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第41話 

 修理が完全に終わったフィアットは、梅雨に入るのを堪えるような曇り空の下、少ない陽光を照り返して軽快に走っていた。国道を東進し、エンジンパワーに任せてどんどん追い抜いていく。

「あれから、この車はどう?」

 清隆は深くシートに身をうずめるように座って、運転席の桜子に訊いた。

「暴走することもありませんし、大人しいものですよ。修理工場から帰ってきて、一度も変な動きはしていません」

 桜子はステレオから流れる音楽に合わせて小さく体を揺らしながら、上機嫌にアクセルを踏み込む。

「桜子さんの運転に満足しているってことかな」

「私の日常使いじゃ、この車の馬力は宝の持ち腐れですけどね。峠を攻めていた頃と比べたら、欲求不満になるんじゃないですか」

「どうかな。飛ばしたかったのは前の持ち主であって、車自身ではなかったのかもしれない。本当はこうやって普通に運転されるだけで充分だったのかも」

「テセウスの船って知っています?」

「なんだっけ、それ」

「一隻の船があります。その船を修理していくうちに、どんどんパーツが入れ替わっていくわけですね。最終的に全てのパーツが置き換わったとき、果たして最初の船と同一と呼べるのか、という問題です」

「呼べないんじゃない?」

「この車も同じようなものだと思うんですよね。修理してパーツを交換された車は、果たしてどこまで最初の車と同一だと言えるのか。果たしてどこまでパーツを交換されたら付喪神は付喪神ではなくなるのか」

 清隆はドアグリップを撫でた。

「少なくとも、今はまだ付喪神だよ。気配は桜子さんの物になったあの日のままだから」

「そうなんですか」

「なんとなく、機嫌が良さそうな気もする。知らない人がいつの間にか後ろに乗り込んでいたってことはない?」

「そんなことあったら怖すぎますよ。運転中って逃げられないんですから」

「実際あったらどうする? 声を掛ける? 気づかないふりをして運転を続ける?」

「模範解答は?」

「何があっても振り返らない、だね。そういうものは自然と去っていくから、それを待つのが正解」

 桜子はふんふんと頷き、山の方へと右折した。

「今のところ、そういう経験はありませんね」

「気づいていないだけで、心霊スポットからはよくそうやって連れて帰ってくるものだけどね」

「実は、いた?」

 桜子は、「後ろの真実」で働くまで心霊スポット巡りを趣味にしていた。実は気づかないうちに同乗していたとしたら。

「私の家、幽霊たちのたまり場になっている、とかありませんよね」

「そうだったらもっと沢山職場に連れてきていそうだから、大丈夫だと思うよ。霊感が無い人には、霊も影響を与えられなくていずれ去っていくものだから」

 ううん、と桜子は唸る。あえて事故物件に住んで心霊現象が起きることを期待するくらいには物好きである身からすれば、良かったと言っていいのか悪いのか、微妙なところである。

「清隆さんは、霊視みたいなことってできるんですか」

「まあ、その辺の霊能力者くらいのことは」

「今度私の家に来てくださいよ。それで、何かいるか視てください」

「いいけど、正直に言っていいものなの?」

「どうしてですか?」

「四十過ぎの、ランニングシャツにトランクスだけ身に着けた太ったおっさんの霊が部屋の中にいるよって言われたら、嫌じゃない?」

「……やっぱりいいです」

 恐怖とは別の意味で引っ越ししたくなってしまう。知らない方がいいことも、たしかにある。

「清隆さんの家は、幽霊出ないんですか」

「何かいるけど、基本的に放置かな。良いものまで消滅させてしまうってことも考えられるから」

「何かはいるんですね」

「常時姿を現しているってわけじゃないから、まあ、迷惑だとは思わないよ」

 フィアットは谷沿いに走る。両サイドに丘の斜面が迫る道を抜けていくと、急に視界が開けた。

 平地には田畑、密集した家の集落。遠くに回る水車も見える。カーナビが、目的地が近いことを告げた。

「着きましたね、旧緋花村ひばなそん

「さてさて、人食いの化け物が出るとは、どういうことだろうな」

 緊急だという電話が清隆の元にかかってきたのは昨日のことだった。人食いの化け物が出るから退治してくれ、と男の強い声で電話があり、宥めながらことの次第を聞くと、なかなかに深刻な事態が起こっていることがわかった。詳細はわからないが、とにもかくにも駆けつけたのが今日というわけである。運よく「後ろの真実」の定休日とも重なって、桜子も同行することができた。

 依頼人の家に着いた。田舎によくある蔵付きの一軒家。ガレージにはトラクターが停まっている。表札の「家永」という文字を見て、桜子は依頼人の家だと確信する。

 ジャリジャリと音を立てて車を停めると、二階から覗いている人影を見つけた。痩せた男の老人だ。眉間に皺を寄せてこっちを見ている。

 すわ幽霊か、と桜子は身構えたが、助手席を下りた清隆が頭を下げたので警戒を解いた。ただの家人らしい。

「初めまして。安倍霊障相談サービスです」

 窓が開く。

「待っていたぞ。今行く」

 老人が引っ込んだ。そのとき、ジャリ、と背後から音がして桜子は振り返る。

 しかし、そこには何もいなかった。

 今のは、足音では。

「桜子さん」清隆がそんな桜子を一瞥し、視線を玄関に向ける。

「気を付けて」

 何を、と訊く前に玄関が開き、老人が険しい目つきで現れた。


「電話でも話したが、今月に入って十人の村人が消息を絶った」

 通された客間に座ると同時に、家永は早速切り出した。

「正確には、最初の行方不明者はいつ出たんですか」

 相手が男だからか、清隆も今日は口の滑りがいい。普段と比べて、という意味だが。

「六月一四日の夜から一五日の朝にかけてだ。ある家の男、結婚して子供もいる男だが、そいつがふと消えた。寝るところまでは家族が目撃している。だが、朝になるとそいつは消えていた」

 今は六月二九日。約二週間の間に十人消えたとなると、とんでもないペースだ。

「夜逃げ、家出、浮気、そういう事情に心当たりは?」

「嫁さんが言うには、無いそうだ。借金も女もないクソ真面目が取り柄みたいな男なんだとよ」

 桜子はその言に頷いてみせる。

「人間には知らない面があって然るべきですが、奥さんが断言する場合は信じていいと思います。そういうの、女は敏感なんです」

「男も人によると思うけど。警察には届けたんですか」

「届けはしたが、まともに取り合ってもらえなかった。どこかに外泊しているんだろうってな。車も使わず、こんな田舎からどこへ行くっていうんだ」

 清隆が、ほう、と声を上げる。

「車が残されていたんですか」

「そうだ」

「他の行方不明者も、もしかして同様ですか」

 家永が深刻な顔で頷く。

「そういうことだな」

「全員歩いて姿を消した」

 家永の目がぎらつく。

「もしくは、何かがやってきた」

 桜子は一瞬メリーさんを想像した。私、メリー、今あなたの家の前にいるの、というアレだ。

「単純な話だ。同じ村に住む人間が口を合わせたように一気にいなくなるより、よっぽど可能性が高い場合がある。何者かが村を歩き回って攫っているんだ」

 桜子と清隆は横目を合わせた。人食いの化け物が出る、という通報めいた電話の、少なくとも緊急性はありそうだ。

「人を攫う理由なんて、そうは考えられない。売り飛ばすなら若い人間からだろうが、いなくなった連中は老若男女だ。なら、別の理由になる」

 家永が声を潜める。

「食うんだよ。攫って、閉じ込めて、食っていくんだ」

「家永さん、不躾な質問ですが、奥様は?」

 清隆の質問に、桜子は息を呑んだ。まさか。

「畑に出ている。幸い、ウチは無事だ。今のところはな」 

 ほっと息を吐く。そりゃあそうだ。奥さんが失踪していたらもっと急いでいるはずだった。昨日の今日と言わず、昨日のうちに呼び出されていただろう。

 清隆が頭を掻いて唸った。

「若い方も失踪されたのなら、警察が動きそうなものですが」

「捜索していた警察官も失踪したぞ」

「え」

「捜索隊も、もはや失踪者が多すぎてお手上げなんだ。こんな異常事態、尋常じゃない理由があるとしか思えない。だから村の恥を晒すことになろうとも、外部の人間の手を借りることにしたんだ。村の連中はまだ自分たちだけでどうにかしようと日和ってやがるが、俺は甘いと思う」

 なあ、と家永が身を乗り出した。

「この村には人食いの化け物がいるんだ。頼む、退治してくれ。この通りだ」

 下げられた頭に、二人は困惑して顔を見合わせた。


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