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第68話

 幽霊が泳いでいるプールで一緒に泳ぐ体験ができるとは思っていなかった。

 平泳ぎをするのは中学生以来だったけれど、体は難なく動いた。50メートルプールを往復すると、息が上がる。日頃の運動不足を実感するが、今さらどうしようもない。

 清隆に頼まれ、ウォームアップに泳いでおいてと言われるがまま泳いだ。それで、これからどうするのだろう。というかなぜ私は泳いだのだろう。

 桜子は浮かんだ疑問符に答えを見つけられないままプールサイドに上がる。

「泳ぎましたよ、清隆さん」

「体操しておいて。次が本番だから」

 本番とは何のことなのか。清隆は竹下からストップウォッチを受け取り、使い方を教わっている。竹下の手には、スタートの号令を出すときのピストルがある。

 ピストル、ストップウォッチ、次が本番。

 私のタイムを計ろうとしている?

 気づけば川木の姿はなくなっていた。周囲を見渡すと、ギャラリーに腰掛ける川木の姿があった。見事な胸筋だ。逆三角の上半身が美しい。

「桜子さん、いい男がいるとすぐ見惚れるんだから」

 いつの間にか隣にいた清隆がからかうように言う。

「どうしていつも急に近くに現れるんですか」

「気づかない桜子さんがおかしいんだよ」

 嘘だ、絶対何か細工をしている。そういえば、猫は足音がしないと聞いたことがある。

「海人君のときも、桜子さんは見惚れていたし」

「見張っておく必要があったからそうしただけです。それとも、妬いているんですか。自分はそういう目で見られないからって僻んでいます?」

「それだけはない。桜子さんに見つめられるなら、蛇に見つめられる方がマシだね」

「言いますね。私は蛇以下ですか」

「俺は友達以下なんだろ」

 この男、根に持っている。

「なんだかんだでしっかり私の水着姿も見ているからいいじゃないですか」

「だから、俺が桜子さんの水着姿でテンション上がるという前提をやめろと言っているんだよ」

「テンション下がっているんですか」

「無、だね。何の感情もない」

「失礼な」

「涎垂らして喜んだ方が良かった?」

「セクハラで訴えますよ」

「どうしろっていうんだ」

 喋りながら移動する清隆についていくと、飛び込み台で止まった。

「さて桜子さん、体操しておいてね」

 言われて、していなかったことを思い出し、屈伸運動から始める。本当はプールに入る前にするべきなのだろうが。

「条件って何だったんでしょうか」

「条件?」

「川木君が見えるようになる条件ですよ。急に三人とも見えるようになったじゃないですか」

 ああ、と清隆はギャラリーに座っている川木を見遣る。

「それは単純に、ここのプールに入った人にしか見えないって条件があったんだろう。ご意見カードでも、プール使用者のコメントばかりだったし。水着姿の男性が体育館で見えた、なんてコメントは一件もなかった」

「じゃあ、どのみち水着にならないといけなかったんですね」

「どんだけ水着になりたくなかったんだよ。思春期か?」

「思春期の方がマシでしたね。今の方がよっぽど恥ずかしいです」

「気にし過ぎだって」

 桜子も、どうしてここまで恥ずかしいのかよくわからない。学生時代、大学の友達と海に行ったときはこんなじゃなかったのに。

 あの頃は若さという自信があったから、だろうか。

「川木君は、どうしてここに出るんでしょうか」

「どうしてって、何が」

「だって、拠点にしていたのはスイミングクラブのプールでしょ。死んでなお泳ぎたいのなら、そっちに出るのが筋なんじゃないかな、と思いまして」

 アキレス腱を伸ばしながら訊く。清隆は遠い目をした。

「拠点にしていたことと、好きな場所かどうかは、別の問題だろ」

「好きな場所だから拠点にしていたのでは?」

 清隆は桜子の顔を見て、しばし目を合わせ、また遠くを見た。

「桜子さん、思い出深い場所とか、死んでから行きたい場所とか、そういうのはある?」

「思い出深い場所ですか」

 唐突な質問だったが、乗っておく。清隆が話を逸らすことは滅多にない。多分、後で話が合流する。

「実家の近所に神社があるんですよ。夏祭りが開かれるような、ちょっと大きな神社です。そこから見下ろす景色が綺麗で、思い出もたくさんあって、死んでから行くなら、そこですかね」

「霊が神社に行くのは、別の意味で問題がないわけじゃないんだけど、それはいいや。まあ、桜子さんらしいかな。生きている人との思い出が、そこにあるんだろうね」

「そうですね。他にも、高校の帰りに買い食いしたコンビニとか、思いつく場所は沢山ありますね。今なら、「後ろの真実」に戻ってきて雇ってもらいましょうか」

「変なフラグ立てるのやめてよ」

「この伏線が最終章で回収されるのです」

「最終章って何? おばあさんになった後に回収されるの? その頃には、さすがに俺も引退しているよ」

「場所の話がどうしたんですか」

「いや、勉強に打ち込んだ場所といったら、自宅の自室か、学校や塾だろ。そういったところには行かないの? 拠点だろ」

 清隆の言いたいことがわかった。

「……なるほど」

「ね」

「拠点っていうのは、辛い思い出も多いんですね。大半がつまらない反復練習でしたし。それなら、楽しい思い出が多い場所の方が、死んだ後は行きたいです」

「川木君にとって、ここは息抜きの場所だったんだろ。日々の練習から解放されて好きに泳げる、楽しい場所だったんだ」

「だから、ここに来た」

「道中で事故に遭ったという事情もあるだろうけど、俺はそう思う。記録更新するというプレッシャーもあっただろうし、日々の練習はきつくて辛い。それだけ泳げたなら、同じクラブの人間からやっかまれることもあったかもしれない。そういうもの全てが関係なくなるのが、ここだったんだよ」

 天才には、天才ゆえの悩みがある。努力には、努力に伴う苦痛がある。本当は、川木は逃げたかったのかもしれない。結果的に、最悪の方法で叶ってしまったけれど。

「体操は済んだ?」

「終わりました」

「じゃあ、始めようか」

「何をです?」

「平泳ぎ決勝」


 桜子は飛び込み台の手前で手足をぶらぶらと動かして体を解していた。ギャラリーにいる川木達人を見つめる。

 清隆が叫んだ。

「これより、100メートル平泳ぎ決勝を始めます。第二レーン、鬼頭桜子」

 桜子は手を挙げ、飛び込み台に上る。

「第三レーン、川木達人」

 来い、来い。

 ギャラリーの川木が立ち上がり、消えた。隣の飛び込み台に目を移すと、飛び込みの構えをとってそこにいた。片足が無いにも拘わらず、ピタリと静止している。

 やっぱり、水泳の勝負に誘われたらこの人は拒否できない。

「位置について」

 清隆の声で、桜子も飛び込みの構えを取る。飛び込みは得意ではないが、今は重要ではない。

 ピストルが鳴った。桜子は派手に水しぶきを上げて飛び込む。一度水を掻き、浮上する。息継ぎをして、手足を動かす。

 息継ぎの時に隣のレーンを窺うと、既に数メートル先にいた。飛び込みの精度が違う。ひと掻きの効率も段違いだ。100メートルは桜子にとって長い。全速力で泳いでいたら最後まで体力がもたない。適度な力加減で速度を維持する。その一方で、川木はぐんぐん加速し、差を広げていく。

 速い。勝負にならない。

 でも、それで構わない。これは川木のための記録会だ。

 プールは50メートル。それを往復する。桜子が50メートルを泳ぐ頃には、川木は既にゴール直前だった。ターンせず、飛び込み台に掴まって、上がった息で川木を見届ける。

 川木はラストスパートとばかりに力強く泳ぎ、そしてゴールした。

「59秒45。高校新記録だ!」

 清隆の声が響き、川木が右手を挙げた。そして、拳を水面に叩きつける。

 軽い音と、小さな水しぶきが立った。

 そして、川木の姿が消えた。

 桜子は、自分の息の音しか聞こえないプールをゆっくりと泳ぎ、プールサイドに上がった。元より、100メートル泳ぎ切るつもりはなかった。

 酸欠気味でふらつく体を慎重に操作し、ストップウォッチとピストルを持つ清隆の元へと向かう。竹下も来た。

「行きましたか」

 竹下の問いに、清隆は首肯で返す。

「もう、何の気配もありません。すっきりとした、ただのプールです」

「川木君の未練は、高校記録を更新することだったんですね」

「どうでしょうね。最後に自分の記録を計りたかったとか、大会に出たかったとか、いろいろと考えられます。ただ、満足してくれたから、成仏したのだと思います。俺は、何かが引っ掛かればいいと思って場を用意したんです。桜子さん、悪かったね。勧誘できなかった」

「いいですよ。そんな暇なく行ってしまいましたから」

 水泳男子の幽霊を「後ろの真実」のキャストに加えるとしたら、どう演出したものか悩みどころでもあったと思う。これで良かったのだ。

 それよりも、気になることがあった。

「清隆さん、それ見せてください」

 言いながら、ストップウォッチを奪い取る。画面に表示されているのは、59秒45。

「これ、真面目に計りました?」

 清隆は小さく笑った。


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