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第96話

 私が亮くんと話している間、蓮さんはひとり、夜空を見上げていた。


 その背中は、どこか儚く見えた。だから亮くんが去ったあと、私はそっと彼の隣に立ち、同じように空を仰いでみた。


 ──まるで、透き通るビロードに、星のかけらをそっと散りばめたかのような夜空だった。


 私たちの吐く息は白くほどけて、凍てついた空気にゆっくりと溶けていく。その音さえ聞こえてきそうなほどの、深い静けさ。


 そのなかで、蓮さんとふたり並んで立っていることにふと気づいた瞬間、胸の奥がきゅっと切なくなった。


 ああ、どうしたんだろう。なんだか、センチメンタルな気分に飲み込まれそうになってる。


 落ち着こうとして、冷たい空気をゆっくりと吸い込んでから口を開いた。


「……すごい星空、だね」


「本当だね──こんなに見えるんだって、びっくりしてる」


 星明かりが、蓮さんの髪の輪郭をやわらかな銀色に縁取っている。星がこんなにも明るく眩しいものだったことを、私は、本当に久しぶりに思い出していた。


「まるで、宇宙の入り口にいるみたい。……あ、そっか。『まるで』じゃなくて、ここは本当に宇宙の入り口なんだね」


 そう言って蓮さんに顔を向けると、彼も同じようにこちらを向いた。


 目が合った瞬間、ふいに、忘れていた記憶がよみがえった。


 ──そうだ、思い出した。初めて出会ったあの日、私はこの瞳を見て、まるで宇宙みたいって思ったんだ。


 静かで、神秘的で、果てしなくて。取り込まれたら、もう二度と抜け出せなくなりそうなほど──深く、美しい瞳。


「亮くんと、話は終わった?」


 蓮さんが、そっと私の顔を覗き込んで聞いた。穏やかな声は、足元を照らすキャンドルライトのように、私の心のやわらかな部分に優しく触れた。


「うん」


 私はそれだけ答えて、もう一度、降るような星空を見上げた。──蓮さんがそれ以上何も聞かないこと、そして、それが彼の優しさであることを、私はちゃんと分かっていた。


「でも……びっくりしたよ。これ、誰が考えてくれたの?」


 私が聞くと、蓮さんは少しだけ気まずそうに微笑む。


「……うちの会議室で、祐介くんに聞かれたこと、覚えてる? なぜ、春木賢一朗に力を貸すのか──僕が3つの理由を挙げたときのこと」


 私は頷いた。そうだ、3つ目の理由だけは、彼が祐介に耳打ちしていたから、私には聞こえなかったんだ。


「もしかして、祐介に、星がきれいに見える場所を聞いてくれたの?」


「……祐介くんに、協力して欲しいって頼んだんだ。まさか、こんなに大ごとになっているとは思ってなかったけどね」


 少しだけ照れくさそうに笑いながら、蓮さんは言った。


「──でも、薫の友だちが手伝ってくれて……僕も、すごく嬉しかったよ」


 少しだけ目を細めて、蓮さんは私の手を取った。手袋越しでも、彼の体温が伝わってくるようだった。


「今日という日を──ちゃんと形にしたかったんだ。何年経っても、思い出せるように」


 そう言って、彼は一歩、私の前へと踏み出した。


 私の視界から星空が消えて、代わりに、愛しい人でいっぱいになる。


 その瞬間、胸の中で、何かがそっとほどけていくのを感じた。


 私はきっと──出会うずっと前から、この人を探し続けていたんだ。


 そして、気づいたときには、ちゃんとこの人のもとに辿り着いていた。


 それが小さな奇跡のように思えて、心が震える。


 目の前にいるこの人を、抱きしめたくてたまらなくなって、手を伸ばしかけた瞬間──蓮さんは私をまっすぐ見つめたまま、静かに雪の上に片膝をついた。


 時間が止まったみたいだった。息をすることさえ忘れて、私はただ彼を見ていた。


「蓮さん……」


 彼はそっと手袋を外し、ポケットに手を差し入れる。そして取り出されたのは、控えめな星の刻印が光る、深い紺のベルベットの小箱だった。


 それを私の前に差し出し、ゆっくりと蓋を開ける。


 現れたのは──星のような澄んだ光を宿した、小さなダイヤのリング。


 その透明な輝きに、私は息をのんだ。


「君が見上げる空を、僕も一緒に見ていたい。だから……これからもずっと、君の隣に、僕を置いてくれませんか」


 その言葉は、まっすぐに私の心に届いて、あたたかな波紋のように広がっていく。


 夢みたいに美しい瞬間。なのに、風の冷たさも、彼の少し緊張したまなざしも──すべてが、紛れもない現実を照らしていた。


 私は、何も言えないまま、ただ蓮さんを見つめる。


 鼻の奥がつんと痛んだのは、寒さのせいだけじゃなかった。


「──ありがとう」


 たった一言なのに、声にするだけで喉が詰まりそうになる。


 私はそっとまぶたを閉じて、こみあげてくる想いを静かに抱きしめた。


 決心なんて、必要なかった。


 ──蓮さんのいない未来なんて、もう想像できない。


 私は深く息を吸い込み、ゆっくりと目を開ける。そして手袋を外し、震える指先で、そっと彼の頬に触れた。


「……ずっと、私の隣にいてください」


 その言葉に、蓮さんの瞳が揺れた。まるで星が瞬くみたいに、静かに、優しく──


 そして、端正な顔に、ゆっくりと微笑みが咲いていった。


 どこまでも穏やかで、あたたかい笑顔。


 見慣れているはずなのに、胸がまた高鳴る。


 彼は立ち上がり、ケースからリングをそっと取り出した。そして、私の左手を取って、少し冷えた指先を包み込むように温めてくれた。


「……いいかな?」


 その問いに、私はうなずく。


 まるで壊れものを扱うように、蓮さんの指先が、私の薬指にそっと触れる。


 リングが、ゆっくりと指を滑っていく。星のひと粒を閉じ込めたようなきらめきが、私の手の上で小さく震えた。


「これって、H.ヴェスペルの……?」


 ベルベットのケースに刻まれた小さな星の刻印を見つけて、私は蓮さんに尋ねた。


「このあいだ、クリスマスにもらったばかりなのに──」


 蓮さんは微笑んで、秘密を打ち明けるように小さく言った。


「実はね、久世遥──はるちゃんは、僕の幼馴染なんだ。薫のイメージを伝えて、作ってもらったんだよ」


 私はびっくりして、思わず蓮さんの顔を見つめる。


「……そんな、特別なものを……私が受け取って、本当にいいの?」


「君と僕の名前が、ちゃんと刻まれてる。君が受け取ってくれなければ、このリングの居場所は、世界中のどこにもなくなってしまう」


 そう言って、蓮さんは私の手をそっと取り、リングの上から指に優しく口付けた。


 ──このあいだ、雑誌で見かけた久世遥さんの記事。その横に載っていた彼女の美しいポートレート写真が、ふいに思い出された。


 蓮さんのキスを受けたリングに、ちょっとだけ嫉妬したことは……蓮さんには内緒にしておこう。




 それから、私たちはかまくらの中に入った。


 明日香ちゃんが用意してくれた風呂敷包みを広げると、行楽用のお弁当箱の中には、お稲荷さんがまるで積み木のギフトみたいに、きっちりと美しく詰められていた。


 普段はわりとアバウトなのに、お稲荷さんだけは几帳面に詰めたがるところ、ほんとに変わらないな。


 私は含み笑いを浮かべながら、お箸を探す。


「……って、あれ? お箸がない」


 さすが明日香ちゃん。期待を裏切らず、肝心なところはやっぱり抜けている。私はちょっとだけ笑ってしまった。


「お手拭きは持ってきてるから、手で食べようか」


 そう言って、私は自分の分を1枚引き出してから、蓮さんにウェットティッシュを差し出した。


「あれ、もう入ってないよ」


「あ、ごめん。これが最後の一枚だったみたい」


 少しだけ申し訳なく思いながらも、私はふと、あることを思いついた。


 ──ボートに乗ることと、手をつないで散歩すること。それに継ぐ、『恋人ができたらいつかやってみたかったこと』第3弾が残ってた!


「蓮さん。はい、あーんして」


 蓮さんは目を見開いて、ちょっと驚いたように私を見た。


「……僕が?」


「やってみたかったの。だめ?」


 くすぐったそうに目を伏せながら、蓮さんはちょっとはにかんで笑った。


「いや……すごく嬉しい。でも、ちょっと照れる」


 それでも、彼は口を少し開いて、私の差し出すお稲荷さんにかじりついてくれた。その瞬間、唇が私の指先をかすって、思わずドキッとする。


「……美味しい?」


「うん。すごく美味しい」


 蓮さんの笑顔があまりに眩しくて──私は照れ隠しのように、自分のお稲荷さんをひとつ口に運んだ。


 ふたりだけの、小さな白い世界。


 外の空気がどれほど冷えていても、このかまくらの中には、優しいぬくもりが静かに満ちている。


 蓮さんが私の肩をそっと引き寄せる。何も言わなくても、その腕を通して、彼の想いが伝わってくる気がした。


 私はそっと、その胸に頭を預けた。静かに響く心音が、私のそれとやさしく重なり合う。


 ただそれだけのことで、同じ時間を生きていることが、こんなにも幸せなんだと知った。


 凛とした静寂に包まれながら、どちらからともなく、自然と唇が重なる。


 ──欲しかったものも、これから分け合っていくものも……その全部が、お互いの中にあるような気がした。


 目を開けると、蓮さんの髪に落ちた雪が体温で溶けて、小さな雫になっているのが見えた。


 私は手を伸ばしてそれを拭って、ついでに、いつものように彼のくせ毛を指先に絡める。


「……僕の髪、そんなに気になる?」


「うん。見るたびに触れたくなるの」


 そう答えると、彼は静かに笑って、私の髪に顔をうずめた。


「蓮さん……あったかいね」


「うん、温かいね……君がいるから」


 私は目を閉じて、その言葉ごと、蓮さんのぬくもりを抱きしめる。


 こぼれそうになるほどの幸せを、そっと、胸の奥に閉じ込めながら。



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