「ごめん、遅くに」
部屋の入り口に立つ蓮さんが、いつもより控えめな声で言った。薄暗い灯りに浮かぶ整った顔立ちは、どこか途方に暮れたような影を纏っている。それでも、普段の完璧さとはまた違った少しラフな姿が妙に魅力的で、私は思わず見とれてしまった。
「水を飲もうと思って起きたら、灯りが見えたから……。少しだけ、話してもいい?」
鼓動が早まるのを感じながら、どう返せばいいか迷った。話すだけならもちろん嬉しい。でも、もしそれ以上の意味があったら……。
私の躊躇に気づいたのか、彼は慌てて、「そういう意味じゃなくて、ただ話したかっただけなんだ」と付け加えた。
「そ、そうだよね。どうぞどうぞ」私も赤くなりながら応じた。蓮さんがそんなつもりで来たわけじゃないのに、一人で想像を膨らませていた自分が恥ずかしい。
蓮さんはベッドの隅を指さし、「座っていい?」と聞く。私が頷くと、彼はゆっくり腰を下ろした。
「なんだか眠れなくて、蓮さんにもらった写真集を見てたの」
私の言葉に、蓮さんはやわらかく目を細め、「気に入ってくれた?」と聞いた。
「とっても。宝物にする」
そう言ってから、ふと気づいた。離れていた時間が、この何気ないひとときの大切さを教えてくれた気がする。蓮さんと一緒にいられること自体が、私の宝物だ。
蓮さんは小さく微笑みながら続けた。
「レストランでこの写真を見たとき、薫、なんて言ったか覚えてる?」
私はちょっと考えてから答えた。
「たしか、『モノクロなのに色が見える』って?」
「そう。僕も昔からそう感じてたけど、あのとき薫にそう言われて、初めてはっきり気づいたんだ。……気づかせてくれて、嬉しかった」
少し照れくさくなり、私は写真集の表紙に視線を落とした。
──蓮さんにどうしても聞きたいことが、あと一つだけある。切り出しにくいけれど、今なら……聞けるかもしれない。
「……蓮さん、質問があるのですが」
「なに?」
「その……この間の夜のこと、なんだけど」
うわ、すごく言いづらい。蓮さんも、少し歯切れが悪くなって、小さく「……うん」とだけ言う。恥ずかしくて、蓮さんの顔を見ることができないまま続けた。
「あのとき、蓮さん『ごめん』って言ったよね? ……あれって、どういう意味だったの?」
蓮さんは視線を落とし、静かに息をついた。次の瞬間、彼の腕が伸び、私は不意にその胸に抱き寄せられていた。ルームウェア越しに伝わるしなやかな筋肉と速まる鼓動に、呼吸さえ忘れそうになる。
ああ、理央さんに教えてあげたい──「あなたのお兄さん、細いけれど意外と筋肉ありますよ」って。もちろん、そんなこと言えるわけないけれど。
「連さん?」身をよじって見上げると、彼は耳まで赤く染まっていた。
「あれは……反省しています、という意味です」
「反省?」
蓮さんは私をさらに強く抱き寄せ、顔を見せないようにする。
「その……用意もしてないのに、最後までして、ごめん……という意味です」
今度はわたしが赤くなる番だった。あのとき──脚本を書いているときに得た中途半端な知識に基づいて、「大丈夫だから」と言ってしまったのは私のほうなのに……。
「あれは……私が」
私の言葉を遮るように、蓮さんは、抱きしめる腕にさらに力を込めて言う。
「いや、日を改めるべきだった……ごめん」
少しの間、沈黙が流れる。蓮さんはほんのわずかにためらいながら、耳元でそっと囁いた。
「もう……ちゃんと用意してあるから」
その声が甘く耳に届いて、私はきつく目を閉じた。私のような圧倒的に経験不足の人間には、どう考えても刺激が強すぎる。
それからしばらくの間、蓮さんの腕に包まれながら、私は静かに流れる時間に身を委ねていた。鼓動が次第に穏やかになり、私の心も温かな安心感に包まれていく。このままずっと、こうしていられたら──。
やがて、蓮さんはそっと腕の力を緩め、優しく私の顔をのぞき込んだ。
「薫、会議室で、『あの絶望が、すべて想像だと思うか』って僕に聞いたよね」
それは──私が、蓮さんに対して怒りを覚えたときに投げた言葉だ。すべてが私の誤解だったので、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「責めるようなことを言ってしまって、ごめんなさい」
「違うんだ」蓮さんはもう一度、優しく私を抱き寄せる。「広瀬さんから話を聞いたあと、もう一度読み返した。……辛い思いをさせて、ごめん」
それまでためらっていた両手を、私はようやく蓮さんの背中に回した。手のひらから彼の体温が伝わってくる。太陽をたっぷり吸収した木綿のような温かい香りを、私は思い切り吸い込んだ。
「薫。お願いがあるんだけど、聞いてくれる?」
蓮さんがこんなふうに甘えるのは初めてで、私は少し嬉しくなった。顔を上げて「なに?」と聞くと、蓮さんは突然、顔を近づけてきた。
キスされる──そう思って体がぎこちなく固まる。けれど、キスはされなかった。ただ、ほんの少し動くだけで唇が触れそうな距離に、蓮さんはいた。
「薫から、キスしてほしい」
低い声で囁くたび、形の良い唇が私の唇にわずかに触れる。そのたびに、背筋を甘い電流が駆け抜ける。
長いまつ毛が影を落とす瞳が、深い情熱を
「蓮さん、もう……触れてるよ……」
私が声を出すときも、唇が柔らかく触れ合い、そのたびに甘く切ない期待が湧き上がる。
「薫から、してほしい」
蓮さんがもう一度囁く。その微かな刺激に抗えなくなり、私は顔を少しだけ上げた。あっけないほど簡単に、唇が重なった。
次の瞬間、彼の手が私の顎にそっと触れ、優しく引いて口を開かせた。蓮さんの熱を帯びた舌が私を捕らえ、逃れようのないほどの情熱で包み込む。その感覚に心が震え、私も蓮さんを離したくないと、思わずその肩にしがみついた。
吐息まで奪われるような深い口づけに、すべてを彼に委ねたくなる衝動に駆られた。私は──まるで熱いトーストの上のバターだった。蓮さんの熱がゆっくりと私を溶かし、その体に染み込んでいくような感覚に包まれる。
自分でも気づかないうちに、私の手は蓮さんの背中をたどり、柔らかな髪に指先を埋めていた。右手が彼の頬にたどり着くと、言葉にならない、泣きたくなるような甘い
そのとき、私のパジャマの裾から蓮さんの手が入ってきて、素肌に触れた。痺れるような感覚が走って、私は我に返る。腕に力を込めて、引き剥がすように唇を離した。
「蓮さん、今日は……」
私の声はかすれて、ほとんど息に溶けていた。
「……ごめん」蓮さんは息を整えようと深く吸い込みながら、かすかに頭を振った。
「話したかっただけのに……我慢できなかった」
熱を帯びた手が、私の髪をそっと撫でる。その仕草には戸惑いと諦めが混ざっていて、蓮さんは自嘲するように小さく笑った。
「本当は、薫が求めてくれるまで何もしないつもりだったんだけど……全然無理だった」
私も少し笑ってみせた。「私、この間までキスもしたことなかったのに、無茶言わないで」
「……和樹くんとは?」
「告白したときにされそうになったけど、私はそういうのはゆっくり進めたいタイプだから断ったの。次に会ったのは4日後の卒業式で、なんと、和樹にはすでに新しい彼女ができていました」
笑ってもらえたらと思って話したのに、蓮さんは静かに私の頬に手を添え、そっと額を寄せてきた。
「それは……嬉しい」低く柔らかな声が響いた。
頬に当てた手の親指が滑るように私の唇をなぞり、下唇にそっと触れた。ほんの少し押されただけで、自然に口が開く。
私は──蓮さんの親指の先を口に含んだ。さっき、彼が私に教えてくれたように、舌先でそっと蓮さんを辿る。彼の呼吸が再び乱れるのが感じられた。
「ダメだ、限界」
蓮さんが手を引き、再び額をそっと重ねてきた。それから、低くかすれた声で囁くように言った。
「……薫が
その瞬間、甘い震えが全身を駆け抜ける。蓮さんの言葉が、今までとは違う響きを持って心に深く染み込んでいった。
「おやすみ」私の髪にそっとキスをして、蓮さんは静かに部屋を後にした。
──蓮さん、「俺」って言った。普段の「僕」、ビジネスモードの「私」に加えて、まさかのシークレット「俺」だ。思わず両手で顔を覆い、「コンプリートしちゃった……」と小さく呟く。
耳の奥には、まだ蓮さんの言葉が残っている。心も体も溶けてしまいそうな感覚に包まれ、まるで足のつかない泉にゆっくりと引き込まれるようだ。
その甘く切ない余韻を胸に刻みたくて、蓮さんにもらった写真集をぎゅっと抱きしめた。外国のインクの匂いにさえ、蓮さんの気配を感じる。私は目を閉じ、しばらくその幸福感に身を委ねていた。