいてくるだけで、私の心臓は相変わらず速くなる。


「薫にこの話をしてほしいって、おばあちゃんに頼まれたんだ。よく聞いて」


 吸い込まれそうなほど深い色をした瞳を見つめ、私は頷いた。


「おばあちゃんも……僕と同じ、アルコール依存症の家族だったんだ」


 一瞬、頭が真っ白になった。


「……どういうこと?」


「おばあちゃんの旦那さん、つまり薫のおじいちゃんがね、母と同じ病気だったんだ」


 それから蓮さんは、あの日おばあちゃんから聞いた話を、ひとつずつ教えてくれた。


 おじいちゃんは40代で事業に失敗し、借金をかかえ、大量の酒を飲んでは家で暴れるようになった。おばあちゃんはその中で何年も苦しみ、家族を守るために、ついに別居を決めた。


 家族が去ったあと、ようやくおじいちゃんは断酒を決意した。けれど、その頃にはすでに肝硬変が進行していて……53歳で亡くなったそうだ。


「最期はね、断酒を続けて、家族とのつながりも少しずつ戻っていったらしい。まだ小さかった薫のことも、とても可愛がってたそうだ。だから、薫。おじいちゃんは、決して孤独の中で亡くなったわけじゃないから」


 私はしばらく、何も言えなかった。蓮さんの言葉が、静かに心に積もっていく。


「薫は、おじいちゃんのことをあまり覚えていないって言ってたよね。でも、おばあちゃんは、僕の状況を察して、この話をしてくれた。そして……君にも教えてあげてって」


 蓮さんの目には、深い悲しみと、そして小さな光が宿っていた。


「……ごめん。おじいちゃんのこと、こんなふうに聞きたくなかった?」


 その瞬間、おばあちゃんの声が耳元で聞こえたような気がした。


「薫、おじいちゃんみたいないい男は、なかなかいないよ」

「おじいちゃんに勝てるのは、アラン・ドロンくらいだね」

「死ぬこと? そんなの怖いわけないよ。だって、おじいちゃんが向こうで待っててくれてるんだから」


 おばあちゃん──。


「聞けてよかった」


 そうつぶやいた途端、こらえていた感情が堰を切ったように溢れ出して、私は顔を覆って泣いた。蓮さんは何も言わず、ただそっと、私の肩を抱いていてくれていた。


 涙が枯れるほど泣いて、ようやく顔を上げると、そこには──いつもと変わらない、穏やかで優しい蓮さんのまなざしがあった。


「大丈夫?」


 蓮さんがポケットからハンカチを取り出し、私の頬をそっと拭ってくれる。


「うん、大丈夫。でも……」


「でも?」


「……今すぐ、おばあちゃんを抱きしめてあげたい」


 蓮さんは私の肩を優しく撫でながら、「おばあちゃんが言った通りだ」と微笑んだ。


「薫は絶対にそう言うだろうから、だから──代わりに僕を抱きしめるようにと、おばあちゃんから伝言です」


 それを聞いて、私は思わず吹き出してしまう。泣き顔のままなのに、笑いが込み上げて止まらなかった。


 こんな顔、普段なら絶対に見せたくないのに──今の蓮さんのまなざしは、それすら包み込んでくれるように温かかった。だから私はそのまま、笑いながら泣き続けた。


「じゃあ、蓮さん。おばあちゃんの分も……抱きしめていい?」


 答える代わりに、蓮さんはそっと両腕を広げた。


 私は彼の胸に飛び込んで、思い切り抱きしめた。蓮さんも、強い力でしっかりと私を受け止めてくれる。


 心が温かいもので満たされて、溢れて──

 私の涙は、いつまでも止まらなかった。

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