蓮さんがその名を口にした瞬間、祐介は大きく目を見開いた。そして、すぐに感情を押し込めるように両手を強く握りしめ、静かに息を吐く。
「……何、を」
とっさに誤魔化そうとしたのがわかったが、彼の声はかすれていて、それ以上の言葉は出てこなかった。私たち
彼は戸惑いを隠せないまま、蓮さんを見つめていた。さっきまでの冷静さは消え、視線は揺れている。
その沈黙を破るように、知里さんが声を上げた。
「ちょっと……出雲くん、何を言ってるのよ!」
戸惑いと困惑をにじませながら、彼女は蓮さんと祐介を交互に見つめる。蓮さんは何も言わずに知里さんを見て、静かに小さく頷いた。
「祐介くん、どうして黙ってるの? 何か言ってよ。……なんで、否定しないのよ……」
知里さんの声は次第にかすれ、最後には消え入りそうになる。
祐介はゆっくりと視線を知里さんに向けた。痛みをたたえたその目が、すべての答えを物語っていた。
「……春木、先生……?」
その名を──狼狽した表情のまま、知里さんはかすれるように口にした。
祐介は観念したように姿勢を正し、まっすぐに彼女を見つめる。
「広瀬さん。……黙っていて、申し訳ありませんでした」
その声には、先ほどの謝罪とは明らかに違う、切実な思いが滲んでいた。
知里さんは硬直したように祐介を見つめる。長いまつげに縁取られた瞳が、大きく見開かれていた。
私は思わず、蓮さんに問いかけた。
「蓮さん、いつから知って……?」
だって彼は──気づいているような素振りを、これまで一度も見せたことがなかったから。
蓮さんは私に微笑みかけた。包み込むような笑顔があまりにも素敵で、こんな状況だというのに、私は思わず呼吸を忘れそうになる。
「それは、また後で。まずは、春木先生が巻き込まれた取引の件を整理しようか」
そして一歩前へと出て、祐介の前に立つ。
「春木先生。解決策について、私から一案、提示させていただいてもよろしいでしょうか」
祐介はしばらく蓮さんの目を見つめ、それから深く頭を下げた。
「……お願いします。伊吹と俺を、助けてください」
蓮さんはゆっくりと頷き、安心させるように穏やかな笑みを浮かべた。
「実は、すでに弊社の顧問弁護士に連絡を入れてあります。春木先生の作品と引き換えにオーディションを通した件は、ダークレイス側も公にはしたくないでしょうから、交渉の余地は十分にあるはずです。もちろん、すべて弁護士を通しての対応になりますから、春木先生ご自身が動かれる必要はありません」
広瀬さんが小さく身じろぎしたが、言葉は出なかった。彼女の視線は、いまだ祐介に釘付けになったままだ。信じたくないけれど、認めざるを得ない──そんな表情だった。
祐介は眉間に指を当て、少し言いにくそうに口を開く。
「実は……ちょっと投げやりになっていまして、今朝、ダークレイス社の三浦さんに電話して、言ってしまいました。『最新作は好きにしてくれて構わない』って……」
「な……なんですって!?」
それまで黙っていた知里さんが、堪えきれず声を上げた。勢いある声に、私は思わず背筋を伸ばす。──ああ、久しぶりに聞いた。強気で厳しくてまっすぐな、知里さんの、声だ。
蓮さんは軽く手を上げて彼女を制し、落ち着いた口調で祐介へと向き直る。
「そうでしたか。では、その件も含めて弁護士にご相談ください。先方も発言を記録しているでしょうし、場合によっては最新作を譲渡することになるかもしれませんが……」
ふと、蓮さんの視線が私に向けられる。
「脚本は、スタジオ・マンサニージャの安斎さんが担当されるそうですね。椿井さん、彼はあなたから脚本の基礎を学び直していると伺っています」
「えっ」と、私は思わず声を上げた。
たぶん、倉本先生がいろんなところで言いふらしているのだろうけれど──そんなことまで把握してるなんて。
心の中で「恐ろしや」とつぶやいていると、蓮さんが「続けていい?」とでも言うように、笑顔のまま首を少し
完璧なビジネスモードの隙間から覗いたその仕草が、どうしようもなく可愛らしく見えて──今すぐにでも、緩やかなくせ毛を指先でくるくるといじりたくなってしまう。
もう何度目だろう、こうやって、蓮さんに心を持っていかれるのは──ああ、私は、この人のことが好きで好きで、たまらない。
そんな私のちょっと
「安斎さんであれば、たとえ最新作がダークレイスに渡ったとしても、商業主義一辺倒の作品にはならないかもしれません。もちろん、仕上がりは安斎さんの力量次第になりますが」
その口調はあくまでも冷静で、洗練されたビジネスの語り口を崩していなかったけれど──蓮さんの言葉の奥には、会社の利益ではなく、作家としての祐介の未来を案じる思いがにじんでいた。
彼は、祐介の作品がどう扱われるかを、何よりも気にかけてくれているのだ。
祐介は目を見開き、やや戸惑いながら蓮さんを見つめた。
「出雲さん。こんなにも力を貸してくださる理由を……伺ってもいいでしょうか?」
蓮さんはふっと目を細め、小さな笑みを浮かべた。
「理由は三つあります。ひとつ目は、率直に申し上げて、他の春木作品について弊社で映像化の交渉を進めたいと考えているからです。特に広瀬は、春木先生のデビュー作の映像化を強く希望していますからね」
そう言って、蓮さんは知里さんに目を向けた。彼女は一瞬ぎこちなく視線を逸らしながらも、どこか照れくさそうに小さく頷く。──少しずつ、受け入れようとしてくれているのかもしれない。
「そしてもちろん、先生が今後執筆される作品につきましても、ぜひご一緒できればと思っております」
その一言に、祐介の目がふっと潤んだ気がした。
もう作家を辞めるしかないと覚悟していた彼にとって、「今後の作品」という言葉は、思いがけず差し出された小さな光だったのかもしれない。
それを隠すように、祐介ははっきりと頷いた。
「もちろんです。こちらで派遣として働き始めてから、ずっと御社にお願いできたらと考えていました」
「ありがとうございます」と、蓮さんは丁寧に頭を下げる。
「ふたつ目の理由は、先ほど申し上げた通りです。安斎さん──今の彼であれば、ダークレイス社の従来の商業路線とは一線を画す脚本を仕上げてくれるのではないかと期待しています。完成度の高い作品をオーディエンスとして味わえるのは、私にとっても贅沢な体験ですからね」
そう言いながら、蓮さんは私に視線を送る。──ああ、蓮さんは信じてくれている。私が航に手渡したものが、彼の中で育ち始めていることを。
祐介は少し考えるように視線を落とし、ふっと小さく笑った。嬉しさを隠しきれない、穏やかな表情だった。
「確かに、そうかもしれません。では、三つ目は?」
蓮さんは少し照れたように咳払いをし、視線をそらす。それから祐介に歩み寄って、声を落とし、そっと耳元で何かを囁いた。
蓮さんが何を言ったのかまではわからなかった。でも──祐介の目が驚きに見開かれ、すぐにふっと緩んで、温かい笑みが浮かんだ。
「……もちろんです。ありがとうございます」
祐介はまた深々と頭を下げた。今度のそれには、心からの感謝がにじんでいた。