私が亮くんと話している間、蓮さんはひとり、夜空を見上げていた。
その背中は、どこか儚く見えた。だから亮くんが去ったあと、私はそっと彼の隣に立ち、同じように空を仰いでみた。
──まるで、透き通るビロードに、星のかけらをそっと散りばめたかのような夜空だった。
私たちの吐く息は白くほどけて、凍てついた空気にゆっくりと溶けていく。その音さえ聞こえてきそうなほどの、深い静けさ。
そのなかで、蓮さんとふたり並んで立っていることにふと気づいた瞬間、胸の奥がきゅっと切なくなった。
ああ、どうしたんだろう。なんだか、センチメンタルな気分に飲み込まれそうになってる。
落ち着こうとして、冷たい空気をゆっくりと吸い込んでから口を開いた。
「……すごい星空、だね」
「本当だね──こんなに見えるんだって、びっくりしてる」
星明かりが、蓮さんの髪の輪郭をやわらかな銀色に縁取っている。星がこんなにも明るく眩しいものだったことを、私は、本当に久しぶりに思い出していた。
「まるで、宇宙の入り口にいるみたい。……あ、そっか。『まるで』じゃなくて、ここは本当に宇宙の入り口なんだね」
そう言って蓮さんに顔を向けると、彼も同じようにこちらを向いた。
目が合った瞬間、ふいに、忘れていた記憶がよみがえった。
──そうだ、思い出した。初めて出会ったあの日、私はこの瞳を見て、まるで宇宙みたいって思ったんだ。
静かで、神秘的で、果てしなくて。取り込まれたら、もう二度と抜け出せなくなりそうなほど──深く、美しい瞳。
「亮くんと、話は終わった?」
蓮さんが、そっと私の顔を覗き込んで聞いた。穏やかな声は、足元を照らすキャンドルライトのように、私の心のやわらかな部分に優しく触れた。
「うん」
私はそれだけ答えて、もう一度、降るような星空を見上げた。──蓮さんがそれ以上何も聞かないこと、そして、それが彼の優しさであることを、私はちゃんと分かっていた。
「でも……びっくりしたよ。これ、誰が考えてくれたの?」
私が聞くと、蓮さんは少しだけ気まずそうに微笑む。
「……うちの会議室で、祐介くんに聞かれたこと、覚えてる? なぜ、春木賢一朗に力を貸すのか──僕が3つの理由を挙げたときのこと」
私は頷いた。そうだ、3つ目の理由だけは、彼が祐介に耳打ちしていたから、私には聞こえなかったんだ。
「もしかして、祐介に、星がきれいに見える場所を聞いてくれたの?」
「……祐介くんに、協力して欲しいって頼んだんだ。まさか、こんなに大ごとになっているとは思ってなかったけどね」
少しだけ照れくさそうに笑いながら、蓮さんは言った。
「──でも、薫の友だちが手伝ってくれて……僕も、すごく嬉しかったよ」
少しだけ目を細めて、蓮さんは私の手を取った。手袋越しでも、彼の体温が伝わってくるようだった。
「今日という日を──ちゃんと形にしたかったんだ。何年経っても、思い出せるように」
そう言って、彼は一歩、私の前へと踏み出した。
私の視界から星空が消えて、代わりに、愛しい人でいっぱいになる。
その瞬間、胸の中で、何かがそっとほどけていくのを感じた。
私はきっと──出会うずっと前から、この人を探し続けていたんだ。
そして、気づいたときには、ちゃんとこの人のもとに辿り着いていた。
それが小さな奇跡のように思えて、心が震える。
目の前にいるこの人を、抱きしめたくてたまらなくなって、手を伸ばしかけた瞬間──蓮さんは私をまっすぐ見つめたまま、静かに雪の上に片膝をついた。
時間が止まったみたいだった。息をすることさえ忘れて、私はただ彼を見ていた。
「蓮さん……」
彼はそっと手袋を外し、ポケットに手を差し入れる。そして取り出されたのは、控えめな星の刻印が光る、深い紺のベルベットの小箱だった。
それを私の前に差し出し、ゆっくりと蓋を開ける。
現れたのは──星のような澄んだ光を宿した、小さなダイヤのリング。
その透明な輝きに、私は息をのんだ。
「君が見上げる空を、僕も一緒に見ていたい。だから……これからもずっと、君の隣に、僕を置いてくれませんか」
その言葉は、まっすぐに私の心に届いて、あたたかな波紋のように広がっていく。
夢みたいに美しい瞬間。なのに、風の冷たさも、彼の少し緊張したまなざしも──すべてが、紛れもない現実を照らしていた。
私は、何も言えないまま、ただ蓮さんを見つめる。
鼻の奥がつんと痛んだのは、寒さのせいだけじゃなかった。
「──ありがとう」
たった一言なのに、声にするだけで喉が詰まりそうになる。
私はそっとまぶたを閉じて、こみあげてくる想いを静かに抱きしめた。
決心なんて、必要なかった。
──蓮さんのいない未来なんて、もう想像できない。
私は深く息を吸い込み、ゆっくりと目を開ける。そして手袋を外し、震える指先で、そっと彼の頬に触れた。
「……ずっと、私の隣にいてください」
その言葉に、蓮さんの瞳が揺れた。まるで星が瞬くみたいに、静かに、優しく──
そして、端正な顔に、ゆっくりと微笑みが咲いていった。
どこまでも穏やかで、あたたかい笑顔。
見慣れているはずなのに、胸がまた高鳴る。
彼は立ち上がり、ケースからリングをそっと取り出した。そして、私の左手を取って、少し冷えた指先を包み込むように温めてくれた。
「……いいかな?」
その問いに、私はうなずく。
まるで壊れものを扱うように、蓮さんの指先が、私の薬指にそっと触れる。
リングが、ゆっくりと指を滑っていく。星のひと粒を閉じ込めたようなきらめきが、私の手の上で小さく震えた。
「これって、H.ヴェスペルの……?」
ベルベットのケースに刻まれた小さな星の刻印を見つけて、私は蓮さんに尋ねた。
「このあいだ、クリスマスにもらったばかりなのに──」
蓮さんは微笑んで、秘密を打ち明けるように小さく言った。
「実はね、久世遥──はるちゃんは、僕の幼馴染なんだ。薫のイメージを伝えて、作ってもらったんだよ」
私はびっくりして、思わず蓮さんの顔を見つめる。
「……そんな、特別なものを……私が受け取って、本当にいいの?」
「君と僕の名前が、ちゃんと刻まれてる。君が受け取ってくれなければ、このリングの居場所は、世界中のどこにもなくなってしまう」
そう言って、蓮さんは私の手をそっと取り、リングの上から指に優しく口付けた。
──このあいだ、雑誌で見かけた久世遥さんの記事。その横に載っていた彼女の美しいポートレート写真が、ふいに思い出された。
蓮さんのキスを受けたリングに、ちょっとだけ嫉妬したことは……蓮さんには内緒にしておこう。
それから、私たちはかまくらの中に入った。
明日香ちゃんが用意してくれた風呂敷包みを広げると、行楽用のお弁当箱の中には、お稲荷さんがまるで積み木のギフトみたいに、きっちりと美しく詰められていた。
普段はわりとアバウトなのに、お稲荷さんだけは几帳面に詰めたがるところ、ほんとに変わらないな。
私は含み笑いを浮かべながら、お箸を探す。
「……って、あれ? お箸がない」
さすが明日香ちゃん。期待を裏切らず、肝心なところはやっぱり抜けている。私はちょっとだけ笑ってしまった。
「お手拭きは持ってきてるから、手で食べようか」
そう言って、私は自分の分を1枚引き出してから、蓮さんにウェットティッシュを差し出した。
「あれ、もう入ってないよ」
「あ、ごめん。これが最後の一枚だったみたい」
少しだけ申し訳なく思いながらも、私はふと、あることを思いついた。
──ボートに乗ることと、手をつないで散歩すること。それに継ぐ、『恋人ができたらいつかやってみたかったこと』第3弾が残ってた!
「蓮さん。はい、あーんして」
蓮さんは目を見開いて、ちょっと驚いたように私を見た。
「……僕が?」
「やってみたかったの。だめ?」
くすぐったそうに目を伏せながら、蓮さんはちょっとはにかんで笑った。
「いや……すごく嬉しい。でも、ちょっと照れる」
それでも、彼は口を少し開いて、私の差し出すお稲荷さんにかじりついてくれた。その瞬間、唇が私の指先をかすって、思わずドキッとする。
「……美味しい?」
「うん。すごく美味しい」
蓮さんの笑顔があまりに眩しくて──私は照れ隠しのように、自分のお稲荷さんをひとつ口に運んだ。
ふたりだけの、小さな白い世界。
外の空気がどれほど冷えていても、このかまくらの中には、優しいぬくもりが静かに満ちている。
蓮さんが私の肩をそっと引き寄せる。何も言わなくても、その腕を通して、彼の想いが伝わってくる気がした。
私はそっと、その胸に頭を預けた。静かに響く心音が、私のそれとやさしく重なり合う。
ただそれだけのことで、同じ時間を生きていることが、こんなにも幸せなんだと知った。
凛とした静寂に包まれながら、どちらからともなく、自然と唇が重なる。
──欲しかったものも、これから分け合っていくものも……その全部が、お互いの中にあるような気がした。
目を開けると、蓮さんの髪に落ちた雪が体温で溶けて、小さな雫になっているのが見えた。
私は手を伸ばしてそれを拭って、ついでに、いつものように彼のくせ毛を指先に絡める。
「……僕の髪、そんなに気になる?」
「うん。見るたびに触れたくなるの」
そう答えると、彼は静かに笑って、私の髪に顔をうずめた。
「蓮さん……あったかいね」
「うん、温かいね……君がいるから」
私は目を閉じて、その言葉ごと、蓮さんのぬくもりを抱きしめる。
こぼれそうになるほどの幸せを、そっと、胸の奥に閉じ込めながら。