蓮さんにお礼を伝えたあと、祐介は視線を落とし、そっと目を閉じた。
そして、ゆっくりと深く息を吸い込む。ようやく呼吸が戻った──そんな様子だった。
私は「よかったね」の気持ちを込めて、そっと彼の肩を叩いた。祐介は小さく笑い、私に頷いてから、蓮さんの方を向く。
「蓮さん、俺……エルネストEPからの映像化オファーを受けるかどうか、会社の方針や現場の空気を見極めたうえで決めたくて、派遣として入りました。結果的にこんな失礼な形になってしまって……すみませんでした」
柔らかな表情に戻った祐介が、深く頭を下げる。さっきまでの張りつめた空気は、もうすっかり消えていた。
「それから……たぶん気づいていたと思うけど、俺、最初は蓮さんのことも試していました。もし、姉ちゃんを
さっきまで自然に着こなしていたはずのスーツが、どこか借り物のように見える。まるで舞台を降りた役者が、まだ衣装だけを身にまとっているかのようだった。
「『誰かを信頼できるかどうかを知る最善の方法は、彼らを信頼してみることだ』って、ヘミングウェイは言ってたのに……俺、全然できてなかった」
蓮さんはテーブルに片手を添えたまま、ゆっくりとうなずいた。
「気にしなくていいよ。祐介くんにとって小説は大切なものだし、薫のことも……僕が、任せていい相手かどうか確かめたくなるのは、当然のことだから」
そう言って、蓮さんは腕を組んだまま祐介の顔を覗き込むように、少し首を傾ける。
「で、エルネストEPも、僕も──合格、ってことでいいかな?」
祐介は少し照れたように笑って、しっかりと頷いた。
「もちろんです。なんでも全力で協力します」
その様子を見ながら、私も胸を撫でおろした。
ふと視線を感じて顔を上げると、知里さんと目が合った。さっきのように、視線を逸らされたりはしなかった。
少しの間を置いて、彼女は伏し目がちに、かすれるような声で言った。
「薫……私、あなたにひどいことを言ったわ」
その瞳は、わずかに潤んでいた。
「あなたが、出雲くんから須賀くんに乗り換えようとしてるなんて──。ちゃんと考えれば、そんなはずないって、わかったはずなのに」
「……乗り換える?」
蓮さんが反応する。声は穏やかだったが、ほんの少し眉が動いた。……薄々気づいていたけれど、蓮さん、意外とポーカーフェイスが苦手みたいだ。
私は笑いながら「ナシよりのナシです」と言って、知里さんの腕にそっと手を添える。そして、できるだけ明るい声で言った。
「いいんです。知里さんが、どれだけ本気で春木作品を映像化したかったか……ちゃんと伝わってますから」
知里さんは私の手に自分の手を重ねて、ほんの一瞬だけ、ぎゅっと強く握る。
そして、すぐに手を離し、何事もなかったように正面を向いた。
強気で、不器用で、でも温かい──そんな知里さんが戻ってきてくれた気がして、胸に灯りがともった。
「で、出雲くんはいつから気づいていたのよ?」
知里さんが問いかけると、祐介も視線を上げ、続けて言った。
「それ、俺も知りたいです。やっぱり、マーク・トウェインの
「本の表紙に毎回こっそり入れてる、あの言葉?」
私が聞くと、祐介は頷いた。
「そう。前の会社を辞めた理由を聞かれたとき、蓮さんに話したでしょ。『二十年後に後悔したくないから、安全な港を出て、大海原を進みたかった』って」
祐介は、照れくさそうに頭をぽりぽりとかいた。
「春木と俺を結びつけたくなくて、わざと口語にしたんだよ。クオートの最後の部分──"
その瞬間、私の中に記憶がよみがえった。ダブルデートで訪れたビストロで、彼はこんなふうに言っていた。
──春木先生は、誰も気づかないような場所に、マーク・トウェインの同じ言葉を刻み続けている。それが彼にとって、特別な意味を持つ言葉なのだと思う──
……じゃあ、あの時点で、すでに気づいていたってこと?
けれど蓮さんは、やんわりと首を振った。
「いや、あのクオートはアメリカではポピュラーだからね。その時はまだ、祐介くんってロマンチストなんだな、って思ったくらいだったよ」
祐介は目を丸くして、ぽかんと蓮さんを見つめた。
「じゃあ、いつ……わかったんですか?」
「もしかしてと思ったのは、薫が、絶対に何かを知っているのにまだ話せないと言ったとき。そして確信したのは──昨日の夜だよ。僕が作った肉じゃがを食べて、薫が言ったから。『おばあちゃんとまったく同じ味』って」
そう言って、蓮さんはスーツの前をそっと開いて内ポケットに指をすべらせると、何かを取り出した。
「あ、祐介くん。きみの自家製味噌と万能だれ、大さじ1ずつ使わせてもらったからね」
祐介は、一瞬目を泳がせてから顔を上げた。そして──
「あーーーーっ!」
唐突な大声に、隣にいた私はびっくりして、思わず身をすくめた。
「まさか……蓮さん、あの記事、持ってたんですか?」
蓮さんはおかしそうに笑いながら、さっきポケットから出した紙を、丁寧に広げてみせた。