「蓮くん、デートに行こう。とびっきり美味しいみたらし団子をおごってあげるから」
おばあちゃんはそう言って、蓮さんを連れ出した。彼はどこか思い詰めたような表情のまま、おとなしく車に乗り込んでいく。
いつもなら静かな自信に満ちている蓮さんが、少ししょんぼりしている姿は──気の毒なはずなのに、なんだか妙に可愛らしい。そんな自分をひどいやつだと思いつつ、心の中でそっと『ドナドナ』を口ずさんだ。
帰りの新幹線は午後イチ。また明日香ちゃんが送ってくれることになっていたので、お礼も兼ねて、彼女にランチをおごることにした。
久しぶりに訪れた駅前は、思った以上に変わっていて、おしゃれなカフェやレストランが立ち並んでいた。どこに入ろうかと迷ったけれど、結局足が向いたのは、高校時代から通い詰めた馴染みの洋食屋さんだった。
「昨日はごめん!」
席につくなり、明日香ちゃんが勢いよく頭を下げる。私は苦笑いしながら首を振った。
「謝らないで。明日香ちゃんは全然悪くないよ。蓮さんも、すぐに元気になったし」
実際には、蓮さんはまだ元気とは言えない。でも、明日香ちゃんを責めたくなくて、優しい嘘をついた。自分で優しいって言っちゃうのも何だけど。
「それならよかった……。あのあと、果歩を締め上げようと思ったんだけど、『果歩、そんなことしてないし』平然と言い切ってさ」
悔しそうにフォークを握りしめた明日香ちゃんが、エリンギのフリットをぐさりと刺す。その勢いに、思わず笑ってしまった。
「明日香ちゃん、エリンギに罪はないよ。落ち着いて」
それにしても、果歩ちゃんは相変わらずだ。
彼女はいつだって、自分が悪者にならないように、うまく立ち回る。したたかで、打たれ強くて、それでいて愛嬌もある。狙いを定めた相手に向かっていく姿は、まるで迷いのないスナイパーのようで──昔は、それがちょっと羨ましくさえあった。
でも、今回ばかりは違う。蓮さんを巻き込んだあのやり方は、どうしても許せなかった。
だけど、「やってない」と言われてしまえば、それ以上はどうしようもない。
「果歩ちゃんが魔性のスナイパーだってこと、忘れてた私が悪いんだよ。だから、明日香ちゃんはもう気にしないで」
私はできるだけ平気なふりをして、明るく言ってみせた。
「昨日は、蓮さんもみんなと楽しそうにしてたし。また集まることがあったら、ぜひ誘ってね」
昔から変わらない魚介のトマトソースの味が、いつもよりほんの少しだけ、心に沁みた気がした。
「ありがとう、薫。もちろんだよ」
それから私たちの話題は、自然と昔の思い出へと移っていった。
小学生の頃、神社で虫取りに夢中になったこと。明日香ちゃんが、お母さんの買ってきた食パンを全部ハトにあげて怒られたこと。木に登って降りられなくなり、消防団のおじさんたちにこっぴどく叱られたこと……。
他愛のないことばかりだけど、どれも色鮮やかに心に残っている。
小学校時代からの友達は、もう家族みたいなものだ。明日香ちゃんとこうして話しているだけで、心がじんわりとあたたかくなっていく。
昨日のピクニックも楽しかったけれど、二人だけで心おきなく過ごす時間には、また違った心地よさがあった。
食事が終わったあと、私たちはティラミスとコーヒーを注文することにした。店員さんを呼ぼうとしたとき、明日香ちゃんがふいに私の手を取る。
「薫、もうひとつ……謝らなくちゃいけないことがあるの」
「え?」
そう言った瞬間、誰かが私たちのテーブルの横に立った。見上げると──和樹が、私たちを見下ろしていた。
「和樹……」
私は驚いて明日香ちゃんを見た。「どういうこと?」
「ごめん! 和樹がどうしても、薫に謝りたいって言うから……」
私は観念して、背もたれに体を預けた。明日香ちゃんの性格からして、幼なじみ同士で、わだかまりを残してほしくなかったのだろう。それはわかる。責める気にはなれなかった。
「薫、昨日はごめん」
和樹は立ったまま、深々と頭を下げた。
本当に今日は、謝られてばかりだ。こんな日に名前をつけるなら……。
私はバッグから手帳を取り出し、「ごめん祭り→12年に1回の周期?」と書いた。これは何かのシナリオで使えるな、たぶん。
ひとネタ浮かんだことで少しだけ気が楽になって、私は和樹に椅子をすすめた。
「とりあえず、座りなよ」
「……薫、少しだけ、二人で話せないか?」
「ダメ」
私と明日香ちゃんの声が重なった。思わず顔を見合わせて、くすっと笑い合う。
「和樹、謝るだけなら、私がいても問題ないでしょ?」
明日香ちゃんが少しキツめに言い放つ。ここがレストランじゃなければ、きっと「和樹、お前調子に乗ってんじゃないよ」くらいは言っていたと思う。
和樹は観念したように、明日香ちゃんの隣に腰を下ろした。
「私たちはコーヒーとティラミス頼むけど、和樹はモンブラン派だったよね? デザートは和樹のおごりね」
そう言って、明日香ちゃんがオーダーを伝えた。
和樹は気持ちを落ち着かせるように深く息を吐いてから、口を開いた。
「昨日は、不愉快な思いをさせて、本当にすまなかった」
「っていうかさ、なんでいきなり薫に絡んだりしたのよ」
明日香ちゃんが真顔で問いただす。どうやら、彼女も詳しい用件までは聞いてないらしい。
和樹は一瞬視線を伏せ、それからモゴモゴと口を動かす。
「……先週、彼女に振られてさ。それで、飲み会に薫が来るって聞いて、もし薫がフリーだったら……遠距離でもやり直せるかもって、思って……」
「はぁ? なにそれ!」
「バッカじゃないの!」
またしても、私と明日香ちゃんの声がぴったり重なった。今度はハモらなかったけど、呆れと怒りの温度は一致していた。
「だって、俺、今まで彼女が途切れたことなんて一度もなくてさ……」
情けなさそうに言った和樹の声は、語尾が消え入りそうなくらい弱々しかった。さすがに自分でも図々しいと思ってはいるらしい。
もう少し罵ってやりたい気もしたけれど、ここは公共の場。大人としての理性が、私たちをぎりぎりで踏みとどまらせた。
「和樹、あなたの記憶は三葉虫の化石なの? あれから何年経ったと思ってるの。私にはもう、あなたに未練なんてこれっぽっちもないからね」
はっきりさせるために、私は強めに釘を刺す。
「残念だけど、薫にはあんたが足でピアノ弾いても敵わないような婚約者がいるんだから」
運ばれてきたティラミスをスプーンですくいながら、明日香ちゃんがきっぱりと言った。和樹はぐっと口をつぐみ、恥じ入るように視線を落とす。
「……蓮さん、だっけ? あの人を見たときに、あ、こりゃかなわないなって思ったよ。あのあと、亮たちにも聞いたら、めちゃくちゃいい人だって言ってたし……」
それを聞いて、私はちょっと誇らしくなった。そう、蓮さんは温かくて、誠実で、とびきり素敵な人なの。さすが亮くん、分かってらっしゃる。
──だけど。
蓮さんの笑顔の奥にある本当の想いを、私はまだ知らない。彼のことを少しはわかっているつもりでも、その心の深い場所には、まだ手が届いていない気がしていた。
そんな私の気持ちに気づくこともなく、和樹は続ける。
「それに……昨日の蓮さんの様子を見て、薫のこと、本気で大切にしてるんだなって、わかった」
もし、それが本当なら……どれだけ嬉しいだろう。
そう思ったけれど、口に出すのはやめておいた。代わりに、私は「ありがとう」とだけ言った。
「蓮さんにも、謝っておいて。許してくれるといいんだけど」
「うん、わかった」
ようやく少しだけ笑顔になれた。蓮さんなら、きっと許してくれる。
「薫は甘すぎるよ、あーもう、果歩も和樹もまとめて締め上げてやりたい」
明日香ちゃんがスプーンを振りかざし、和樹のモンブランを三分の一ほど、ざっくり持っていく。
「おい、明日香! てっぺんの栗まで取るなよ!」
和樹が嘆く。私と明日香ちゃんは、声を上げて笑った。
私はふと思い立って、手帳を取り出す。そして、こう書き込んだ。
『一人で過ごした時間が、あの人の強さを育てたのかもしれない』
蓮さんは、恋愛経験が少ないと言っていた。そのぶん、一人でたくさんの感情と向き合ってきたのかもしれない。そう思うと、彼のしなやかな強さが、よりいっそう愛おしく感じられた。
だけど──このときの私は、まだ気づいていなかった。
あの優しさの裏で、蓮さんが、どれほど深い孤独と悲しみを抱えていたのかということに──。