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Season 4

第92話

 1月の冷たい風が窓を叩く音を聞きながら、私はあたたかなカフェのカウンター席で、ラップトップのキーボードを叩いていた。


 シナリオがちょうど一区切りついたところで、画面のカーソルが目に滲むようにかすんで見えた。集中力の限界だ。私は小さく息をついて、背筋を伸ばす。


 「友記子、コーヒーもう一杯お願い」


 カウンターの向こうでマグを洗っていた友記子が、手を止めてにっこり笑った。


「はーい。オリジナルブレンドでいい?」


「うん、『余白ブレンド』の方で」


 ここは、友記子の姉夫婦が営むカフェ「カラルナ」。お姉さんが妊娠したのをきっかけに、友記子はスタジオ・マンサニージャでの勤務を週3回勤務に減らして、店を手伝っている。


 蓮さんのテラスハウスからもほど近いので、私は彼女が店に立つ平日の午後、ここを作業場代わりに使わせてもらっていた。コワーキングスペースより落ち着くし、なにより友記子の淹れてくれるコーヒーは、とびきり美味しいのだ。


「なんか、会社にいた頃より、友記子とよく喋ってる気がする」


「確かに。こうやって過ごしていると、あの会社のブラックぶりがよくわかるよね。あーあ、もう会社に戻れなくなりそう」


 冗談交じりの返事に笑いながら、私はカウンターの上で軽く腕を伸ばした。


「そうだ、友記子に相談したいことがあって。来月の蓮さんの誕生日、プレゼント何がいいと思う?」


 友記子はにやりと笑って、わざとらしく肩をすくめた。


「はいはい、ごちそうさま。もうさ、自分にリボンをつけて『プレゼントはわ・た・し♡』って言っときなよ」


「……喜んでくれるかな?」


 冗談のつもりだったのに、言葉にすると妙に照れてしまい、私は赤くなって視線を伏せる。


 友記子は大げさにため息をついて、「やってられませんな」と呆れたように首を振った。


 そのとき、ドアにつけられたカウベルが軽やかに鳴った。友記子が「いらっしゃいませ」と言ったあと、すぐに「あ、こんにちは」とトーンを変える。つられて私も振り返った。


 入ってきたのは、見覚えのある、すらりとした長身の男性だった。


 スモーキーブルーのロングコートに、ゆるく編まれた白ニット。淡い色の組み合わせは、まるで冬の光をまとっているかのように柔らかくて、無造作に見えて実はきちんと計算されているようだった。


 さらりとした髪が額にかかる端正な顔立ち。年齢は30代前半くらいだろうか。穏やかな目元には、どこか子犬のような人懐っこさがにじんでいる。でも、まっすぐにこちらを見つめる眼差しには、静かな自信と、大人の余裕が漂っていた。


 私も何度か見かけたことにある人だった。友記子の話では、彼も最近この店の常連になったばかり。私と同じような時間帯に現れては、決まってカウンター席に座り、ラップトップを開いて何かの作業をしているらしい。


 今日も彼はまっすぐにカウンターへやってきて、私の隣の席を指さした。


「ここ、いいですか?」


「ええ、もちろん」


 私は資料を軽く整えてスペースを空けた。彼は『余韻ブレンド』を注文し、それから私に笑いかけた。


「いつもお会いしますね。お仕事ですか?」


 言葉を交わすのはこれが初めてだった。人懐っこそうな自然な笑顔に、私もつられて頬がゆるむ。


「ええ。今、コーヒーを淹れている彼女が友人で、いつも使わせてもらってるんです」


「フリーランスですか?」


「一応。まだ独立したばかりなんですけど」


 彼は目元を細めて、「俺もです」と礼儀正しい笑みを浮かべた。


「はいはい、当店はナンパ禁止区域ですから」


 友記子がマグカップをふたつ、カウンターに並べながら口をはさむ。彼は照れたように額をさすって苦笑した。


「そんなつもりじゃないですよ」


「冗談ですって。薫、ケーキも食べてって」


 そう言って、友記子はベイクドチーズケーキのプレートを私の前に置いた。


「わ、ありがとう」


 そして、友記子は彼の前にも同じ皿を置く。彼は驚いたように目を見開いた。


「俺にも?」


「よかったらどうぞ。どうせ余っちゃうし。お姉ちゃんのと同じレシピなんだけど、なぜかあんまり評判良くなくて」


 友記子はちょっと困ったように首を傾げた。


 一口食べた彼は、しばらく考えるように間を置いてから言った。


「美味しいです。ただ……ほんの少しだけ、火を入れすぎかも。材料は同じでも、お姉さんは焼き加減を感覚で調整してたんじゃないかな」


 友記子は「あっ」と声を上げた。


「そういえば、お姉ちゃん、焼き加減が一番難しいって言ってたかも」


「酸味とコクのバランスはとてもいいと思います。でも、もし常連さんが前のを覚えていたら、少し硬く感じるかもしれませんね」


 友記子はため息をついて腕を組んだ。


「そっか。お姉ちゃんに教えてもらいたいけど、今はつわりがひどくて。そろそろバレンタインのお菓子も作りたいんだけどなあ」


 すると、彼がにこっと笑って言った。


「俺でよければ教えますよ。プロじゃないですけど、お菓子作り、けっこう得意なんです」


 友記子は驚いたように目を見開く。それから少し眉をひそめて、ストレートに尋ねた。


「……怪しい人じゃないよね? ほら、ライバル店に乗り込んでレシピを奪い、やがては店を乗っ取り、最終的には世界征服とか──」


「違いますって。俺、こういう者です」


 彼は楽しげに笑いながら名刺を差し出した。そこには「フォトグラファー 佐々木拓人」と書かれている。


「……うちの従兄弟と同じ名前だ。ひろとさん?」


 彼は一瞬まばたきして、それから柔らかく微笑んだ。


「はい。みんなには『ひろ』って呼ばれてるので、よかったらそう呼んでください」


 そして、ひとりケーキを味わっていた私の方へと向き直る。


「よかったら、あなたもどうですか? バレンタインのお菓子作り、教えますよ」


 友記子が「それだ」と言わんばかりに私を見る。


「そうだよ、薫。蓮さんの誕生日、バレンタインでしょ? ここはもう一周回って、あえての王道に落ち着こう。バレンタイン生まれのイケメンには、もはや、チョコで攻めなくちゃ逆に失礼に当たるよ!」


「蓮さん……恋人ですか?」


 ひろさんの問いに、私はちょっと赤くなって頷いた。


「今まで作ったお菓子、弟には『スパイス入れすぎでカオスな味』とか言われてるんだけど、大丈夫かな?」


 ひろさんは声をあげて笑った。


「それ、最高じゃないですか。混沌カオスから生まれる味なんて、もうアートの域ですよ」


 そして唇に笑みを残したまま、彼はふと、独り言のように続けた。


「それって……秩序なんかより、ずっと面白いです」


 穏やかな声はそのままなのに、彼の瞳の奥に、微かに揺れる光が見えた気がした。


「ひろさん?」


 私が声をかけると、彼はすぐに、いつもの柔らかな笑顔に戻った。


「大丈夫、俺がちゃんと教えてあげるから。その彼、きっと、すごく喜びますよ」


 そして、どこか確信めいた響きを含ませながら、もう一度、優しく微笑んだ。


「僕のお菓子なら──絶対に、ね」


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