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第29話

 蓮さんは確かにエリートだけれど、日常では庶民的な感覚を持っている。だから私は、すっかり忘れていたのだ。


──彼が本当に、ハイソでハイスペな人だということを……。


 蓮さんが「大磯の別荘」と呼ぶその家は、思わず息をのむようなロケーションに建っていた。


 晩秋の陽が注ぐ高台の高級別荘地。木々の葉はあかだいだい、黄金色に色づき、まるで宝石のように輝いている。まるで子どもの頃に夢中で観た、海賊アニメの財宝の山みたいだ。


 ゲスト用の駐車場は少し離れていたので、私たちはその道を並んで歩いた。冷たく乾いた風が時折吹き抜けて、かすかに潮の香りを運んでくる。


 通り沿いには、重厚な日本家屋が立ち並び、そのどれもが、このノスタルジックな風景によく馴染んでいた。まるで時間の流れが、この一帯だけゆっくりになっているようだった。


「ここだよ」


 蓮さんが立ち止まったのは、これまで見てきた豪邸の中ではやや控えめな、和風建築の前だった。古民家を改装したような風情ある建物だ。


 門から玄関までは三十メートルほど。庭も広すぎず狭すぎず、庶民の私にはむしろこのくらいのスケール感のほうが落ち着けそうに思えた。


 けれど──玄関をくぐった瞬間、その考えはあっさり覆された。


 土間を抜けた先に広がっていたのは、驚くほど開放的なリビングだった。おそらく30畳以上はある。天井はかつての二階部分をすべて吹き抜けにしたようで、黒ずんだ太い梁が、洗練された空間に温もりを添えていた。


 そして、何より目を奪われたのは──リビングの大きな窓から見える光景だった。


 なだらかな芝生の庭。その先に広がる紅葉した広葉樹の森。そのさらに向こうには──眩しい光を反射する太平洋が、どこまでも続いていた。


 視界いっぱいに広がる青のグラデーションは、ただただ美しくて……私はその場に立ち尽くし、しばらく目を離すことができなかった。


「う……わぁ」


 思わず、声が漏れた。あの古民家の引き戸の先に、こんな絶景が広がっているなんて──誰が想像できただろう。


「この景色、薫ならきっと気に入ると思って」


 蓮さんが嬉しそうに笑いながら、私のコートを預かってくれた。気に入ったなんてものじゃない。できることなら、この空間とひとつになってしまいたい。


「何だか感激しすぎて、うまく呼吸ができなくなりそう」


 コートをクローゼットにしまいながら、蓮さんが教えてくれる。


「もともとは、明治の作家の別荘だったんだ。取り壊して近代的な別荘を建てようって話が出たとき、母さんがどうしてもこの家と風景を残したいと言って、買い取ったんだ」


「作家さんの……。こんな場所なら、いい文章が書けそう」


「それから家族の別荘になったんだけど……僕が高校生の頃から、母さんがここに一人で暮らすようになった」


 私は思わず蓮さんの顔を見る。その表情は、さっきよりも少し和らいでいて、私は少しほっとした。


 そのとき、リビングのテラス窓が静かに開いた。


 細身で、透き通るような白い肌の女性が、秋風とともに入ってきた。手にした竹籠の中には、摘みたてのミントが青々と詰められている。彼女が一歩室内に踏み込んだだけで、爽やかな香りが空間にふわりと広がった。


 その人はまず、「早かったのね」と蓮さんに声をかけた。そして私に目を向け、やわらかな笑顔を浮かべて言った。


「はじめまして。蓮の母です」


 蓮さんの母親──年齢的には五十代半ばのはずだけど、どう見ても四十代にしか見えない。しなやかで、若々しくて、女性の私でも見とれてしまうほど美しい人だった。


「母さん。彼女が薫。僕が結婚しようと思っている人だ」


 そのひと言が、甘く、切なく胸に染み込んでいく。──本当だったら、どんなに嬉しいだろう。


「はじめまして。椿井薫と申します」


 私はお土産の紙袋を差し出しながら名乗った。


「これ、長野のふじリンゴと、私のお気に入りの和菓子屋さんの最中です。蓮さんから、リンゴがお好きだと伺って……」


「ありがとう、薫さん。リンゴも最中も大好きなの」


 お母さんは優しく笑いながら、竹籠を軽く持ち上げて、中のミントを私に見せる。


「いま、ミントを育てるのがちょっとした趣味なの。よかったら、ミントティーを一緒にどう?」


「ありがとうございます、ぜひ。お手伝いさせてください」


 私はお母さんのもとへ歩み寄り、竹籠を受け取った。ふわりと立ち上がるミントの香りに、心が少し軽くなる。


「実は、うちの実家でも庭でハーブを育てていて……ミントやレモンバーム、ホーリーバジルのお茶は、家族の定番なんです」


 それを伝えると、お母さんは目を細めて微笑んだ。


「それじゃあ、ミントティーはお願いしようかしら。私はブレッドプディングの準備をするわ。薫さんが来るって聞いて、朝から張り切って作ったのよ」


「わぁ、おしゃれですね。ありがとうございます!」


 キッチンは、映画に出てくるようなアイランド型で、リビングとひと続きになっていた。私はシンクを借りてミントを洗い始め、蓮さんは南部鉄器のケトルを火にかけ、ティーポットとカップを並べる。


「ちょっと、地下のパントリーに、メープルシロップを取りに行ってくるわね」


 そう言って、お母さんが部屋を後にする。


 水切りカゴの場所を聞こうと蓮さんを振り返った私は、ふと動きを止めた。彼が、お母さんの背中をずっと見送っていたのだ。


 眉間にわずかな影を落としたその横顔には、どこか不安げな色がにじんでいて──私は、胸の奥に小さなざわめきを感じた。


「……水切りカゴ、ある?」


 声をかけると、蓮さんははっとしたように振り向き、「ああ、あるよ」と言ってカップボードからステンレスのザルを取り出す。そして私の背後に近づき、耳元でそっとささやいた。


「そういえば、明日香ちゃんのリンゴ、会社ですごく好評だったよ。ありがとう」


 その声の近さに、思わず胸が高鳴った。動揺を隠すために、私は洗い終えたミントを手のひらに乗せて、思い切り叩いた。


 パン!と大きな音が響き、蓮さんが驚いたように身を引く。


「……何してるの?」


「こうすると、香りが立つの。おばあちゃんがいつもやってるから」


 蓮さんがこれ以上近づかないように、私は立て続けにミントの葉を叩く。お茶の香りが引き立つし、蓮さん避けにもなる。まさに一石二鳥だ。


 やがてお母さんが戻ってくると、蓮さんはさりげなく彼女の隣に立ち、「お湯が沸くまで、手伝うよ」と声をかけた。


 お母さんが冷蔵庫を開けようと背を向けた瞬間、私は思わぬ光景を目にした。


 蓮さんが、さっきの不安げな眼差しで──お母さんの背中に、そっと顔を近づけたのだ。まるで……匂いを確かめるように。


 ……なに、今の?


「蓮、これを取り分けてね。薫さん、プディングは温かいのと冷たいの、どちらが好き?」


 お母さんが振り返ると、蓮さんはすぐに姿勢を戻した。


「……実は、食べたことがないんです。どちらがおすすめですか?」


 なるべくいつも通りの声で、私はそう答えた。


「夏は冷たいのがいいけど、今の季節なら、温めたほうがカスタードの香りが引き立っておいしいかな」


 蓮さんの声は聞こえているのに、頭には入ってこない。私の思考は、ビストロで友記子が言っていた妄想話に侵食されていた。


──その母親は、実は男の年上の恋人で……


 まさか、そんな……でも、もし継母だとしたら?


「薫? 温かいのにする?」


 蓮さんがのぞき込むように声をかける。


「あ、うん、温かいのをお願いします」


 蓮さんは「了解」と言って、慣れた手つきでプディングを取り分け、予熱していたオーブンに入れた。


 私は、二人に気づかれないように、そっと深呼吸をする。


──蓮さんとお母さんのあいだに、どんな事情があったとしても、彼は今日、私をここへ連れてきてくれた。


 それは、今までより少しだけ、蓮さんの心に触れられたということなんだ。


 決めた。余計な心配はしない。あとでショックなことがあったとしても、そのときに取り乱せばいい。今から先回りして悲観する必要なんて、どこにもない。


 蓮さんとお母さんがカトラリーの用意でキッチンを離れた隙に、私はそっとポケットから手帳を取り出し、そう書き留めた。


 蓮さんと暮らすようになってから、驚くほど心が動くようになった。彼といると、嬉しいことも悲しいことも、前よりずっと鮮やかに感じられるのだ。


 だから最近は、いつでも書けるように手帳をポケットに入れている。脚本のヒントにもなるし、自分の気持ちを整理するのにも役立つ。


 キッチンタイマーが鳴り、オーブンの中でプディングが温まったことを知らせる。蓮さんに促されて、私は二人がけソファに腰を下ろした。彼はティーカップと、コルクマットに載せたグラタン皿を運んできてくれた。


「じゃあ、いただこうか」


 蓮さんが私の隣に座り、ほんの少し身体が彼のほうへ傾いた。それだけのことなのに、なんだか照れてしまう。


 お母さんがミントティーを口に運んで、目を見開いた。


「私が淹れるよりずっと美味しいわ」


 私は、おばあちゃんから教わった葉の扱いやお湯の温度について説明した。


「そんなちょっとした工夫で、こんなに味が変わるのね」


「今日のはスペアミントだと思いますが、キャンディミントやニホンハッカも香りがよくて、おすすめですよ」


 お母さんは目を細めて、「薫さん、すごく詳しいのね」と微笑んだ。


「ええ、こう見えて山育ちですから」


 お母さんが作ってくれたカスタード・ブレッド・プディングは、シナモンの香りがやさしく効いていて、どこか外国の家庭を思わせるような味だった。


 表面のパンはカリッと香ばしく焼かれ、その下にはとろけるようなカスタードフィリング。ふわりと立ちのぼるバニラのような香り──初めて口にするのに、なぜか懐かしくて、一口で好きになってしまった。


「これ、とっても美味しいです」


 そう言うと、お母さんはやわらかく笑い、どこか安心したような表情を浮かべた。


「アメリカの家庭料理なの。前はシナモンとバニラビーンズで作っていたんだけど、蓮がトンカビーンズを少し加えてみたらって言ってくれて。それが大正解で、香りに奥行きが出たのよ」


「僕はマッドサイエンティストだからね」


 蓮さんが肩をすくめて、冗談めかして言う。


 それからお母さんは、「薫さんが楽しんでくれると思って」と言いながら、棚から一冊のアルバムを取り出した。


「少ししかなくてごめんなさいね。鎌倉の家には、もっとたくさん写真があるのだけど……」


 ページを開くと、小学校低学年くらいの蓮さんの写真。あまりの可愛らしさに、思わず「わぁ!」と声が漏れる。


「ちょっと母さん、やめてくれよ」


 蓮さんは真っ赤になって、ブランコの前で半べそをかいている写真を手で隠そうとする。でも、どれを見ても、彼が昔からハンサムだったことは隠しようがなかった。


 最初はちょっと緊張していたし、途中、妙な疑念まで抱いてしまったけれど──気がつけば、すっかり肩の力が抜けていた。


 お母さんは話の引き出し方がとても上手で、まるで昔からの知り合いみたいに、自然と会話が弾んでいた。


 気がつけば、すでに16時を過ぎていた。窓の外には美しい夕焼けが広がっている。


「そろそろ帰ろうか」


 蓮さんが立ち上がる。


「明日、アメリカの会社とオンラインミーティングがあるから、ちょっと早めに出社したいんだ」


 お母さんは少し寂しげに「そう」とつぶやいた。その表情を見て、何だか心がきゅっと痛む。私は思わず口を開いた。


「また、近いうちに来ます。ね、蓮さん」


 彼を見上げると、蓮さんも頷いた。──その眼差しは、いつもの穏やかで優しい、彼のものだった。


「わかったわ。暗くなるから気をつけてね。薫さん、またぜひいらして。蓮がいなくても、いつでも歓迎よ」


 お母さんも玄関を出て、門まで見送りに来てくれた。そして私たちが角を曲がるまで、ずっと手を振り続けてくれていた。


 別荘地の静かな道を、私と蓮さんは無言で歩く。陽が落ちて、すっかり冷え込んだ空気の中、街灯がぼんやりと私たちの足元を照らす。


 車に乗り込んでしばらくのあいだ、蓮さんは無言のまま、ハンドルに手を置いていた。


 やがて、ふと私の方を見て口を開く。


「薫……今から海を見に行かない?」


 私は頷いた。蓮さんが、なにか大切なことを伝えようとしている──そんな気がしたのだ。

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