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第26話

 その後の会話で、蓮さんが大手企業のエリートだと知った途端、駅まで見送りに行きたいだの、名刺交換したいだのと騒ぎ始めた和樹を、私と明日香ちゃんはやんわりと断り、一度家に戻ることにした。


 ハンドルを握りながら、明日香ちゃんは「和樹も都会の荒波に揉まれて、肩書を気にする大人になっちゃったのか……」と、どこか寂しそうに呟いた。


 ちなみに彼女は、地元では誰もが羨む信用金庫の窓口勤務。ホワイト企業で、給料も地元トップクラスという噂だ。


 私はそのとき何も言わなかったけれど、ブラックな環境で日々こき使われている身としては、和樹の気持ちもほんの少しだけ理解できてしまった。


 和樹は昔から勉強もスポーツもできて、いつも仲間たちの中心にいた。大学時代も、きっと似たような立ち位置だったのだろう。


 けれど、社会に出れば状況は一変する。自分と同じ、あるいはそれ以上に優秀な人たちがゴロゴロいて、しかも評価は単純な能力だけで決まるわけじゃない。どんな人と、いつ、どこで出会ったか。どんなコネを持っているか。運に左右される部分も、少なくない。


 それは、自分のストーリーテリングの力を信じてシナリオの世界に飛び込んだ私にも痛いほどよくわかる話だった。まさかここまでチャンスに恵まれないとは、夢にも思っていなかったのだから。


 恋人と別れ、さまざまな感情に押し流されていた和樹が、「そういえば薫、俺のこと好きだったよな? もしかして、まだイケるんじゃね?」なんて軽く思ったとしても……まぁ、わからなくはない。腹立たしいけれど、十分にありうる。


 家に戻ると、おばあちゃんが庭のボルダリングウォールの前に立っていた。ふと視線を上げると、ウォールの最上部に人影がある。


 誰だろうと思って目を凝らすと──そこにいたのは、蓮さんだった。おばあちゃんと楽しそうに笑い合いながら、器用にバランスをとっている。


「おや、薫! 明日香ちゃん!」


 私たちに気づいたおばあちゃんが、嬉しそうに手を振る。明日香ちゃんも「相変わらずお元気ですね!」と笑いながら手を振り返した。


「おばあちゃん! 蓮さんにクライミング教えてるの?」


 私の声に、飛び降りようとした蓮さんを、おばあちゃんが手で制した。


「ここが断崖絶壁だと思って降りといで!」


「はい、師匠」


 蓮さんは小さく笑ってそう答えると、丁寧に足を運びながら、ゆっくりと降りてきた。その動きはしなやかで力強くて──まるで、美しい野生動物みたいだった。私は彼から目を離すことができなかった。


「思ったとおり、蓮くんはスジがいいね。あと一週間、私がつきっきりで特訓すれば、北岳バットレスなんて鼻歌まじりで登れるよ」


「いやいや、さすがにそれは……」


 降りながら苦笑する蓮さんに、おばあちゃんがいたずらっぽく笑う。


「蓮くん、私の特訓はね、戸隠の忍者養成所よりもスパルタだからね。生きて帰れたら、それだけで伝説レジェンド!」


「そういうことなら……遠慮しておこうかな」


 地面に降り立った蓮さんは、肩を回しながら深呼吸した。


「すごく楽しかったです。おばあちゃん、ありがとう」


 全身の筋肉を使ったばかりの蓮さんは、スーツのときよりもずっとたくましく見えた。無駄のない動きと、余分なものを削ぎ落としたエネルギーが、全身からにじみ出ているようだ。


 少し乱れた呼吸にあわせて上下する肩、喉元をつたって流れる一筋の汗。その姿は、言葉にならないほど色っぽくて──私はただ、息を呑んだまま立ち尽くしていた。


「蓮さん、ヤバい、セクシーすぎる! 上半身ハダカで来年のカレンダー作ったらぜったい売れる!」


 自分の心の声がうっかり漏れたかと思ってドキリとしたけれど、声の主は明日香ちゃんだった。


 私はホッとしつつ、ミーハーなノリで便乗しようとしたけれど……うまくはしゃげなかった。どんなふうに茶化しても、自分の気持ちが、こぼれてしまいそうで。


「……あと一時間で新幹線の時間だから、蓮さん、シャワー浴びてくれば?」


「そうだね」


 タオルで汗をぬぐいながら、蓮さんは頷いた。


 その表情には、もう今朝の不安げな影はなかった。いつもの、穏やかで静かな自信が戻ってきている。


 彼が家に入るのを見届けてから、私はおばあちゃんのもとへ向かった。


「おばあちゃん、蓮さん、すっかり元気になったね。どんな魔法を使ったの?」


 おばあちゃんは、ふっと優しく笑った。


「薫、蓮くんはね──」


 そう言いかけて、ふいに視線を落とす。豪快なおばあちゃんが言葉を濁すなんて、珍しい。


「おばあちゃん?」


「蓮くんは……とってもいい子だから、大切にしてあげなさい」


 それだけ言うと、いつもの力強い笑顔に戻って、「来年は、蓮くんのために、もう少しウォールを高くしてもらおうかしら」と言いながら、家の中へと戻っていった。


***


 帰りの新幹線の中、蓮さんの様子は、ほんの少しだけいつもと違っていた。


 今朝のように沈んでいるわけではない。目もきちんと合うし、その瞳には、彼らしいまっすぐな芯がしっかりと宿っている。


 けれどその奥には、何かを決断しようとしているような気配が漂っていた。


──私に、何か大切なことを話そうとしている?


 問いかけたい気持ちを抑えて、私は理性を総動員して沈黙を選んだ。もし蓮さんが何かを伝えたいと思っているのなら、それは彼自身の意思で話してほしい。そう思ったからだ。


 もしかすると、良くない話かもしれない。けれど、だからこそ──彼が「話したい」と思ったその時に、彼の言葉で聞きたかった。


「薫の故郷、楽しかったよ。リンゴもたくさんもらっちゃったね」


 明日香ちゃんが別れ際に、家で採れたリンゴを袋いっぱいに持たせてくれたのだ。蜜のような甘い香りが、ビニール袋からふわりと立ちのぼる。


 ふと思いついて、私は言った。


「せっかくだから、明日、会社で蓮さんの同僚に配ってあげて。私も、会社の友だちに持っていくね」


「ありがとう」


 蓮さんが穏やかに頷く。


「ふじリンゴだから日持ちするけど、収穫したては格別に美味しいんだよ」


「そうなんだ」


 蓮さんは、手の中のリンゴを見つめて静かに言った。


「まもなく東京駅到着」のアナウンスが流れる。蓮さんがゆっくりと、私のほうを向いた。


「薫」


「はいはい」


 夕食のリクエストでも聞かれるのかと思って、私は軽い調子で返事をした。蓮さんもきっと疲れてるし、さっきローカルスーパーで買った「ぽんちゃんラーメン」でも作ってあげようか……なんて思いながら。


 けれど、蓮さんの口から出たのは、夕飯の話ではなかった。


「このリンゴ、いくつかもらってもいい? リンゴが好きな人がいるんだ」


「もちろん。いくつでも、どうぞ」


 そう答えた瞬間、蓮さんがふいに体を傾け、私の肩にそっと手を添えた。


 思いがけない近さに、心臓が高鳴る。手のぬくもりが肩に広がり、呼吸が少し浅くなった。


 平然を装いたいのに、視線が定まらない……お願い、そんな顔で見つめないで。私は、ただでさえ意識しすぎているのに。


 もし、蓮さんが私のことを少しでも特別だと思ってくれているのなら──こんなふうに触れられたら、きっと嬉しいのに。


 でも、きっと違う。私は勝手にときめいて、勝手に期待して、そしてまた、何も言えないまま落ちていく。


 冗談めかして「近すぎ」と文句を言おうかと思ったそのとき、蓮さんが口を開いた。


「来週、もしよかったら……母に会ってほしい」


 まったく予想していなかったその一言に、私は目を見開いたまま、ただ彼を見つめることしかできなかった。

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