プールサイドを歩く男は、左足の膝下から先が消えていた。右足はある。そんな足では本来できない二足歩行を、なぜか両足あるかのごとくしている。左足が床につくときは、浮いているように見える。桜子に見えていないだけで本当はあるのか、その判断はできなかった。
「出たね」
耳元で清隆の声がして、驚いて飛び退いてしまった。
「そんなに驚く? 傷つくんだけど」
「いつの間にこんな近くにいたんですか」
「桜子さんの様子が変だから近づいて同じ方向を見たら、彼がいたというだけじゃん」
それより、と清隆はプールサイドを歩く男に目を向ける。
「彼が噂の霊だね」
「幽霊、なんですよね。それにしては普通というか。片足ありませんけど」
「普通って?」
「なんか、おどろおどろしさが無いというか、こう、怖くないというか」
清隆はプールから上がり、ペタペタとプールサイドを回り始める。桜子はそれについていきながら言葉を繋いだ。
「
「言いたいことはわかるよ。彼は未練を残しているんだろうけど、それがきっと他人に向いていないんだ。だからあれは悪霊じゃない。無害な地縛霊ってところなんだろう」
「どうするんですか」
「話をする」
短く返し、清隆は迷いの無い足取りで男の霊に近づく。その手前で、男の霊は飛び込み台に上り、あっという間に飛び込んだ。
あ、と間の抜けた声が桜子の喉から零れる。清隆も、やべ、と声を漏らす。
飛び込んだにしては静かな水音が響く。僅かな水しぶきで着水し、ぐんぐん加速していく。夜のプールに、水を掻く音が一人分、静寂の中で鳴る。
ああ、と清隆が呆然と息を吐く。
「泳ぎ始めちゃったな」
「追いましょうよ」
「いや、やめておきたい。サカグラシは水が苦手なんだ。水の中では、サカグラシの身体能力を借りられない。酒も持ち込めない。万が一危害を加えられたとき、俺はほとんど無防備になってしまう」
「水中戦が苦手ってことですか」
「そういうこと」
ではどうするのか、と先を促す前に、清隆はベンチを指さした。
「竹下さん、ちょっと話をいいですか」
「あれは川木達人君だと思う」
桜子、清隆、竹下の順でベンチに座り、泳ぎ続ける幽霊を見ながら、竹下は悲しそうにつぶやいた。
「それがあの霊の名前ですか」
「おそらく。今はもう見る影もないが、私は若い頃水泳をやっていたんだ。だから、フォームでわかる。あれは川木君だよ」
プールの中の男、川木の泳ぎはクロールから平泳ぎに移行していた。素人目に見ても優雅で、速い。中学生の平泳ぎしか見たことがない桜子にとっては異次元に速い。
「オリンピックを嘱望されるほどの実力があったんだ。いつもはスイミングクラブで泳いでいたんだけど、クラブが休みのときや、リフレッシュしたいときなんかに、ウチで泳いでいた」
「水泳のリフレッシュに、水泳をしていたんですか?」
清隆と竹下の視線が集まる。どちらも苦笑していた。
「桜子さん、言いたいことはわかるけどね。煙草職人が休憩時間に何をするか知っている?」
「煙草職人? 何ですか?」
「煙草を吸うんだよ」
桜子は、はあ、そういうものですか、と気の抜けた返事をしてしまった。
清隆は、続けてください、と竹下を促す。
「川木君の評判は追いかけていた。水泳専門の雑誌があってね。それで名前を探したりしていたんだ。それもやめてしまったな」
遠くない昔を思い返しているからか、竹下の口調から敬語が外れていた。
「100メートル平泳ぎの高校記録を知っているかな。59秒56だ。川木君はそれすらも越えられる実力があった。越えられると周りは信じていた。だから夏の大会で、新記録が出るはずだった」
「しかし、彼は出場できなかったんですね」
清隆の合いの手に、竹下は重々しく頷く。
「交通事故だったと聞いている。それも、よりによって、ここに来る道中で。左足を切断する大事故だったそうだ」
「亡くなったんですか」
「詳しくは知らないが、風の噂で亡くなったと聞いた。数日、集中治療室で粘った後に息絶えたとか」
「平泳ぎの選手なら、左足を失っては、もう復帰できなかったでしょうね」
「それでも、生きていればいいことはあった」
「それは、どうなんでしょうね。彼にとっては、ただ絶望の中で生きるだけだったかもしれません」
「絶望しながら生きるのもまた、人生さ。歳を取るごとにできることが少なくなっていく。諦めと絶望の繰り返しが人生だよ」
「そう、かもしれませんね」
「君は、川木君が生きていた方が良かったと思うのかな。それとも、陰陽師としては別の考えがあるのかな」
清隆は表情が無くなった。数秒考え、口元に皮肉な笑みが戻る。
「死ぬ気で追いかけた夢が、追いかけることもできないほどのどうしようもない事情に圧し潰されるのであれば、いっそ楽になってしまいたいと思う気持ちが理解できないわけではありません。何が何でも、生きている方が正解だという意見はきっと正しいのでしょう。だけど俺は、正しくない意見を切り捨てたくはないんです」
「死んだ方がマシだった、というやつか」
「本当に、死んだ方が良かったことだってきっとあります。というより、生きていることが無条件に正解だとする今の世の中が、俺にはあまり馴染みません。死んだって世界は終わりません。霊になってふわふわと漂うなり成仏するなりすればいいと思います。きっと気楽ですよ」
ふっと、竹下が鼻息を出して笑った。
「若いね。だが、死にたくなる気持ちを知らない人間なんて、挫折を知らないようなものだ。それはそれで、つまらない人生だと思うよ」
「挫折。挫折ですね。川木君は、怪我が治って退院できたとして、立ち直れたんでしょうか」
「どうだろうね。それは、本人が決めることだよ」
「俺には、彼がいま不幸そうには見えないんですよ」
「不幸?」
「霊になって、誰かを呪うモノはいます。未練を残して、それに縛り付けられて脱出できないモノがいます。川木君は、おそらくこのプールに縛り付けられているのでしょうが、泳ぐも泳がないも、どうやって過ごすかも、自由です。その気になれば、出ていけるかもしれない。とにかく、不本意に縛られて暗い感情に埋め尽くされて、誰かを巻き込みたいと思っている連中と比べたら、随分幸せな死後なんですよ。無害で、好きなことに没頭できて、怪我も疲れも気にせず泳げる。そんな贅沢を味わっています」
「死んで良かったと、そう言いたいのですね」
「それはどうでもいいです。俺がどう思っていたとしても、それは彼の状況に何ら影響を与えない。もちろん、竹下さんの状況にも」
「私の状況?」
「川木君を祓いますか?」
話が核心に迫った、と桜子は姿勢を正す。
「川木君は、現状、何の害もありません。このまま放っておいてもよい存在です。もしも川木君の意思を尊重するのであれば、ここで泳がせてあげるのが最も良いでしょう。話をつけて、夜だけ現れるようにすることもできるかもしれません」
清隆は、泳ぎ続ける川木から目を離さない。竹下の方は見ない。
「それでも祓いますか」
竹下は俯き、目を閉じた。清隆は竹下の人情に問うている。夢半ばにして死んだ若者の魂をどう扱うのか、それにどんな裁定を下すのか。
「成仏、させてあげることはできませんか」
竹下が声を絞り出した。
「ここで泳ぎ続けることが彼の幸せならば、そうさせてやりたいのは山々です。だが、私はここの館長だ。怖がる職員を無視することもできない。妙な噂が立つことも防がなくてはならない。川木君を、このままにすることはできません。だからせめて、心安らかにあの世へ送ってあげることはできませんか」
清隆は目を閉じた。桜子は知っている。こんなとき、清隆は感情を表に出さない。竹下がどんな答えをしても、フラットに、それが当たり前だったかのように振る舞うのだ。
それがきっと、彼なりの気遣いと優しさだから。
「わかりました。桜子さん、手伝って」
「はい、何をすればいいですか」
「とりあえず、水泳選手になってもらおうかな」