そして、運命の日曜──蓮さんのお母さんに会う日がやってきた。
たった一年の契約結婚。そつなく振る舞えば、案外すんなり気に入られるかもしれない。きっと、それがいちばん確実なやり方だ。
それでも私は、蓮さんのお母さんに好かれたかった。
こんなに素敵な人を育てた女性なら、きっとご本人も魅力的に違いない。だからこそ、私も自然体で向き合いたかった。蓮さんが、私の家族にまっすぐに接してくれたように。
その朝、私は友記子から伝授された「短期集中スパルタ特訓メイク術」を初めて実践した。
とはいえ、不器用で面倒くさがりな私に使いこなせるアイテムは限られていて、仕上がりはナチュラルメイク止まり。それでも、友記子が私の肌に合うカラーを選んでくれたおかげで、印象はいつもより少し明るい気がした。
「トーンが合ってるだけで、雰囲気って全然変わるんだから」と笑っていた彼女の声が、今も耳に残っている。
普段は会社と家の往復だけで、メイクも最低限。そんな私が、慣れない服とメイクで蓮さんの前に立つのは、緊張するし、正直ちょっと恥ずかしい。
もちろん、蓮さんが人の努力を笑うような人じゃないのはわかってる。わかってはいるけれど──もし「薫なりに頑張ったんだな」なんて、気遣い混じりのまなざしを向けられたら、それはそれでつらい。
テラスハウスの前に車を回した蓮さんが、静かにドアを開けた。
朝の柔らかな光が差し込み、少しクセのある黒髪を淡く縁取る。その姿はどこか神聖で、まるで一枚の絵画のようだった。
「薫、準備はできた?」
……似合ってるかどうかも自信がないこの服とメイクで、彼の前に立つ。なんだか新手の罰ゲームのようだった。
蓮さんの目に、今の私がどう映るのか。考えるだけで、背中に汗がにじむ。
だけど、いつまでも立ち止まってはいられない。私は一歩踏み出して、蓮さんのもとへ向かった。
「お待たせしました」
外を眺めていた蓮さんが、ゆっくりとこちらを振り向く。そして、驚いたように目を見開いた。
そのまま、言葉もなく私を見つめ続ける。たったそれだけで、私の時間が止まったような気がした。
沈黙が続く。彼が何も言ってくれないことに、不安が膨らむ。
……やっぱり、変だったのかな。
いつもなら「スカートなんて珍しいね」とか、「新しい服?」くらいは、さらっと返してくれるのに。今日は、なぜか何も言ってくれない。
褒めてほしいなんて、贅沢は言わない。ただ、この気まずさをほぐしてくれる、いつもの蓮さんの声がほしかった。
沈黙のまま、蓮さんはふっと視線を外してつぶやいた。
「……じゃあ、行こうか」
その一言で場は動いた。けれど──どうしてだろう、胸の奥がちくりと痛んだ。
蓮さんはもともと、誰かの見た目を軽々しく褒めるような人じゃない。だから最初から、何も期待していなかった……はずなのに。
どうしてこんなにも、心がざわつくのだろう。
私はそっと息を吸い込み、自分の気持ちと向き合ってみる。
──期待なんてしていない。……そんなの、嘘だ。
「きれいだね」って言ってくれるんじゃないか。そんな淡い期待を、私は確かに抱いていた。
「……恋愛の対象にも、してもらえないのか」
誰にも聞こえないように、小さくつぶやく。そして、その言葉ごと、胸に広がる寂しさを飲み込んだ。
空を見上げて、もう一度、深く息を吸う。
よし。切り替えよう。
「ごめん、お待たせ」
私は蓮さんのあとに続いて、スモーキーグレーのフォルクスワーゲンに乗り込んだ。
***
私は都内では運転しないので、道に詳しくはないが、車が首都高から東名高速に入ったことは、なんとなくわかった。蓮さんはずっと無言でハンドルを握っている。
カーオーディオから流れる軽快なジャズとは裏腹に、車内にはどこか張り詰めた空気が漂っていた。まるでピアノやサックスの音までもが、窓の隙間からすり抜けていくような……そんな感覚だった。
「蓮さん、今日って……鎌倉じゃないの?」
明らかに鎌倉を通り過ぎた地点で、ようやく私は口を開いた。
「ああ、ごめん。話してなかったね。……母は、大磯の別荘で暮らしているんだ」
「大磯って、西湘の?」
蓮さんは小さく頷く。
蓮さんのお父さんが鎌倉に住んでいると聞いていたから、お母さんもてっきり同じだと思っていた。でも、別荘に住んでいるってことは……別居?
聞いてみたい気持ちはあった。でも、蓮さんはそれ以上何も語らず、ただ前を見据えたまま運転を続けている。いつも穏やかな横顔が、今日はどこか硬い。
初めて出会ったときに彼が見せていた、あの氷のように冷たい表情を、私はふと思い出した。
「薫」
海が見えてきた頃、ふいに蓮さんが口を開いた。
「母には……いつもの薫のままで接してくれれば、それでいいから」
一瞬だけ私に向けられたその瞳には、どこか悲しげな影が差していた。胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
きっと、蓮さんとお母さんの間には、簡単には話せない何かがあるのだ。そうでなければ、彼がこんな表情をするはずがない。
本当は、どこにでもいる恋人同士のように……ギアに置かれた蓮さんの手を、ぎゅっと握ってあげたかった。言葉にならない想いを伝えるために。
でも、そんなことをしたら──蓮さんはきっと戸惑うだろうな。
だから私は、手を握る代わりに、できるだけ明るい声で言った。
「ふふ、
これはおばあちゃんの口癖だ。
蓮さんはわずかに視線を落として、小さく微笑んだ。
その笑顔を見た瞬間、胸の奥に小さな灯がともった。彼が笑ってくれる、たったそれだけで、こんなにもあたたかな気持ちになれるなんて。
何の役にも立てなくても、笑わせるくらいはできる。彼の心が少しでも軽くなるなら、それだけで十分だ。
──たとえそれが、私に与えられた、たったひとつの役目だったとしても。