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第66話

 夕刻に竹下から受けた説明をまとめると、プールに出る幽霊を除霊してほしい、というものだった。

 ここ、かぶらぎ運動公園のプールに幽霊らしきモノが出るようになったのは、約半年前だという。厳密にはわからないが、話好きの来館者が、プールサイドに佇む足の無い人影を見た、プールと更衣室を繋ぐ通路で人とすれ違い、何か変だと思って振り向いたら誰もいなかったといった相談を寄せるようになったのが、だいたい半年前からなのだとか。

 そしてここ二、三か月、来館者向けのご意見カードにちらほらと幽霊らしき目撃情報が寄せられるようになった、そしてその頻度が増しているという。ご意見カードを見せてもらうと、ギャラリーに座っている水着姿の男がいる、無人のシャワールームから水音が聞こえた、などと、出現のしかたも多様だ。ただ、プール周辺の男性という点では共通している。

 不気味がる人が多く、ネット上で噂され始めていることもあり、除霊を依頼しようと思ったとのことであった。

「竹下さんは、その霊を目撃していないのですか」

 桜子が水を向けると、竹下は困ったように笑う。

「はい。私のところには出てきてくれないのですよね。プールを見回ることもあるのですが、私には全く見えません。それらしい気配を感じたことすらないのです。ですから、職員から除霊の提案があったときも、半信半疑でした。今でもそうです」

「霊感とは別に、霊が見える条件というものがあります。ケースバイケースですが、その条件を満たしていないと、会えない霊というものがいるんですよね」

 桜子が清隆からの受け売りを話すと、竹下は、はあ、とわかったようなわからなかったような反応を示した。

「その、条件ですか。それは何なのでしょう」

 清隆に目線で促すと、困ったような卑屈な笑みを浮かべた。

「そ、それ、それはまだ、わ、わかりません。会ってみないことには」

 清隆は緊迫した現場ほど除霊モードに入るのが早い。今日はまだ滑舌が良くないので、そのモードには入っていないらしい。

「水辺に出る幽霊というと、足を引っ張って水底に引きずり込むのが定番ですよね」

「河童なんかもそうだね」

「そういう事故は起きましたか?」

 竹下に訊くと、首を傾げられた。

「プールですから、溺れる危険は常にあります。ですが、この一年くらいはそうした事故はありませんね。幽霊騒動が始まったのは半年くらい前なので、怪談話のような悪さはしない幽霊なのでしょう」

「悪さはしないけれど、除霊はしたい、と」

 清隆がポツリと零す。

「職員も怖がっていますしねえ」

「よくわからないものを恐れるのは、ごく自然な感情ですからね。それは否定しません」

 桜子は竹下の機嫌を損ねやしないかとハラハラしていた。清隆は、無害な幽霊は基本的に祓わない。美術館で生者と死者の間を取り持ち話をつけたように、お互いがちょうどいい距離感でいられるよう取り計らうこともある。

 なんとなく怖いから、という理由で祓うのだとすれば、それは清隆の好みに反する。一方、商売として依頼を受けるからには、依頼人の意向を無視するわけにもいかない。

 上手く言いくるめて依頼人を気持ちよく納得させることができればいいのだが、生憎、清隆にそんな口車は回せない。

 桜子は清隆がどうするのか、様子を見ることにした。できれば穏便に終わってほしいところだけど。

 プールがある本館に入り、早速プールに向かう。裸足になって、僅かに濡れているプールサイドに降り立ったとき、桜子は学生時代の記憶がフラッシュバックした。それも、小学校のプールの記憶だ。

 桜子がいた小学校はプールを改修したばかりで、プールサイドもピカピカだった。更衣室からシャワーへの通路は染み一つ無いコンクリートで、そこを濡れた足で駆け足気味に通ったら、転んだ。

 転んで、後頭部を打って、脳震盪で保健室に運ばれた。

「桜子さん?」

 気づけば清隆が少し先を歩いており、振り返っていた。

「どうしたの」

「いえ、少々黒歴史の記憶が……」

「プールで? 水着を忘れたとか?」

「いや、まあ、いいじゃないですか。言いたくないから黒歴史なんですよ」

「後で教えてね」

 半笑いの清隆を殴ってやりたくなったが、追いつけなかった。プールサイドで走らないこと、という先生の言葉の理由を、身をもって感じたため、それ以来プールではゆっくり歩くようになってしまったのだ。

 それは、大人になった今でも然り。

 のろのろと歩く桜子の前を歩くかたちで、清隆と竹下は設備を見て回る。温水エリア、タイマー、幽霊が目撃されたベンチやギャラリー。泳いでいるところを目撃された報告はないが、単に気付かれないからではないか、という竹下の推測。

 プールの中ほどまで来て、清隆は足を止めた。何かを探すように周囲を見渡す。

「清隆さん、幽霊はいそうですか?」

 追いついた桜子が問うと、ポケットに手を突っ込んで唸った。

「いる、と思う。でも、存在感が薄いな。見えない」

「清隆さんに見えないということは、相当薄いんじゃ?」

「向こうに出てくる気が無いのかも。人と関わろうとするタイプじゃないのかな」

「悪霊なら、攻撃というか、接触してきますよね」

 鎧武者の浅田、井戸に閉じ込める巾(はば)木(き)、双子の兄弟、何体かの悪霊と相対してきたが、近づいた相手に危害を加える積極的な意思のようなものがあった。それがないということは、今回は無害な幽霊なのだろうか。

「報告されている目撃情報も、ただその場にいただけって感じだったしね。こっちには興味が無いのかな。だとすると困るね。除霊するにも会話するにも、まずは姿を現してもらわないと始まらない」

 さて桜子さん、と清隆は荷物を背負い直した。桜子は溜息を吐きそうになるが、一縷の望みをかけて堪えた。

「着替えよう」

 一度は堪えた溜息が漏れ出た。


 わかっている。清隆に他意は無い。ここはプールで、水の中を調べるには水着を着る必要があって、決して、セクハラ的な意味じゃない。

 わかっている。わかってはいるが。

 着替えた桜子がシャワーを浴びてプールサイドに戻ると、清隆と竹下が水着姿で既にいた。男は脱ぐのも着るのも女より早い。

「残念でした。競泳水着です」

「俺が何かを期待している前提で話すのやめてくれない?」

「期待してなかったんですか?」

「しているわけないだろ。子どもじゃあるまいし」

「じゃあちゃんとこっち向いてくださいよ。いや、やっぱり見ないでください」

「どっち」

「見ないでください」

「それはそれで無茶言うね」

 桜子は、自分としてはスタイルが悪いわけではないと思っているが、かといって良いわけでもない。だいたい、上司に水着姿を見せて楽しむ気持ちなんて欠片も浮かばない。こんな事情でもなければ、清隆に太ももなんて一生見せる気はなかった。

「屈辱です」

「そこまで言う? ただの水着じゃん」

「清隆さんの視界に入れられるのが、辛い」

「俺に帰れと言っている?」

「目を潰してほしいと言っています」

「こわ!」

「さっさと終わらせましょう。一刻も早くこんな拷問のような時間から逃げ出したいです」

「俺、一応上司なんだけど……」

「知っていますよ。友達ならこんなこと言いません」

「友達以下かあ……」

 なんだか悲しそうな清隆を放っておいて、竹下に向き合う。竹下も水着を着ていて、突き出ている腹が丸い。プールの中にも設備はある。その解説のため、竹下にもプールに入ってもらう必要があるかもしれないと、事前に伝えてあった。

「じゃあ、行きましょうか。もしかしたら、幽霊に足を掴まれるようなことがあるかもしれませんが、絶対にパニックにならないでください。私たちが、正確には清隆さんが、必ず助けます」

 注意事項を言い渡し、無人のプールにゆっくりと入る。プールはロープとブイでコース分けがされていて、ブイをくぐってとりあえずプール中央へと向かう。足が届かないということもなく、順調に進めた。

「プールの底には傾斜があり、中央に向かって深くなっています。排水口も中央にあり、水が集まるようになっています」

「な、な、なるほど。いわ、言われてみればたしかに」

 後ろで竹下が清隆に解説しているのを聞きつつ、桜子は水底に何かないか、水面に映る自分の姿に変化はないか、注意深く観察しながら進み、プールの反対側に到着した。

「何も起きませんね」

 振り返り、清隆に話しかける。清隆は下よりも周囲を気にしながら歩いていた。

「まだ判断するには早計だよ。とはいえ、これで姿を現さなかったらどうしたものかって感じだけど」

 清隆の言葉に返そうとして、息を呑んだ。

 清隆と竹下の後ろ、反対側のプールサイドを歩く男がいた。

 その男には、左足が無かった。


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