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第50話

 翌朝、私は心地よい余韻に包まれながら目を覚ました。


 何か……とても幸せな夢を見ていた気がする。だけど、深く眠りすぎたせいか、その内容までは思い出せなかった。


 ただ、目が覚めた瞬間、ふと自分が微笑んでいることに気づいて、不思議と満ち足りた気持ちになった。


 ゆっくりと起き上がり、ベッドで伸びをする。


 顔を洗ってリビングへ行くと、蓮さんはすでに起きて、キッチンで料理をしていた。カウチベッドには人形ひとがたに盛り上がった布団があり、理央さんがまだ眠っているのがわかった。


「おはよう、蓮さん」


 蓮さんが振り返り、少しはにかみながら「おはよう。よく眠れた?」と聞いた。


 私もちょっと照れながら答える。「うん、ぐっすり眠れた」


「朝食に、理央が買ってきてくれたアップルフリッターを食べよう」


 そう言いながら、蓮さんは私のマグカップにコーヒーを注いでくれた。


「今、ベーグルを茹でてるんだ。これから焼くから、もう少し待ってて。理央もその頃には自動的に起きてくるはずだから」


「自動的に?」


「まあ、見てて」


 マグカップから立ちのぼる、フルーティで華やかな香りが鼻腔をくすぐった。たしかに、甘いパンにぴったり合いそう。そして……蓮さんの料理の腕前にはいつも驚かされる。ベーグルが家で作れるなんて、蓮さんに会う前は想像もしなかった。


 茹で上がったベーグルがオーブンに入ると、しばらくして香ばしい匂いが部屋いっぱいに広がり始めた。すると、カウチベッドの布団がもぞもぞと動き、理央さんが目をしょぼしょぼさせながら顔を出した。


「ベーグルの匂い……ベーグル焼けた……?」


 私は思わず笑ってしまった。なるほど、これが蓮さんの言う「自動的」なのね。


「おはよう、理央。もうすぐ焼けるよ。顔を洗っておいで」


 理央さんは「ふぁい……」と寝ぼけた返事をしながら、洗面所へ向かった。


 蓮さんはオーブンから焼きたてのベーグルを取り出し、その余熱を利用してアップルフリッターを温めた。今度は甘くスパイシーな香りが部屋中に広がり、私は思わず深呼吸をする。


「食べてみて」


 蓮さんに言われて一口頬張り、その絶妙な味わいに驚いた。外側はカリッと香ばしく、中はしっとりと柔らかい。りんごの甘さとシナモンのほのかなスパイシーさが口の中でふわりと広がり、なんとも幸せな気分になる。蓮さんと理央さんが絶賛するのがよくわかった。


「これ、すごく美味しいね!」


「レシピ自体はとてもシンプルなんだけどね」蓮さんは私のカップにコーヒーのおかわりを注ぎながら言った。


「材料のバターミルクが日本じゃ手に入りにくいから、今まで作ってなかったんだ。バターミルクなしでもできるけど、それならりんごのマフィンにしたほうが簡単でいいかなと思って、結局作ってないんだ」


 洗面所から戻った理央さんが、目を輝かせながら焼きたてのベーグルにかぶりついた。


「これこれ! やっぱり兄さんの全粒粉ホールウィートベーグルが最高!」


 理央さんが声を弾ませながら言い、もう一口大きく頬張る。その幸せそうな笑顔につられて、私もベーグルをかじってみた。


 パリッとした表面の心地よい食感と、噛むたびに広がる全粒粉の素朴で豊かな風味。まるでお店のような完成度に、私はびっくりした。


「本当だ、とっても美味しい」


 私が言うと、蓮さんは少し照れたように微笑んだ。その控えめな笑顔が、何だかとても愛おしい。そんなふうに思っていることが伝わらないように、私はそっと目を伏せて、ベーグルをもう一口かじった。


 朝食を終え、空港へ向かう時間になった。蓮さんのフォルクスワーゲンが家の前に停まり、彼がトランクを開ける。


 理央さんは「VWヴィー・ダブラビット号、今日もよろしく!」と車に声をかけながら、ぱんぱんに詰め込んだスーツケースを蓮さんに手渡した。


「ラビット号?」


「この車、北米ではラビットって車種名なんだ」


「かわいい。私もこれからそう呼ぼうかな」


 その時、風が吹いて私の髪が乱れ、頬にかかった。すぐに蓮さんの指がすっと伸び、髪を耳にかけてくれる。彼の人差し指が私の頬から耳へ滑る感触に、昨夜の記憶が鮮明によみがえり、一瞬、胸の奥が熱くなる。


「……ありがとう」


 蓮さんも少し照れたように視線をそらした。それを見た理央さんは覚めた表情で、「ああ、やってられない。早く飛行機に乗りたい……」と、ため息まじりに呟いた。



* * *



 スーツケースを引く音、搭乗案内の多国語アナウンス、そして旅立ちの高揚感に溢れる人々……。羽田空港第3ターミナルの出発ロビーは、活気に満ちていた。


 チェックインを済ませた理央さんは、私たちの前に立って、輝くような笑顔を向ける。


「見送りはここまでで大丈夫。2人とも、ありがとう」


 さっきまで、兄に甘える妹の顔だった理央さんの表情が、急に大人びて見えた。芯の強さと包み込む優しさを兼ね備えた女性──そんな一面が浮かび上がり、私は改めて、彼女のことを魅力的な人だと感じた。


「ルーカスによろしく伝えて」


 蓮さんが腕を広げ、理央さんをしっかりと抱きしめる。その光景に、二人がお互いをとても大切に思っているのが分かり、胸の奥が温かくなった。


 それから理央さんは優しく腕を広げ、私にもハグをくれた。


「薫さん、あなたが兄さんのそばにいてくれて嬉しい。また帰国したら、一緒にたくさん過ごそうね」


「ありがとう、楽しみにしてる」


 私も彼女を強く抱きしめ返した。


 理央さんは「それじゃ、またね」と手を振りながら、出国審査のゲートへと消えていった。


「せっかくだから、展望デッキへ行こうか」と、蓮さんが声をかける。私は頷いた。空港の雰囲気は大好きだ。


 デッキには冬とは思えない柔らかな陽気が広がり、澄んだ空気が心地よかった。飛行機が次々と滑走路を走行し、青空へ吸い込まれるように飛び立っていく。私たちは並んで、その景色を静かに眺めていた。


「素敵な女性だね、理央さん。凛としていて、まっすぐで、強くて、優しい」


 そう言いながら、私は心の中で「あなたみたいに」とそっと付け加えた。


「……最初に理央をここで見送った時は、『行きたくない』って泣きじゃくってたんだ」


 私は蓮さんを見た。彼は目を細め、懐かしさと切なさが交ざり合ったような優しい表情を浮かべている。


「学校でずっと無視されていて、環境を変えるために選んだ留学だったけど、まだ15歳で心細かったんだろうな。最初の2ヶ月くらいは、しょっちゅう泣きながら電話してきた。帰りたいって」


 さっきの、理央さんの表情を思い出す。いろんなことを乗り越えたからこそ、あんなふうに優しく笑えるようになったんだ。だとしたら……。


「だとしたら、大切な人をこうして見送るのって……寂しいようでいて、たくさんの希望があるよね」


 私の言葉に、蓮さんは静かに微笑んで頷いた。


 不意に肩を抱かれ、彼を見上げる。今日の空のように澄んだ瞳が、まっすぐに私を見つめていた。


 何も言わないまま、蓮さんの顔が少しずつ近づいてくる。あ、と思った瞬間、彼のスマホが震えた。


 彼は小さくため息をついてスマホを取り出し、画面を確認する。それから照れたような笑みを浮かべ、周りを見回してから私に画面を見せた。


「理央からだよ」


『展望デッキでイチャついていますね。バッチリ見えてます(笑)』


 メッセージを見た瞬間、吹き出しそうになる。それから蓮さんと顔を見合わせて、堪えきれずふたりで笑った。


「帰ろうか」蓮さんが柔らかく微笑みながらそう言い、私は頷いた。


 最後にもう一度、空を見上げた。透き通る青空に、飛行機がゆっくりと消えていくのが見える。その姿を追いながら、私も何だか遠くへ行けるような気がした。


 どこから見ているのかわからない理央さんに届くように、私は大きく手を振る。


 蓮さんがそっと私の背に手を添え、私たちは展望デッキを後にした。背中の手の温もりが、言葉よりもたくさんの気持ちを伝えてくれるようだった。

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