蓮さんの実家は、緑豊かな鎌倉の住宅街にあると聞いていた。
それを思い出して、水曜の仕事終わりに友記子を飲みに誘った。目的はひとつ。おしゃれ番長の彼女に「鎌倉に住む彼の母親に、第一印象で気に入られるコーデ」を教えてもらうためだった。
「ちょっと、それどういうこと?」
一杯目のビールを飲み干すなり、友記子が身を乗り出してきた。
「いつの間にそんな人できてたの!? しかも、母に会うって、もうそんな段階なの!?」
冬以外の季節ならファサードがフルオープンになるビストロで、友記子はテーブル代わりにのワイン熟成樽の縁をつかんで詰め寄ってきた。泡で唇にできたビールひげのことなど、まるで気にする様子もない。
平日の折り返し地点とは思えないほど、店内はにぎやかだった。ワインを片手に談笑する人々のざわめきが心地よいノイズとなって、友記子のドラマチックな反応までも優しく包み込む。
「ごめん友記子、何度か話そうと思ってたんだけど……」
それは本当。でも、言える機会はいくらでもあったのに、今日まで黙っていたのもまた事実だ。私は心の中で手を合わせ、そっと彼女に謝った。
「いつものメルロー、ボトルで。前菜はシェフのおまかせで」
友記子は厨房に向かって注文を飛ばした。酒なしでは聞けない話だと、もう決め込んでいるらしい。
この店の常連たちは皆、シェフのセンスを信頼している。ざっくりとした注文の方が、ジャズの即興演奏のように、自由で楽しい料理が出てくることを知っているのだ。
「で、どんな人なの?」
すぐに届いた前菜の盛り合わせプレートから、グリーンオリーブとタコとモッツアレラチーズのサラダを取り分けて、友記子が尋ねる。
「穏やかで、紳士的で、優しい人。料理も上手」
私はワインを注ぎながら答えた。濃厚なメルローの香りがふわりと立ちのぼり、それだけで酔いそうな気分になる。
「その人、今から呼べない? ずっと仕事が恋人だった薫を落とした男に会ってみたいんだけど」
私は秋鮭のリエットをバゲットに塗り、ディルとレモンを添えて友記子の取り皿に置く。カシューナッツのディップとジェノバソースも添えようとしたが、その前に友記子がさっと手を伸ばし、何のためらいもなく一口で頬張った。
もうちょっと味わって食べてよねと思いつつ、私は彼女の質問に答える。
「残念だけど、しばらくは忙しくなるみたい。航が今、必死で書いてる脚本、蓮さんの会社がクライアントなんだ」
蓮さんが忙しいのは、友記子の質問をかわすためじゃなく、本当のことだった。
長野から戻った翌日、蓮さんは深夜に帰宅し、私を起こさないようにソファベッドで眠っていた。その姿を見て、私は主寝室に戻り、それ以来またひとりで眠っている。
「え、それじゃ、エルネストエンタープライズの人? すごい、ホワイトな大企業じゃん」
「まぁ……そうだね」
そのとき、ふと気づいた。私はいつの間にか、蓮さんのことを「イケメン」とか「エリート」とか、そんなわかりやすいラベルで語らなくなっていた。
たしかに彼は、見た目も肩書きも申し分ない。けれど、彼の本当の魅力は、そんな表面的なところじゃなくて中身にこそある。だから誰かに彼のことを話すとき、自然とそういう説明が出てこなくなるのだ。
「で、どこで出会ったの?」
さっき私がブルスケッタを用意したお返しのつもりなのか、友記子もバゲットに前菜を盛りつけて、私の皿にそっと置いてくれた。見ると、スパイスが容赦なく振りかけられている。さすが激辛好きの友記子、遠慮という言葉を知らないらしい。
私は、さりげなくクラッシュド・ペッパーを皿の隅に寄せながら、答えた。
「駅で……酔っ払いに絡まれているところを助けてもらったの」
「ありえん」
友記子は即座に首を振り、信じられないという顔をした。
「その人が薫の妄想じゃないって前提で言うけど……正直、詐欺じゃないか心配してる」
……あれ? それ、どこかで聞いた気がする。そうだ、明日香ちゃんにもまったく同じこと言われた。私はそんなに、妄想癖があるとか、騙されやすいタイプだと思われてるのだろうか……。
「大丈夫だよ。今週末、彼の家族にも会う予定だから」
「そっか、お母さんに会うんだもんね。……ねえ薫、『母が病気でお金が必要なんだ』とか言われても、絶対に渡しちゃだめだからね?」
「……わ、わかった。口座番号とか言われた瞬間に全力で逃げるから」
友記子はグラスにワインを注ぎ足すと、軽くくるりと回して香りを確認する。それから唇の前で指を組み、天井を見上げながら呟いた。
「もし私が久しぶりにシナリオ書くとしたら……その母は、実は男性の年上の恋人で、クライマックスは江の島の断崖絶壁で罪の激白。どう?」
「ちょっと! いろいろ飛躍しすぎだし、
どうやら、妄想が激しいのは私だけじゃないらしい。そして、それが妙に嬉しかった。やっぱり私たち、なんだかんだでクリエイターなんだなと思えて。
「ねえ友記子。そのたくましい想像力がまだ健在なら……またシナリオ書こうよ」
友記子は一瞬黙って、それから私の目をまっすぐ見て、にっこり笑った。
「そうだね。でもその前に、鎌倉コーデ、ばっちりレクチャーしてあげるから!」
***
金曜の残業を終えたあと、私は友記子と一緒に表参道のセレクトショップへ向かった。
本当は昨日、飲みながら教えてもらったコーデをメモしておいて、一人で買いに行くつもりだった。でも、私の計画を聞いた友記子は、呆れたように肩をすくめた。
「薫は背が高いから、ほんの少しのシルエットの差で、圧迫感が出ちゃうんだよ。色もね、微妙なトーン違いで顔色が悪く見えること、知ってた?」
「……なんとなく、そんな気はしてたよ?」
服にはそういうミステリアスな法則がある。私だって、それくらいは感じていた。
「気持ちはわかるよ。薫みたいに会社と家の往復だけじゃ、おしゃれしても見せる場所ないもんね。だからこそ、彼ママに会うっていう一大イベントでは、全力で華やかにいかないと!」
そう言ってから、友記子は声を潜めてつけ加えた。
「……それにさ、その彼がもし詐欺師だったら、おしゃれした薫を見て、ちょっとは罪悪感抱くかもしれないじゃん」
……友記子、まだ全然信じていないのね。
彼女に連れていかれたのは、メイン通りから少し外れたフレンチビンテージ風のセレクトショップだった。淡いトーンでまとめられた店内には、普段の私ならまず手を伸ばさないような大人かわいい服が並んでいる。
正直、ちょっと気後れする。友記子がいなかったら、そっと逃げ帰っていたかもしれない。
この店のオーナー、ユリさんは、友記子が全幅の信頼を寄せる存在だった。服選びやコーデに迷ったら、ユリさんに全部お任せしておけば間違いないらしい。
「ユリさん、今日はこの子を『彼ママ対応仕様』に仕上げてあげて」
「もちろんでございます。磨きがいがありそうで、腕が鳴りますわ」
自信に満ちた笑顔で、ユリさんが応じる。
まずは「パーソナルカラー診断」なるものを受け、「ブルベ夏ですね」と断言された。
そこからは、「圧迫感を出さず、スラリと見せるシルエット」をテーマに、服が次々と手渡される。
ユリさんと友記子が「これはちょっと大人しすぎ?」「このライン、薫に絶対似合うよ」と言いながら、とっかえひっかえ私に服を当ててくる。私はそのたびに、言われるまま試着室に向かい、着替え続けた。
一時間以上の試行錯誤を経て、二人が選んだのは、優しいグレーのニットに、マキシ丈の黒いスカート。そこに、くすんだブラウンのVカラーコートが重ねられた。
試着室から出た私を見るなり、二人は声をそろえて歓声を上げた。
「とてもお似合いですわ!」
「いつもの10倍、いや100倍は垢抜けて見える!」
鏡の前で立ち尽くす私の姿は、確かに、いつもの私とは少し違って見えた。確かに、この人が街角に立っていたら──「きれいな人だな」と思うかも。
普段買う服の数倍の値段はするけれど、ここ二ヶ月は蓮さんの家で暮らしていて、生活費が大幅に抑えられている。
もちろん、完全に甘えるつもりはないから、食費と光熱費として月々いくらか渡してはいる。それでも家賃がないぶん、貯金は順調に伸びていた。
つまり今の私は、このお高い服を迷わず買える状況にあるのだ。
「友記子、ユリさん、ありがとう。これでお願いします」
ユリさんが服を包みにカウンターへ向かうと、友記子は私を見つめ、ふっと口元を緩めた。
「薫、まだ予算ある?」
「一大プロジェクトだからね、まだ余裕あるよ」
「じゃあ、次はメイク! 薫を誰もが振り向く美女に変身させて──詐欺師に目にもの見せてやろうじゃないの!」