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第84話

 狐塚の家らしき建物に連れ込まれたことはわかっている。なんとか見えた。

 桜子の正面には悪霊が抱き着くように貼り付き、視界は気色の悪い三つの顔で埋め尽くされていたため、よく見えない。しかも体勢を変えることすら苦労するほど体が重いのだから、姿勢をずらすこともできない。狐塚はそんな桜子を軽々と抱え上げ、地下室らしき一室に桜子を寝かせた。

「何もないとこやけど、我慢してな。ここが、陰陽師たちが攻めて来たときに一番守りやすいねん」

「清隆さんは来ませんよ」

 呻くように答えると、狐塚は、は、と笑った。

「信用無いんやな、あの陰陽師」

「いざとなれば一人で逃げるような男ですから」

「最低やん」

 けどまあ、海人も一緒だとどうなるだろう。清隆はともかく、海人は来てくれるかもしれない。でも、来ても勝てる相手ではない。

 だったら忍び込むか、搦め手を使うか。いずれにせよ正面からは来ないだろう。

「そんな最低な男の所におらんと、ワイの助手にならんか? あんた、霊に対して落ち着いて対処できるようやし、頭も切れると見た。そんなに給料は弾めんけど、それなりに払えるで?」

「それで、要らなくなったら捨てるんでしょ」

「そんな酷い男に見えるか?」

「少なくとも、こんな悪霊を乗せられている時点で好印象ではないですよ」

「そらそうや。でも、あんたも悪いんやで? 素直にワイの言うこと聞いておけば悪いようにはせんのに」

「信用できないって言ってんですよ」

「この状況ではっきり物言うやん。見込んだ通りやな」

「私の何を見込んだっていうんですか」

「人を殺しといてケロッと過ごしているのは大したもんやと思うで。しかも、その相手と同じ職場で毎日過ごすなんて、普通は罪悪感で潰れてまうよ」

「正当防衛です。私は悪くない」

「それは理屈や。感情は別やろ。あんたの場合、その感情が並外れてタフやねん。それは重要なことでな、死者に触れとると、こっちも死に引き寄せられる。朱に交われば赤くなる、言うやろ。せやから、しっかり自己を保つことが重要や。そして尚且つ、死者の声に耳を傾ける神経を持ち、細やかな感性を失わないこと。こんな矛盾しとるような精神性を持っとるモンはそうおらん」

「ただガサツなだけですよ」

「ちゃうちゃう。ガサツとタフは全然ちゃう。ただガサツな人間が、あの陰陽師みたいな面倒くさい人間と一緒におれるかい。あんたの思いやりや繊細な距離感に救われとるんや、あの男は」

「一度もそんなこと言われたこと無いですけど」

「それを素直に言えるような人間が、あそこまで卑屈にはならんやろな」

 清隆のパーソナリティまで把握している。こいつ、本当にどこまで知っている。

「ま、気が変わるのをゆっくり待たせてもらうとするわ」

 狐塚は部屋の隅にあった椅子を引き摺り、ポケットから文庫本を出して座った。

「言っておくけど、その霊、別に殺さんように命令しとるわけやないからな」

 殺される前に降参した方がええで。

 そう言って、狐塚は文庫本に目を落とした。

「ん」

 だが、すぐに顔を上げる。

「意外やな。もう来たんか。桜子さん、やっぱりワイの言った通りやったで。あの男どもは黙っておられんかったみたいや。しかも、とびきり派手に登場したで」

 くっくっ、と笑いながら文庫本を椅子に置いて狐塚は部屋を出て行った。後には、桜子と、殺さないように命じられているわけではないらしい悪霊が残された。

 これ幸いと逃げようとするが、重力が五倍にでもなったかのように体が動かない。手足はびくともしないし、もがくことすらできない。常に体をまさぐられているのも、腹が立ってきた。

「ああ、鬱陶しい」

 口では強く言えるが、実際に動くことは全然できない。それでも脱出しようと、僅かずつでも部屋の出口に向かおうと試みる。幸いというか、舐められているというか、部屋は鍵をかけるどころかドアすら閉めていない。そもそも、ドアが無いようにも見える。

 この部屋、雰囲気がおかしい気がする。

 床の材質もただのコンクリート打ちっ放しというわけではない。微妙に柔らかさがある。頬に触れる僅かなぬくもりは、どちらかというと木材を思い起こさせる。

 ぐぬ、うぐ、と唸りながらじりじりとミリ単位で体を動かす。

 女をこんな風に扱うなんて、清隆は情けないが、狐塚は性格が悪い。絶対に助手なんてなってやらない。

 汗が噴き出る。体一つ分動くことがままならない。そもそも、脱出しようとして、この悪霊は黙っているのだろうか。逃がさないように命を受けているのなら、妨害するか、最悪殺されるのでは?

 思い至った可能性に、体が竦む。動くことができなくなる。汗が冷えて今度は悪寒がした。

 一人になって、急に切なさが込み上げてきた。涙が目尻に滲むが、それを拭うことができない。

 誰か。誰でもいいから。

 そのとき、タン、と小さな足音が聞こえた。

 狐塚が戻ってきた?

 苦労して部屋の入口に顔を向ける。そこには、意表を衝く光景があった。

 部屋の入口から覗いているのは、見覚えのある般若面だった。


 桜子が連れ去られた後の「後ろの真実」はパニックに陥っていた。

「清隆殿、出られませんぞ。それに、桜子殿が」

「わかっている、わかっている」

「海人君、この結界破れないんですか?」

「もうちょっとで破れると思うんですけど」

「桜子さんが、桜子さんが」

「どこ行っちゃったの?」

「皆、ちょっと黙ってよ」

 清隆が弱々しく指示を出すが、全員てんでバラバラのことを喋っては右往左往している。やはり、桜子がいないと統制が取れない。狐塚は見事に「後ろの真実」の核を持って行った。

 清隆は溜息を吐いて事務スペースに上がった。酒が一式入ったリュックを背負ってエントランスに戻る。ちょうど、海人が結界を破ったところだった。ひとまず、閉じ込められた状況は脱したらしい。

 首をコキコキと鳴らす。ここには身体耐久性を上げる仕掛けを打っていたから大してダメージは無いが、それでも痛いものは痛かった。ここで迎え撃てれば有利だったのだが、あの状況では酒が手元に無かったし、飲む暇もなかった。海人がもっと早く異変に気付いて来てくれていたらとも思うが、後の祭り。どうにもならない。

 少なくとも次はこっちから攻められる。酒の能力も使える。桜子はそちらの方が勝機があると踏んで自ら狐塚の手に落ちた。

 なら、助けに行かないといけないだろう。

「清隆さん」

 海人が強い目で清隆を見てくる。

「行くんでしょ。俺も行きますよ」

「行きたくないけど、仕方ないよね。桜子さんを取り戻さないと、ウチの経営が成り立たないし」

「我も行きますぞ」

 浅田が甲冑を着直しながら言う。

「桜子殿は今や我が主君。ここで行かずしては武士の名折れ」

「私も行きます」

 巾木が手を挙げた。

「桜子さんを放ってはおけません」

「私も行きたいですね。桜子さんには、死に場所に縛られていたところを解放してもらった恩がありますから」

 鈴木がネクタイを締め直す。

 般若は既にエントランスから出ていた。

「清隆さん、早く!」

 清隆はボリボリと頭を掻いて、つまらなさそうに言う。

「危険な目に遭う可能性は高いよ? 捕まれば消滅だ」

「それでも、私たちは行きますよ」

 鈴木の、いつも通りの穏やかな顔が答えた。

「一度死んだ身ですからね」

「笑えないよ」

 やれやれ、と息を吐いて、のそのそとエントランスを潜り抜ける。

「シャキっとしてくださいよ。殴り込みなんですから」

 海人が清隆の背中を叩いた。

「そういう熱いの苦手なんだよ。だいたい、皆、どうやって桜子さんの所に行くつもりなの。居場所、わかるの?」

「そこはそれ、清隆さんの占いとかで、なんとか」

「そんなことできないよ」

「いつも言っている、糸は通っていないんですか?」

 巾木が裸足のままペタペタと駐車場に出て来た。

「俺と桜子さんの間に糸は通っていない。最近は水も使っていなかったしね。糸が通っていたら居場所くらいはわかるけど。何かもっと、強い縁があればな。雇用主と被雇用者ってだけじゃない、もっと強い関係が」

 パッと一瞬駐車場が明るくなった。その場にいた全員の顔が上がる。

 また、明るくなった。今度はずっと。

 フィアットがライトを点灯させていた。

「お前なら、桜子さんの居場所がわかるか?」

 清隆の声に応えるように、付喪神フィアットはパッシングした。


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