目次
ブックマーク
応援する
5
コメント
シェア
通報

第94話

 その土曜の朝、私と蓮さんはV・Wヴィー・ダブラビット号で長野へ向かっていた。


 窓の外の景色を眺めるふりをしながら、私はときどきハンドルを握る彼の横顔を盗み見て、そのたびに、胸が少しだけ高鳴った。


 いつもの穏やかな雰囲気はそのままなのに、今日はどこかシャープで──静かな男らしさが、ひときわ際立って見えたから。


 その理由は、わかっている。服のせいだ。


 私は、彼にばれないように小さく笑いながら、さっきまでのやり取りを思い返していた。




 出発前。私が服を選んでいるとき、珍しく蓮さんが口を挟んできた。


「さっき、長野にいる祐介くんから聞いたんだけど……今日は放射冷却でかなり冷えるらしいから、一番暖かい服を着た方がいいって」


「なに言ってるの、蓮さん。私だって祐介と同じくらい、雪国育ちだよ?」


 私は笑いながらそう返して、ついでに付け加える。


「長野の冬は、ほとんど車移動だからね。外に出るのなんて、せいぜい近所の散歩くらいだし、コートさえあれば十分だよ」


 けれど蓮さんは、少し逡巡したあとで、もう一度静かに聞いた。


「そのコートより、もっと暖かいのはある?」


「あるにはあるけど……アウトドア用のだよ? スノーシューのときに着るやつとか」


「それだ。今日はそれを着ていこう」


 なぜそんなにこだわるのか、正直ちょっと不思議だった。


 まさか、誰も通らない雪道でスタックして、朝まで取り残される可能性とか考えてる……?


 いやいや、いくらなんでもそこまで田舎じゃないし。万が一そうなっても、小一時間も待てば誰か助けてくれるはず。


 冗談めかしてそう言おうと、振り返ったその瞬間。ちょうどフリースのベストを羽織る蓮さんの姿が目に入って、私は思わず動きを止めた。


 ──え、誰?


 淡いオートミール色のジップシャツに、ミディアムグレーのアウトドアベスト。マットな黒のアルパインパンツが、長い脚をすっきりと引き立てている。


 派手さはないのに、色も質感も、彼のまとう空気にしっくりと馴染んでいて──いつもより少しラフな色気がにじんで見えた。まるで、アウトドアブランドの冬カタログから抜け出してきたみたいだ。


「どうしたの?」


 私が、言葉を失って彼を見ていたのを察したのか、蓮さんが首をかしげて問いかける。私は慌てて何か言おうと口を開き、思わず本音が出てしまった。


「……素敵すぎて、フリーズしてました」


 蓮さんは、一瞬きょとんとした顔をしたあと、少し赤くなって首に手をやった。


「──今日のこの感じ、ちゃんと覚えておきたいな」


「え?」


 思わず首を傾げて聞き返すと、蓮さんはそれ以上何も言わずに、車の鍵を手に取った。


「さ、行こっか。暗くなる前に着きたいし」


 その声はいつものように穏やかで、でもどこか──静かな熱を帯びているようだった。



* * *



 準備を終え、私は車の助手席に滑り込んだ。蓮さんは「忘れ物ないね?」と確認してから、静かに車を発進させる。


 言われたとおり、アウトドア仕様の服を選んだ。


 オフホワイトのハイネックシャツに、フォレストグリーンのマウンテンパーカ。下は細身のカーゴパンツで、防水のミッドカットブーツを履いている。


 蓮さんと違って、雑誌のアウトドアデート特集に出られるほど洗練されてるわけじゃないけれど、動きやすくて、ちゃんと暖かい服装だ。


 1泊2日で実家に行くだけ。それでも、こうやって雪国に向かう気分を少しだけ盛り上げてみるのも、たまには悪くないかも。


 浮き立つ気持ちを落ち着かせようと、私は姿勢を直しながらシートに収まり直す。そんな私を見て、蓮さんが柔らかく笑った。


「ふたりで出かけるの、久しぶりだね」


「うん。また一緒に長野に行けるなんて、嬉しい」


 ──しかも、今回は本当の恋人として。


 にやけそうになる口元をごまかすように、私は話題を変えた。


「今回は車でよかったの? 送り迎えなら祐介に頼めたのに」


「うん、車のがいいんだ」


 それじゃ、帰ったら洗車しないと──そう言おうとして彼の横顔を見た瞬間、なぜか、つい最近聞いた言葉が記憶から浮かび上がってきた。


「……蓮さん、ドライスノーって、知ってる?」


「知ってるよ。ロッキー山脈とか北海道とかで降る、さらさらの雪だよね」


 蓮さんがそう答えた瞬間、湖に小石を落としたように、胸の奥に小さな波紋が広がった。


 ──なんでだろう。


 あの日、カフェの帰り道でひろさんが話していたことを、どうして今、こんなふうに思い出したんだろう。


「ドライスノーがどうかしたの?」


 蓮さんの声に、はっと我に返る。


「──この前ね、友記子のカフェで、写真家の人と友達になったの。モンタナで雪景色を撮ったことがあるらしくて、湿度が低いから雪がさらさらで……音まで吸い込まれるみたいに静かに降り積もるって聞いて。すごくきれいな景色なんだろうなって、思ったの」


「へえ、そうなんだ」


 視線を前に向けたまま、蓮さんは静かに相づちを打つ。そして少しの沈黙のあと、ぽつりと尋ねた。


「……男性?」


 一瞬だけ言葉に詰まり、私は慌てて答えた。


「そうだけど、何かあるわけじゃないからね。私が雪国出身って言ったから、ひろさんは雪の話を……」


 蓮さんは、ふっと笑って言った。


「ひろさん、っていうんだ」


 ──なんだか、少しだけ引っかかる言い方だった。

 私が困ったように視線を落とすと、蓮さんはハンドルに目を向けたまま、声を低くした。


「ごめん、変な言い方だったね。でも……雪の話を、そんなふうに話す人なんだなって思って。薫の心に残るくらいに」


 私は黙って彼の横顔を見た。


「……ちょっと、羨ましい、かな」


 胸の奥が、きゅっと甘く軋んだ。


 蓮さんは、わずかに口元を緩めて言葉を継いだ。


「変な意味で言ったんじゃないよ。ただ……コールドスモークの話、なんだか大切そうにしてたから。ほんのちょっとだけ、ね」


「コールドスモーク?」


「ああ、ドライスノーと同じ。細かくて軽いから、滑ると煙か白い霧みたいに雪が舞い上がるんだ。子どものころ、よくモンタナのスキー場に家族で行ってたから」


 彼はさらっと言ったけれど、「子どものころモンタナでスキー」なんて、私にはまるで別世界の話だ。


 蓮さんが格式のある家で育った人だってことは、ちゃんとわかってる。でも、普段の彼は控えめで、下手すると私や祐介よりもずっと地に足のついた人だから、ついそのことを忘れてしまう。


 ──それでも今、ほんの一瞬だけ、蓮さんが遠い人に思えた。


 けれど蓮さんは、それを「自分の言い方に含みがあったせいで、私が気まずくなった」と受け取ったらしい。次に出てきた言葉は、少しズレていて、でも暖かかった。


「薫は、誰とでも自然に距離を縮められる人だって、ちゃんとわかってる。だから、本当に気にしてないよ。僕の言い方がよくなかった。ごめん」


 優しさをそのまま差し出したような言葉に、思わず笑顔になる。だから、思ったことを素直に伝えた。


「私が好きなのは、蓮さんだけだよ」


 一瞬だけ、彼がこちらに視線を向ける。それから、そっと頷いた。


「……うん」


 もともとほんの少し上向きの彼の口角が、嬉しさを隠しきれず、さらにやわらかく持ち上がる。


 以前の私なら、「いやいや、どう考えてもそれは気のせい。現実を妄想で彩るのはそろそろやめよう」なんて、自分にツッコミを入れてたと思う。


 でも今は、彼がくれる想いを、そのまま信じていいと思えている。


 そんなふうに、私を少しずつ変えてくれた蓮さんに、ただ、ありがとうって言いたくなった。


 窓の向こう側には、雪が舞い始めていた。蓮さんがつぶやく。


「今日は、雪にならないといいんだけど」


「天気予報だと、うちの辺りは快晴みたいだよ」


「そうだといいな……空の感じがちょっと怪しいけど、まだ長野にも入ってないしね」


 そう言って蓮さんは、前方の空を見上げた。


「雪が降る前って、空の色が変わるよね」


 その瞬間、ふいに記憶が揺れた。


 ──この間、まったく同じ言葉を聞いた。


 思わず、蓮さんの横顔を見る。その瞬間、見慣れた横顔が、別の誰かと重なって見えた。


 戸惑いが、胸を締め付ける。


 ──私が好きなのは蓮さんだけ。


 ひろさんを思い出しても、ときめくわけじゃないし、会いたいなんて思わない。


 それでも──蓮さんを見た瞬間に、ふいに別の人の影が重なってしまったというその事実だけが、小さな棘のように胸に刺さった。


「どうしたの?」


 蓮さんが問いかける。


「……ううん、何でもない」


 そう答えるしかなかったのは──自分の中に芽生えた違和感の正体が、まだわからなかったから。


 どう受け止めればいいのか、その答えを、私はまだ持てずにいた。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?