「カラルナ」の新しいスイーツメニューについて、友記子とひろさんと話し込んでいたら、いつの間にか外はすっかり暗くなっていた。
時計を見ると、すでに18時を回っている。
「わ、もうこんな時間」
私は慌ててラップトップを閉じて、バッグから財布を取り出した。
「友記子、ごちそうさま。コーヒーもケーキも、すっごく美味しかった」
そう言って、レジ横に置かれた真鍮のキャッシュトレイに代金を置く。
「週末は長野に帰るから、また来週来るね」
お釣りを手渡しながら、友記子がいたずらっぽくにやりと笑う。
「はいはい、蓮さん、二度目の実家ご挨拶ね。で、帰ってきたら苗字変わってたりするわけ?」
「そんなこと……あるわけないじゃん」
言い切ったつもりだったのに、照れくささが圧勝して、語尾は情けないほどか細くなってしまった。
カウンター越しの友記子が、あきれ顔でため息をつく。
「ああもう、冗談に赤くならないでよ。こっちが恥ずかしくなるわ」
私たちのやりとりを見ながら、ひろさんもマフラーを巻き直して立ち上がった。
「僕もそろそろ帰ります。それじゃ、友記子さん。週末にまた、チーズケーキの焼き方教えに来ますね」
ドアを開けた途端、冷たい空気が一気に流れ込んできた。見上げた空は群青色に沈み、雲が重たく垂れ込めている。
──雪の気配だ。
私はそっと目を閉じて、冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
子どもの頃から、こうして雪の気配を感じるのが好きだった。
澄んだ匂いと、触れたら壊れてしまいそうな張り詰めた空気──今日みたいな日は、ほんの少しだけ切ない気持ちと一緒に、それを思い出す。
「駅まで? よかったら一緒に行きましょう」
ひろさんがにっこり笑って言った。断る理由もなかったので、私は「はい」と頷き、並んで歩き出す。
「さっき、彼氏へのプレゼントにケーキを焼きたいって言ってたよね? ええと……蓮さん、だっけ?」
「ええ、バレンタインが誕生日なんです」
ひろさんは「そうなんだ」と頷き、やわらかく笑った。
目元がほどけて、端正な顔に優しげな温度が灯る。──ああ、やっぱりハンサムな人だな。
「でも、バレンタイン生まれにチョコレートのケーキって、ちょっとベタすぎるかなとも思ってるんです。ほら、クリスマス生まれの人に、ブッシュ・ド・ノエルをプレゼントするみたいじゃないですか?」
「敬語、使わなくていいよ」
そう言って、ひろさんは目元をさらに柔らかくした。
「そんなことないと思う。だって、お菓子作り初心者の君が、ガレット・デ・ロワ・ショコラに挑戦するんでしょ? それだけで、気持ちはちゃんと伝わる。絶対、大喜びするよ」
彼の言葉を聞いているうちに、蓮さんが喜ぶ顔が浮かんできて、自然と私も笑顔になった。
ひろさんには、人の心をほどいて、わくわくさせる何かがあるのかもしれない。
「じゃあ、頑張ってみようかな」
「それがいい。君みたいに、誰かを喜ばせたいって思ってる人って、すごく素敵だと思う。……あ、なんか変な言い方だったかな」
そう言って、ひろさんは照れ隠しのように髪に手をやった。落ち着いた大人の雰囲気の中に、ふと人懐っこい少年の面影がのぞく。
どこか無防備で、肩の力の抜けたその仕草に、つい目が引き寄せられた。──きっとこの人は、ただ自然体でいるだけで、周りの人を惹きつけてしまうんだろうな。
「ううん。ありがとう」
私がそう返すと、ひろさんは口元にかすかな笑みを浮かべて目を細めた。
「彼の話をしてるときの薫ちゃん、すごく嬉しそうだからさ。……なんか、見ていて、ちょっと羨ましくなるくらいだよ」
信号が変わり、私たちは横断歩道を渡った。イルミネーションが灯った街路樹の下を、人々が寒さに肩をすくめながら通り過ぎていく。
「……なんか、降りそうだね。雪」
ひろさんが空を見上げてつぶやいた。私も同じように見上げると、低く張った雲が、空を深い群青色に染めていた。
その気配に目を凝らしながら、私は口を開く。
「うん、これは……降るっていうか、雪が舞うかも」
「空を見てわかるの?」
ひろさんの問いに、私は少し笑って肩をすくめた。
「雪国育ちだから。空気の匂いとか、雲の厚さとかで……なんとなくだけどね」
ひろさんは目を細めて、「へえ」と感心したように頷く。
「たしかに、雪が降る前って空の色が変わるよね。あと、雪が降ると、音を吸い込んでしまうような気がする」
「あ、それわかる。子どものころ、大雪の日は、世界が息をひそめてるような気がして、ちょっと怖かったの」
ひろさんは、少し遠くを見ながら口を開いた。
「このあいだまで、モンタナの山奥で撮影していたんだ。水分が少ないドライスノーが降る土地でね、雪は静かで、まっすぐに地面に降り積もるみたいだった」
それから私の顔を覗き込んで、少しおどけたように続ける。
「東京の雪は、なんていうか、もうちょっと浮ついてる気がするね。着地できてもできなくても、どっちでもいいやって顔をしている」
例えがあまりに絶妙で、私は少し笑ってしまった。
「面白いね、その表現。でも、なんか納得した」
ひろさんも、少し照れたように笑う。
「フォトグラファーって仕事柄かな。シャッターを切るたび、その場の空気ごと閉じ込めたいって、いつも思ってるんだ。だから、空気の質感とか音の動きとかに敏感になるのかもしれない」
私はふと、並んで歩く彼の横顔を盗み見る。
淡い街灯に照らされた、穏やかで端正な顔立ち。その輪郭には、彼がこれまでレンズ越しに出会ってきた風景の記憶が溶け込んでいるような気がした。
急にひろさんがこちらを向いて、まっすぐに向けられたそのまなざしが、私の目をとらえる。
「薫ちゃんって、俺と感覚が似てると思うんだ」
「……そうかな」
思わず笑いながら返したけれど、不思議とその言葉はすっと胸に入ってきた。ひろさんの言っていることが、なんとなくわかる気がする。
彼は少し視線を遠くに向けて、穏やかな声で続けた。
「同じ景色を見てても、感じることって人によって違う。でも薫ちゃんは──俺と同じ景色を、心に映してる気がするんだよね」
──その瞬間、彼の瞳の奥に、一瞬だけ何かが光った気がした。
言葉にできない何かがふいに心に触れて、私はほんの少しだけ戸惑いを覚えた。
地下鉄駅の入り口が見えたところで、ひろさんが立ち止まる。
「じゃあ、俺はこっちだから。長野、気をつけて行ってきて」
そう言った彼は、もうすっかり、さっきまでの人懐っこい雰囲気に戻っていた。
「うん。ありがとう」
彼は片手を軽く挙げて、改札の奥へと姿を消した。私はしばらくその背中を見送ってから、ゆっくりと踵を返す。
胸の奥に、じんわりとした温かさが灯る。だけどそのすぐあとで、小さな波がそっと心を揺らした。
ひろさんの横顔を思い返す。やわらかく笑う表情、言葉の選び方、ふとした所作、沈黙の間合い──
どこか……似ている気がした。
私は、彼の瞳の奥に一瞬だけ見えたものを思い出そうとした。
優しさとも、親しみとも、もちろん好意とも違う、何か。──けれどそれが何だったのか、まだうまく言葉にできなかった。
* * *
「ただいま」
声をかけると、キッチンにいた蓮さんが振り返り、優しい笑みを浮かべた。
白いシャツにいつものカーキ色のエプロン。一見なんてことのないその姿が、かえって彼を誰よりも特別に見せてくれる。
「おかえり。今日はね、すごくいい愛媛のレモンを見つけたんだ。フェンネルも入れて、真鯛のレモン鍋にしてみたよ」
私はそっと彼に歩み寄って、緩やかにカーブを描く髪に指を伸ばす。そして、やわらかな髪の感触をたどるように、絡めた指先をそっと滑らせた。
蓮さんは鍋の火を止めて、私の手を優しく握る。
「どうしたの? 帰ってきてすぐに甘えるなんて、珍しいね」
その瞳は、深くてまっすぐで、何もかもを包み込んでくれるみたいだった。
──こうして見ると、まったく違う。
どうしてあのとき、少しでも似ているなんて思ったんだろう。
「……ごめん、なんでもない。食器、出すね」
離れかけた手を、蓮さんがそっと引き止める。
そしてもう一方の手を、私の背中にまわした。そのままためらいのない確かさで、ゆっくりと私を抱き寄せる。
「薫、どうしたの?」
胸が高鳴り、顔が熱くなる。私はそれをごまかすように、彼の胸を軽く押した。
「──今日ね、蓮さんに、ちょっとだけ似てるなって思った人がいたの」
「そうなんだ」
彼はそのまま、私の額にそっと自分の額を重ねる。鼻先が触れそうな距離に、私の心臓は落ち着きを失った。
「でも、違った。──蓮さんはただひとりの人なんだって、改めて思ったの」
言い終えた瞬間、柔らかく唇が重なった。
胸に添えていた手から力が抜けて、私は自然と、彼の首に腕をまわす。
角度を変えながら、キスは少しずつ深くなっていく。胸の奥に広がる熱が、私の呼吸を浅くしていった。
蓮さんが望むままに、私はそのキスに応えた。──それが私自身の望みでもあると、ちゃんと伝わって欲しいと思いながら。
「──お腹、すいてる?」
名残惜しそうに唇を離した蓮さんが、わずかに息を乱しながら言った。
その視線に込められた想いが、言葉以上にまっすぐに伝わってきて、私は少し照れ笑いしながら答えた。
「大丈夫だよ。でも……とりあえず、お風呂入りたいかな」
蓮さんは静かに私の耳元に顔を寄せ、耳たぶをそっと甘く噛んだ。熱を帯びた吐息が首筋を撫でて、思わず体が震えそうになる。
「──じゃあ、先に入ろうか」
切ないほどの愛おしさが、胸に満ちていく。
私は答える代わりに、彼の首に回した手でうなじを引き寄せ、そのまま、自分からそっと唇を重ねた。ぬくもりと鼓動が、ゆっくりと重なっていく。
この人と過ごす時間が、どれほどかけがえのないものなのか──
その想いを胸に刻みながら、私はそっと目を閉じた。