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第90話

 蓮さんがそっと広げたのは、文化系ライフスタイル誌から切り抜かれた一枚の紙だった。


『大人気連載! 作家の実家ごはん エッセイ&レシピ』


──その見出しの下には、連載の第33回として、こう書かれていた。


『春木賢一朗の実家ごはん』


 祐介は蓮さんから記事を受け取るなり、目を輝かせる。


「うわ、これ! たった三年前なのに、めっちゃ懐かしい! え、もしかして……蓮さんも春木のファンなんですか?」


 蓮さんは小さく笑って、さらりと返す。


「まあね」


「やっぱり……! やっぱり蓮さんは俺の蓮さんだったー!」


 浮かれる祐介の耳をつまんで「アイタタタ!」と言わせつつ、私は蓮さんに聞いた。


「話が見えないんだけど……どういうこと?」


「ビストロで話したの、覚えてる? 春木賢一朗がデビュー直後に、雑誌にエッセイとレシピを寄せてたって話。あのときは須賀さんの反応を見るために、わざとカレーと言ったけど、実際に載っていたのは肉じゃがのレシピだったんだ」


「見せて」


 知里さんが手を伸ばし、祐介から紙片を受け取る。私も横からのぞき込んだ。


「春木の文芸誌の記事は全部読んでたけど……ライフスタイル誌はノーチェックだったわ」


 蓮さんは穏やかにうなずいた。


「そのエッセイには、こう書いてあった。『これは祖母から受け継いだレシピだが、手順どおりに作っても「うちの味」にはならない。なぜなら、最後に加えるふたさじ──自家製味噌と万能だれ──が決め手だからだ。実家を離れて久しい今も、このレシピには子どもの頃の思い出が息づいていて、ひと口味わえば、忘れていた風景が波のように押し寄せてくる。──プルーストの小説にえがかれた、紅茶に浸したマドレーヌのように』」


 あまりにも心当たりがありすぎて、私は思わず額に手を当てた。


「……じゃあ、昨日の肉じゃがって、祐介がレシピを教えたんじゃなくて……?」


 蓮さんは満足げに微笑み、うなずいた。


「うん。この記事のレシピどおりに、分量もきっちり計って作ったよ。仕上げに使ったのは、祐介くんが持ってきた自家製味噌と万能だれ。そうしたら薫が教えてくれたんだ、『おばあちゃんとまったく同じ味』だって。しかも、プルーストのマドレーヌの話までしてね。そのとき、確信したんだ」


 少し肩をすくめながら、蓮さんは照れたように笑った。


「祐介くんが食べてくれたら、『僕はちゃんとわかってるよ』って伝えられると思ったんだけど……どうやら食べてもらえなかったみたいだね」


 祐介は両手で顔を覆い、呻いた。


「いや、無理言わないでよ蓮さん! いくら俺でも、あの状況で食欲出るわけないでしょ!」


 蓮さんはふっと思い出したように微笑んで、続けた。


「そうそう、エッセイに出てくるお姉さんの話も、あらためて面白く読ませてもらったよ。ありがとう」


 ……お姉さんの話?


 嫌な予感がして祐介のほうを見ると、彼はとぼけた顔で視線を逸らしていた。


 横から知里さんが、記事を見ながら言った。


「ああ、このくだりね。『──幼稚園の頃、僕はカレーの匂いが少しだけ苦手だったので、家では一度も出されたことがなかった。けれど、小学一年だった姉は納得がいかず、僕が寝てから毎晩こっそり枕元に来て、カレー粉の匂いを嗅がせていたらしい。無意識のうちに慣れさせるつもりだったのだろうが、僕はカレー粉の砂漠をさまよう悪夢を見るようになり、以来、カレーは完全にトラウマになってしまった』」


 知里さんは記事から顔を上げ、心底呆れたような目でこちらを見た。その隣では蓮さんが、口元を片手で押さえ、うつむいたまま肩を小さく震わせている。どうやら、笑いをこらえるのに必死らしい。


「ちょっと祐介!」


 私は勢いよく振り返り、声を上げた。


「あんた、それ書いたの⁉︎」


 祐介は肩をすくめ、悪びれる様子もなく言い放った。


「だってさ、姉ちゃんを象徴する最高のエピソードじゃん。ネタにしない方がもったいないって」


 知里さんは小さくため息をつき、首を振った。


「薫、あなた……そんなことしてたのね。でもまあ……やりかねないか」


「ち、違うんです知里さん! 私はただ、祐介にカレー嫌いを克服してもらって、うちでも普通にカレーを食べたかっただけで……!」


 そのとき、知里さんがふいに手のひらを上げて、私の言葉を制した。そして、少しだけ眉をひそめて、静かに問いかける。


「……祐介くんが春木だとしたら、須賀くんは……?」


 あ、まずい。ここで本人不在のまま伝えたら、いろいろ面倒になるかも。


 どう切り出すか迷っていると、ようやく笑いを収めた蓮さんが、目元の涙を指で拭いながら、光沢スーツの松本くんに視線を向けた。


「そのことなら、松本くんから」


「はい、ええと……広瀬さん。僕、雛野あさひ先生のピュアキュン小説の映像化をお願いしようと思って、担当編集に連絡したんです。そしたら『先生は今、館詰カンヅメ中だから直接電話してみて』と番号を教えてもらって……」


 松本くんはスマホを操作し、通話をスピーカーに切り替える。三回のコールのあと、存在感たっぷりで華やかなバリトンが会議室に響き渡った。


「──やあ、電話をくれて光栄だ。あいにく僕は今、原稿と静かに語らっている最中でね。物語を紡ぐことは、自分自身を探る旅でもある。もう少しだけこのラビリンスを──」


 やばい。私は祐介と視線を合わせた。


 通話を切ったあと、松本くんは戸惑った表情で蓮さんを振り返る。


「番号は合ってるけど……これ、本当に雛野先生ですかね?」


 私と祐介は再び顔を見合わせ、知里さんの様子をそっとうかがう。


 彼女はしばらく呆然としていたが、やがて頬を染め、視線を宙にさまよわせた。


「知里さん?」


 私が声をかけると、彼女は両手で頬を覆いながら、信じられないという顔で小さくつぶやいた。


「あの、洗練された大人の色気をまとう須賀さんが……あんな純度100%のキュンの暴力みたいな小説を綴っていたなんて……」


 え、それって……まさか。


「薫、なんだか……前よりドキドキしてきたんだけど。どうしてかしら、私……」


 私はおそるおそる問いかける。


「知里さん、それ……ギャップ萌えでは?」


 彼女は、今度こそ耳まで真っ赤になりながら、噛み締めるように言った。


「これが……ギャップ萌え……」


 その顔を見て、私は胸を撫で下ろした。


 ああ、心配いらなかったんだ。知里さんはちゃんと須賀さんに恋していた。……春木賢一朗ではなく。


「ってことは広瀬さん、もしかして、俺にもギャップ萌えしちゃってます?」


 祐介が調子に乗って割り込んできた瞬間、知里さんは一拍置いて、きっぱりと言い放った。


「むしろ逆よ。完全にギャップえね。春木作品をこれからも愛したいから、あなたが春木だってことは思い出させないでちょうだい」


「ええ⁉︎ 広瀬さん、それ、なかなか酷くないですか⁉︎」


 知里さんは静かに顎を引き、腕を組みながら言った。


「で、祐介くん。『春木』があなたの苗字の『椿』から来てるってのは分かったけど、『賢一朗』って?」


 祐介はきょとんとした顔で、当然のように答えた。


「え? 賢くて、まっすぐで、朗らかって……まんま俺じゃないっすか?」

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