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第89話

 蓮さんにお礼を伝えたあと、祐介は視線を落とし、そっと目を閉じた。


 そして、ゆっくりと深く息を吸い込む。ようやく呼吸が戻った──そんな様子だった。


 私は「よかったね」の気持ちを込めて、そっと彼の肩を叩いた。祐介は小さく笑い、私に頷いてから、蓮さんの方を向く。


「蓮さん、俺……エルネストEPからの映像化オファーを受けるかどうか、会社の方針や現場の空気を見極めたうえで決めたくて、派遣として入りました。結果的にこんな失礼な形になってしまって……すみませんでした」


 柔らかな表情に戻った祐介が、深く頭を下げる。さっきまでの張りつめた空気は、もうすっかり消えていた。


「それから……たぶん気づいていたと思うけど、俺、最初は蓮さんのことも試していました。もし、姉ちゃんをもてあそぶような人だったらすぐに別れさせるつもりだったし、会社がどれだけ良くても、映像化の話は断るつもりでした。ごめんなさい」


 さっきまで自然に着こなしていたはずのスーツが、どこか借り物のように見える。まるで舞台を降りた役者が、まだ衣装だけを身にまとっているかのようだった。


「『誰かを信頼できるかどうかを知る最善の方法は、彼らを信頼してみることだ』って、ヘミングウェイは言ってたのに……俺、全然できてなかった」


 蓮さんはテーブルに片手を添えたまま、ゆっくりとうなずいた。


「気にしなくていいよ。祐介くんにとって小説は大切なものだし、薫のことも……僕が、任せていい相手かどうか確かめたくなるのは、当然のことだから」


 そう言って、蓮さんは腕を組んだまま祐介の顔を覗き込むように、少し首を傾ける。


「で、エルネストEPも、僕も──合格、ってことでいいかな?」


 祐介は少し照れたように笑って、しっかりと頷いた。


「もちろんです。なんでも全力で協力します」


 その様子を見ながら、私も胸を撫でおろした。


 ふと視線を感じて顔を上げると、知里さんと目が合った。さっきのように、視線を逸らされたりはしなかった。


 少しの間を置いて、彼女は伏し目がちに、かすれるような声で言った。


「薫……私、あなたにひどいことを言ったわ」


 その瞳は、わずかに潤んでいた。


「あなたが、出雲くんから須賀くんに乗り換えようとしてるなんて──。ちゃんと考えれば、そんなはずないって、わかったはずなのに」


「……乗り換える?」


 蓮さんが反応する。声は穏やかだったが、ほんの少し眉が動いた。……薄々気づいていたけれど、蓮さん、意外とポーカーフェイスが苦手みたいだ。


 私は笑いながら「ナシよりのナシです」と言って、知里さんの腕にそっと手を添える。そして、できるだけ明るい声で言った。


「いいんです。知里さんが、どれだけ本気で春木作品を映像化したかったか……ちゃんと伝わってますから」


 知里さんは私の手に自分の手を重ねて、ほんの一瞬だけ、ぎゅっと強く握る。


 そして、すぐに手を離し、何事もなかったように正面を向いた。


 強気で、不器用で、でも温かい──そんな知里さんが戻ってきてくれた気がして、胸に灯りがともった。


「で、出雲くんはいつから気づいていたのよ?」


 知里さんが問いかけると、祐介も視線を上げ、続けて言った。


「それ、俺も知りたいです。やっぱり、マーク・トウェインの引用クオートでバレちゃいました?」


「本の表紙に毎回こっそり入れてる、あの言葉?」


 私が聞くと、祐介は頷いた。


「そう。前の会社を辞めた理由を聞かれたとき、蓮さんに話したでしょ。『二十年後に後悔したくないから、安全な港を出て、大海原を進みたかった』って」


 祐介は、照れくさそうに頭をぽりぽりとかいた。


「春木と俺を結びつけたくなくて、わざと口語にしたんだよ。クオートの最後の部分──"Explore.漕ぎ出せ Dream.夢を抱け Discover.未知を拓け"──は言わなかった。だから蓮さんがその言葉を口にしたときは、正直ちょっと焦った」


 その瞬間、私の中に記憶がよみがえった。ダブルデートで訪れたビストロで、彼はこんなふうに言っていた。


──春木先生は、誰も気づかないような場所に、マーク・トウェインの同じ言葉を刻み続けている。それが彼にとって、特別な意味を持つ言葉なのだと思う──


 ……じゃあ、あの時点で、すでに気づいていたってこと?


 けれど蓮さんは、やんわりと首を振った。


「いや、あのクオートはアメリカではポピュラーだからね。その時はまだ、祐介くんってロマンチストなんだな、って思ったくらいだったよ」


 祐介は目を丸くして、ぽかんと蓮さんを見つめた。


「じゃあ、いつ……わかったんですか?」


「もしかしてと思ったのは、薫が、絶対に何かを知っているのにまだ話せないと言ったとき。そして確信したのは──昨日の夜だよ。僕が作った肉じゃがを食べて、薫が言ったから。『おばあちゃんとまったく同じ味』って」


 そう言って、蓮さんはスーツの前をそっと開いて内ポケットに指をすべらせると、何かを取り出した。


「あ、祐介くん。きみの自家製味噌と万能だれ、大さじ1ずつ使わせてもらったからね」


 祐介は、一瞬目を泳がせてから顔を上げた。そして──


「あーーーーっ!」


 唐突な大声に、隣にいた私はびっくりして、思わず身をすくめた。


「まさか……蓮さん、あの記事、持ってたんですか?」


 蓮さんはおかしそうに笑いながら、さっきポケットから出した紙を、丁寧に広げてみせた。

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