玄関の鍵が開く音がした。
私は祐介と並んで、灯りを落としたリビングに腰掛けていた。スマホの灯りだけが、私たちの表情をほんのりと照らしている。
音がした瞬間、ふたりで目を合わせ、静かに頷き合った──エルネストEP社の会議室に入ったときと、まったく同じ仕草で。
だけど、今の胸の高鳴りは、あのときの緊張とは全然違う。待ち遠しくて、嬉しくて、たまらないのだ。
足音が近づき、ドアがゆっくりと開いたその瞬間、私は「
天井と壁いっぱいに、淡い雪の結晶が光となって舞い始める。同時に、祐介がタイミングよくクラッカーを鳴らした。
「メリークリスマス!」
蓮さんは一瞬目を見開き、それからほころぶような笑顔になった。
「サプライズなんて久しぶりだな。クラッカーの音も、なんだか懐かしいよ」
「数日遅れだけど、クリスマスディナー作るって約束してたからね。俺、けっこう頑張っちゃいましたよ」
祐介はそう言いながら、蓮さんのバッグとコートを預かり、席へと案内する。
「とはいえ、メニューは全部ばあちゃん直伝の和食です。時間がなくて、簡単なものばかりだけどね」
エルネストEP社の会議室で交わされた言葉は、私たちの誤解や秘密を、静かに、そして確かに溶かしてくれた。
もう何ひとつ隠し事はない。その事実が、心を軽くしてくれる。
祐介にとっても、あの時間はきっと、大きな節目になったのだろう。
帰り道、彼は足取りも軽く、「ちょっと寄り道していい?」と言ってスーパーへ向かった。そしてカゴを手に取りながら私を振り返り、人差し指を立ててこう言った。
「感謝とは、まず食卓に並べるものである」
「それ、誰の格言?」と笑いながら尋ねると、祐介は親指を自分に向け、得意げに言った。
「
久しぶりに見る、祐介のうきうきとした笑顔。なんだか私まで嬉しくなった。
そして私たちは、両手いっぱいに食材を抱えて家に戻った。祐介はおばあちゃん直伝のレシピから六品を選び、ひとつずつ丁寧に仕上げて、テーブルに並べてくれたのだった。
「おばあちゃんの味、楽しみだよ」
蓮さんが優しく微笑んで言うと、祐介は満足げに頷く。
「じゃ、俺はそろそろ伊吹のとこ行くわ。住む場所が決まったら連絡するから」
祐介がボストンバッグを肩にかけた瞬間、私と蓮さんは驚いて声をそろえた。
「え、祐介、ごはん一緒に食べようよ」
「まだ、ここにいていいんだよ?」
祐介は振り返り、人差し指を立てて「チッチッチ」と横に振る。
「二人とも、俺のこと甘やかしすぎ。もう十分お世話になったしさ、これ以上、お二人の時間を邪魔したりしないから!」
私と蓮さんは思わず視線を交わし、そして、少し照れて同時に視線を外した。
「そういうとこだよ。ほんと、仲良すぎ」
呆れたように笑う祐介に、蓮さんは思い出したように声をかけた。
「祐介くん、ちょっと待って。君に渡したいものがあるんだ」
そう言って自室に戻り、しばらくして、手のひらほどの小さな箱を持って戻ってくる。
「クリスマスプレゼントだよ」
「え、俺に? 嬉しい……ありがとうございます!」
祐介は箱を受け取ると、子どものように目を輝かせて「今、開けていい?」と尋ねる。蓮さんが頷くと、「わーい」と言って箱を開けた。
箱の中に入っていたのは──真鍮製の小さな器具だった。長い年月を経ているようで、
祐介はそれをそっと手に取り、慎重な手つきで蓋を開いた。
カチリという小さな音とともに現れたのは、クラシカルな方位針を携えた古い羅針盤。針はかすかに揺れながらも、確かに北を指している。
「……ポケットコンパスだ」
祐介がつぶやく。
「これ……たぶん19世紀から20世紀始めくらいのアンティークですよね? 実際に航海で使われてたやつ……」
「さすが、詳しいね」
「中学のとき、船乗りの話を書いてて、めちゃくちゃ調べたから」
コンパスを光にかざし、さまざまな角度から眺めながら、祐介は独り言のように言葉を続ける。
「すげぇ、このコンパス……何度も海を渡ったんだろうな。星も月も見えない夜、船乗りたちは、ただこの針を頼りに暗い海を進んでいったんだ……うっわー、想像力を掻き立てられる」
やがて顔を上げた祐介は、蓮さんをまっすぐに見た。
「蓮さん──最初に俺が蓮さんのこと聞いたとき、姉ちゃん、『優しいだけじゃなくて、さり気なく背中を押してくれるし、たまに強気で、それがまたかっこいい』って
「ちょ、祐介……何言ってんのよ!」
思わず声が上ずる。本人の前でそんなこと言うなんて……。蓮さんがちらりとこちらを見た気配はあったけれど、恥ずかしすぎて顔を向けられない。
でも祐介は、私の焦りなどお構いなしに、言葉を続けた。
「正直、それを聞いたときは、姉ちゃんの妄想か、もしくは詐欺に遭ってるか──どっちにしてもヤバいと思ってました。でも、姉ちゃんが正しかった」
そのまま、ゆっくりと頭を下げる。
「ありがとうございました」
蓮さんはその肩にそっと手を置き、顔を上げさせると、穏やかに微笑みながら両手を広げた。
「メリークリスマス、祐介くん。君の航海に、ずっと追い風が吹くと信じてるよ」
そのまま、蓮さんは祐介を抱きしめた。
祐介は一瞬驚いたようだったが、すぐにその背中に腕を回し、ぎゅっと抱きしめ返す。
「蓮さん、姉ちゃんをよろしくお願いします。……やば、クセになりそうなぬくもり……」
ハグを解いたあと、祐介は少し照れたように私を見て、わざとらしく手のひらを出してきた。
「で、姉ちゃんからのプレゼントは?」
──あ、忘れてた。
でも、ちょうどいいものを持っていたことを思い出す。
「……ちょっと待ってて!」
エディターズバッグを引き寄せ、私はゴソゴソと中を探る。目当てのものはすぐに見つかった。
封筒から中身を取り出し、もったいつけて祐介の前に差し出す。
「さあ、姉ちゃんからのクリスマスプレゼントだ。ありがたく受け取りたまえ」
祐介はそれを受け取り、すぐに目を見開いた。
「うわ、マジで? 温泉旅館のペアチケットじゃん! 姉ちゃん、いつもウェハースとか麦チョコとかしかくれないのに」
「私だってたまには太っ腹になるの。伊吹くんと行ってらっしゃい」
祐介は満面の笑みでチケットを見ていたが、裏返した瞬間、ピタリと手を止めた。
「……って、姉ちゃん、これ『ご当選品』って書いてあるけど」
「細かいこと言わない! 価値は一緒だから!」
隣の蓮さんが楽しそうに笑った。つられて、私も祐介も笑い出す。
あたたかくて、穏やかで──どこまでも、優しい夜だった。
* * *
祐介が帰っていったあと、私たちは二人きりでテーブルを囲んだ。
「洗い物は僕がやるよ」と申し出る蓮さんをソファに座らせ、今夜の片付けは私が引き受けることにする。
すべての食器を元の場所へ戻してからリビングへ戻ると、彼は静かに本を読んでいた。私はそっと、彼の背後にまわる。
そして、何も言わずに蓮さんを後ろから抱きしめた。
「どうしたの?」
彼が振り向く前に、やわらかな髪にそっとキスをする。そのまま髪に頬を埋めて、彼のぬくもりを胸に抱きしめた。
「ありがとう、蓮さん。春木先生を助けてくれて」
そして、今度は頬に唇を寄せる。
「それから……私たちを、信じてくれて」
蓮さんは体を少しひねり、まっすぐに私を見上げた。彼が下から見上げてくるのがなんだかくすぐったくて、私は彼の髪をゆっくりと撫でた。
長い指が私の胸元に伸び、ペンダントトップにそっと触れる。
「付けてくれて、ありがとう」
「これ……すごく特別なものなんでしょう? 祐介が言ってた。そんな大切なものを選んでくれて……ありがとう」
蓮さんは静かに首を振り、私の目をまっすぐに見つめた。
「ヴェスペル──西の空にひときわ輝く星、金星のことなんだ」
「金星……宵の明星ね」
蓮さんのまなざしは穏やかで、けれど揺るぎなかった。私は少し照れながらも、なんとか微笑み返す。
「そして、このブランドのコンセプトは──無数の星の中から、迷わず君を見つける」
一瞬、時間が止まった気がした。小さく吸い込んだ息が、かすかに震える。
熱を帯びた手がペンダントを離れ、私の頬にそっと触れる。指先から想いがまっすぐに伝わってきて、私は一瞬、呼吸を忘れそうになった。
蓮さんの腕が私の背中を包み、いつもより少し強く、自分の胸へと引き寄せる。
「薫……」
少しの沈黙があって、そっと言葉がこぼれた。
「……愛してる」
胸がいっぱいになって、私は目を閉じた。
返したい言葉はすぐそこにあるのに。どんなに言葉を尽くしても、この気持ちのすべては伝えきれない気がして……甘いもどかしさだけが、心に積もっていくようだった。
やがて蓮さんが、少しだけ身体を離して私を見つめた。その瞳は、静かに──けれどまっすぐに、私の答えを待っている。
口を開くのには、ほんの少しだけ、勇気が必要だった。
「……私も」
彼は私の耳元に唇を寄せ、低く囁く。
「私も、じゃなくて……薫の言葉で、ちゃんと聞かせて」
その一言で、胸の奥に押し込めていた想いが、一気にあふれ出そうになる。
私はそっと手を伸ばし、蓮さんの頬に触れた。彼はその手を取り、優しく口づける。
「蓮さん」
私を見つめるその瞳は、深く、穏やかに澄んでいて──ただ、美しいと思った。
「……気づいたときには、あなたは、私のすべてになっていました。どうしたって、蓮さんじゃなきゃダメなの」
一瞬、彼の瞳がわずかに揺れる。静けさを湛えたその眼差しの奥に、抑えきれない想いがにじんだ気がした。
次の瞬間、彼の腕が私を強く抱き寄せる。熱を帯びた息が頬をかすめ、唇が重なった。最初は触れるだけだったキスが、次第に深く、長く、息を奪うほどに激しさを増していく。
私は、彼のやわらかな髪に指を差し入れた。もっと触れたくて、もっと感じたくて──抑えきれない衝動のままに、彼を自分の方へと引き寄せる。
蓮さんの指先が肌をなぞるたび、呼吸が浅くなり、思考の輪郭が霞んでいく。体温も鼓動も、すべてが肌越しに伝わってきて、理性が静かに溶けていった。
どれほど唇を重ねても、足りなかった。どれだけ触れても、与えられても、もっともっと彼が欲しくなる。狂おしいほどの甘い渇きに抗えず、絡めとられるような熱の中で、私は何度も蓮さんの名前を呼んだ。
ぬくもりに溺れながら、ただ、彼だけを求めて。
* * *
蓮さんはいつも、最後にキスをくれる。今日もそうだった。
唇が静かに離れたあと、彼は額を私の額に重ねるように寄せて、ゆっくりと呼吸を整える。落ち着こうとしているその表情が愛おしくて、私は小さなキスを返した。
やがて、蓮さんが顔を傾け、私の耳元に唇を寄せた。
「年が明けたら……長野に行こうか」
少しかすれた声が、まだ火照った耳の奥に優しく染み込んでいく。私はゆっくりと目を開いた。
「いいね。でも……急にどうしたの?」
「祐介くんも帰省するって言ってたし。今度は──君の家族にちゃんと挨拶したい。本当の恋人として」
その言葉に、さっきまで体の奥で溶けていた甘い熱が、今度は心に広がっていく。
私は何も言わずに頷いて、蓮さんをそっと抱きしめた。
胸ごしに伝わる鼓動も、包み込むようなぬくもりも──蓮さんのすべてを、これ以上ないほど愛している。
そして思う。
もう、なにもいらない。
だって、今──世界にひとつだけの贈り物が、確かにこの腕の中にあるのだから。