それから私たちは、蓮さんが焼いてくれたピザを一緒に楽しんだ。
今日のピザ生地は、冷蔵庫で長時間発酵させたパン生地をベースにした、ふっくらとしたタイプ。生地の上にはとろりとしたチーズと、香ばしく焼き上げた厚切りベーコン、そしてルッコラが贅沢にトッピングされていた。
仕上げに、ミルで削ったブラックペッパーと、理央さんがカナダから持ってきた
一口頬張って、私はその味に驚いた。スモーキーなベーコンの塩気とメープルシロップの甘い香り、そしてルッコラのピリッとした苦みが絶妙にマッチしている。しかもそれだけではなく、その下に広がるチーズが、味にさらなる奥行きを加えているのだ。
「いただきマッスル」と言って一口食べた理央さんも、目を輝かせている。
「蓮さん、ベーコンとメープルの組み合わせはもちろん、このチーズも最高なんだけど……ゴルゴンゾーラと、この伸び方はモッツアレラ?」
蓮さんは、満足そうな笑みを浮かべる。
「さすが薫。ブルーチーズが合うと思ったんだけど、風味が強くなりすぎないようにゴルゴンゾーラは少量にして、モッツアレラとゴーダを組み合わせてみたんだ」
理央さんは感嘆の声を漏らした。「兄さん、腕を上げたね!」
「簡単だから、ルーカスにも作ってあげてくれ」
テーブルの上には空になった皿が並び、部屋にはピザの香ばしい香りだけが残っている。私たちは食後の余韻に浸りながら、しばらく他愛のない会話を楽しんだ。
「薫は誕生日だし、理央には確実にパッキングを終わらせてほしいから」と、食後の洗い物まで蓮さんが引き受けてくれた。それから彼は「シャワーを浴びてくる」と立ち上がり、リビングには私と理央さんだけが残される。私は理央さんに「大学院で何を専攻しているの?」と尋ねた。
「
理央さんは、コーヒーテーブルの隅に積まれた洋書を一冊手に取った。心理学の専門書なのだろう、ページの端から無数の付箋が顔を出している。
「いろいろ
「どうしてその道を選んだの?」と何気なく聞く。すると理央さんは、包み込むような温かい笑顔を向けた。
「お母さんがアルコール依存症って話、兄さんから聞いた?」
私は少しだけ躊躇してから頷いた。
「うちの母ね、私が中学生のときの授業参観に、酔っ払った状態で来ちゃったことがあってね」
びっくりして理央さんを見ると、彼女は「もう大丈夫」とでも言いたげに笑ってみせた。
「入口で止められなかったところを見ると、多分校内に入ってから、トイレかどこかで小瓶のリカーを煽ったんだと思う。教室でお酒の匂いをプンプンさせながら立っていて、周りの保護者はそれを見てヒソヒソ話してた。気づいた副担任が、教室から母を連れ出そうとした時、母が抵抗して暴れて、
理央さんは、あははと明るく笑った。だけど、思春期の女の子が、クラスメイトの前で母親のそんな姿を目の当たりにするなんて……想像しただけで、胸が張り裂けそうになる。
「それがきっかけで、私へのいじめが始まったの。割といいインターナショナルスクールだったから、あまり露骨ではなかったけれど、みんな、私に関わらないことにしたみたい。みんなから無視されて、私の分の
理央さんはおどけてみせたが、私はなんと言っていいかわからず、ただ聞き入ることしかできなかった。
「でもね、そんなとき、いつも兄さんが助けてくれた。中高一貫のスクールで、カフェテリアは共同だったの。兄さんは、いつも隅っこでひとりでお昼を食べている私のところに来て、一緒に過ごしてくれた。それが原因で、自分まで『アル中の息子』とか言われるようになっても、彼はまったく動じなかった」
そのときの連さんが目に浮かぶようだった。きっと彼は昔から、自分にとって大切なものを知っていて、それを守り通せる人だったんだろう。
「でも、兄さんが卒業したら、やっぱり耐えきれなくてね。父に頼み込んで、カナダの高校に編入したの。
理央さんは、手に持った専門書をパラパラとめくった。どのページにも、何本ものハイライトが引かれ、余白には筆記体で、ものすごい量の書き込みがしてあった。
「それでも、やりきれない気持ちを誰かに聞いてほしいこともあって、そんなときにはいつもスクールカウンセラーのところに行ってたの。それで、話すことでこんなに楽になれるんだと実感して、私もカウンセラーを目指そうって思ったんだ」
理央さんは、曇りのない笑顔を浮かべた。──過去の苦しみをしっかりと乗り越えたからこそ、こんなふうに清々しく笑えるのだろう。
「あ、あとね、お母さんにはいろいろ苦労させられたけど、大切な母だから恨んではいないよ。アルコール依存症は脳の病気だし、彼女は一日一日を飲まずに乗り切ろうとしてる。それって、並大抵のことじゃないんだよね。だから、ずっと応援してあげたいんだ」
「……大切な話をしてくれて、ありがとう」
理央さんは穏やかに微笑んで「薫さんのそういうところ、私も好き」と言った。
「ついでに、なんで兄さんが契約結婚を提案したのかまで聞いてくれる? 兄さん、自分じゃ話しづらいだろうから」
私は頷いた。ぜひ聞いておきたい。
「去年くらいからかな、父が跡取り問題を持ち出して、結婚しろといい出したの。上の兄さんは上手いこと逃げて、蓮兄さんも仕事が忙しいからとお見合い話を断り続けていたら、私を連れ戻して婿養子を取らせようっていう話になっちゃって」
驚いて理央さんを見つめると、彼女は「時代錯誤よね」と呆れたように眉をひそめた。
「もちろん私にはルーカスもいるし、断固拒否するつもりだった。でも、院の学費をすべて止められると、奨学金と
理央さんは私の方を向いて、少し申し訳なさそうに言った。
「だけどそんなとき、兄さんが薫さんに出会った。兄さん、『正義感が強くて、まっすぐで、なんだか楽しそうな人に突然プロポーズされた』って言ってた。この人と結婚しておけば、当面の間は丸く収まるんじゃないか……。ごめん薫さん。最初は兄さん、そういう気持ちだったの」
私は頷いた。私だって、家事を全部やってくれるという連さんの言葉に動かされたのだから、似たようなもの……いや、どう考えても私のほうがずっと浅はかだ。
「あの日、兄さんが出会ったのが薫さんでよかった。私だけじゃなく、兄さんにも幸せになってほしいから」
理央さんは、私の手を取って握りしめた。
「ムキムキマッチョじゃないけど、本当に優しくて尊敬できる人だから……。薫さん、兄をよろしくお願いします」
* * *
理央さんは無事パッキングを終え、リビングのカウチベッドで小さな寝息を立てている。私は主寝室のベッドでひとり、蓮さんから贈られたアンセル・アダムスの写真集を眺めていた。
今日一日を振り返ると、素敵な出来事があまりに多すぎて、眠ってしまうのがもったいないくらいだった。
静まり返った夜の空気が、ひんやりと部屋を満たしている。仄暗い空間に、写真集のページをめくる音だけが響いていた。
そのとき、かすかにドアがノックされる音が聞こえた気がした。
「はい?」
気のせいかと思いつつ、小さな声で答えると、ゆっくりとドアが開く。私は思わず息をのんだ。
そこに立っていたのは──モカブラウンのルームウェアに身を包んだ、蓮さんだった。
すらりとしたシルエットと端正な顔立ちが、柔らかな間接照明に照らされて浮かび上がる。普段よりもリラックスした装いが、かえって彼の魅力を際立たせていた。
昼間よりもわずかに浮き立つ髪のくせと、控えめながらも揺れる視線が……完璧だった夜の静寂を、そっと乱したように感じられた。