1月の冷たい風が窓を叩く音を聞きながら、私はあたたかなカフェのカウンター席で、ラップトップのキーボードを叩いていた。
シナリオがちょうど一区切りついたところで、画面のカーソルが目に滲むようにかすんで見えた。集中力の限界だ。私は小さく息をついて、背筋を伸ばす。
「友記子、コーヒーもう一杯お願い」
カウンターの向こうでマグを洗っていた友記子が、手を止めてにっこり笑った。
「はーい。オリジナルブレンドでいい?」
「うん、『余白ブレンド』の方で」
ここは、友記子の姉夫婦が営むカフェ「カラルナ」。お姉さんが妊娠したのをきっかけに、友記子はスタジオ・マンサニージャでの勤務を週3回勤務に減らして、店を手伝っている。
蓮さんのテラスハウスからもほど近いので、私は彼女が店に立つ平日の午後、ここを作業場代わりに使わせてもらっていた。コワーキングスペースより落ち着くし、なにより友記子の淹れてくれるコーヒーは、とびきり美味しいのだ。
「なんか、会社にいた頃より、友記子とよく喋ってる気がする」
「確かに。こうやって過ごしていると、あの会社のブラックぶりがよくわかるよね。あーあ、もう会社に戻れなくなりそう」
冗談交じりの返事に笑いながら、私はカウンターの上で軽く腕を伸ばした。
「そうだ、友記子に相談したいことがあって。来月の蓮さんの誕生日、プレゼント何がいいと思う?」
友記子はにやりと笑って、わざとらしく肩をすくめた。
「はいはい、ごちそうさま。もうさ、自分にリボンをつけて『プレゼントはわ・た・し♡』って言っときなよ」
「……喜んでくれるかな?」
冗談のつもりだったのに、言葉にすると妙に照れてしまい、私は赤くなって視線を伏せる。
友記子は大げさにため息をついて、「やってられませんな」と呆れたように首を振った。
そのとき、ドアにつけられたカウベルが軽やかに鳴った。友記子が「いらっしゃいませ」と言ったあと、すぐに「あ、こんにちは」とトーンを変える。つられて私も振り返った。
入ってきたのは、見覚えのある、すらりとした長身の男性だった。
スモーキーブルーのロングコートに、ゆるく編まれた白ニット。淡い色の組み合わせは、まるで冬の光をまとっているかのように柔らかくて、無造作に見えて実はきちんと計算されているようだった。
さらりとした髪が額にかかる端正な顔立ち。年齢は30代前半くらいだろうか。穏やかな目元には、どこか子犬のような人懐っこさがにじんでいる。でも、まっすぐにこちらを見つめる眼差しには、静かな自信と、大人の余裕が漂っていた。
私も何度か見かけたことにある人だった。友記子の話では、彼も最近この店の常連になったばかり。私と同じような時間帯に現れては、決まってカウンター席に座り、ラップトップを開いて何かの作業をしているらしい。
今日も彼はまっすぐにカウンターへやってきて、私の隣の席を指さした。
「ここ、いいですか?」
「ええ、もちろん」
私は資料を軽く整えてスペースを空けた。彼は『余韻ブレンド』を注文し、それから私に笑いかけた。
「いつもお会いしますね。お仕事ですか?」
言葉を交わすのはこれが初めてだった。人懐っこそうな自然な笑顔に、私もつられて頬がゆるむ。
「ええ。今、コーヒーを淹れている彼女が友人で、いつも使わせてもらってるんです」
「フリーランスですか?」
「一応。まだ独立したばかりなんですけど」
彼は目元を細めて、「俺もです」と礼儀正しい笑みを浮かべた。
「はいはい、当店はナンパ禁止区域ですから」
友記子がマグカップをふたつ、カウンターに並べながら口をはさむ。彼は照れたように額をさすって苦笑した。
「そんなつもりじゃないですよ」
「冗談ですって。薫、ケーキも食べてって」
そう言って、友記子はベイクドチーズケーキのプレートを私の前に置いた。
「わ、ありがとう」
そして、友記子は彼の前にも同じ皿を置く。彼は驚いたように目を見開いた。
「俺にも?」
「よかったらどうぞ。どうせ余っちゃうし。お姉ちゃんのと同じレシピなんだけど、なぜかあんまり評判良くなくて」
友記子はちょっと困ったように首を傾げた。
一口食べた彼は、しばらく考えるように間を置いてから言った。
「美味しいです。ただ……ほんの少しだけ、火を入れすぎかも。材料は同じでも、お姉さんは焼き加減を感覚で調整してたんじゃないかな」
友記子は「あっ」と声を上げた。
「そういえば、お姉ちゃん、焼き加減が一番難しいって言ってたかも」
「酸味とコクのバランスはとてもいいと思います。でも、もし常連さんが前のを覚えていたら、少し硬く感じるかもしれませんね」
友記子はため息をついて腕を組んだ。
「そっか。お姉ちゃんに教えてもらいたいけど、今はつわりがひどくて。そろそろバレンタインのお菓子も作りたいんだけどなあ」
すると、彼がにこっと笑って言った。
「俺でよければ教えますよ。プロじゃないですけど、お菓子作り、けっこう得意なんです」
友記子は驚いたように目を見開く。それから少し眉をひそめて、ストレートに尋ねた。
「……怪しい人じゃないよね? ほら、ライバル店に乗り込んでレシピを奪い、やがては店を乗っ取り、最終的には世界征服とか──」
「違いますって。俺、こういう者です」
彼は楽しげに笑いながら名刺を差し出した。そこには「フォトグラファー 佐々木拓人」と書かれている。
「……うちの従兄弟と同じ名前だ。ひろとさん?」
彼は一瞬まばたきして、それから柔らかく微笑んだ。
「はい。みんなには『ひろ』って呼ばれてるので、よかったらそう呼んでください」
そして、ひとりケーキを味わっていた私の方へと向き直る。
「よかったら、あなたもどうですか? バレンタインのお菓子作り、教えますよ」
友記子が「それだ」と言わんばかりに私を見る。
「そうだよ、薫。蓮さんの誕生日、バレンタインでしょ? ここはもう一周回って、あえての王道に落ち着こう。バレンタイン生まれのイケメンには、もはや、チョコで攻めなくちゃ逆に失礼に当たるよ!」
「蓮さん……恋人ですか?」
ひろさんの問いに、私はちょっと赤くなって頷いた。
「今まで作ったお菓子、弟には『スパイス入れすぎでカオスな味』とか言われてるんだけど、大丈夫かな?」
ひろさんは声をあげて笑った。
「それ、最高じゃないですか。
そして唇に笑みを残したまま、彼はふと、独り言のように続けた。
「それって……秩序なんかより、ずっと面白いです」
穏やかな声はそのままなのに、彼の瞳の奥に、微かに揺れる光が見えた気がした。
「ひろさん?」
私が声をかけると、彼はすぐに、いつもの柔らかな笑顔に戻った。
「大丈夫、俺がちゃんと教えてあげるから。その彼、きっと、すごく喜びますよ」
そして、どこか確信めいた響きを含ませながら、もう一度、優しく微笑んだ。
「僕のお菓子なら──絶対に、ね」