順を追って考えてみよう。まず、秦景楓はシステムとかいうよく分からないのに「簫司羽を攻略して五千ポイントを稼げ」とかいう任務が出されている。そうすれば、自分は元いた現実世界に戻れるのだ。しかし、簫司羽の攻略は困難を極め、そもそもエンカウントすら不可能というバグのような現象が起こっていた。だから彼は、開き直って庭造りやらなにやらをして日々を満喫していたのだ。
さて、そんな日々の中急に落ちて来た重症人、それが司雲。偽名を使い身分を明かさなかった彼を、秦景楓は呑気に「王宮内で割と偉い位置にいる役人なんだろうなぁ」くらいの感覚で看病していた。平然と呼び捨てため口で、フレンドリーに。そもそもお前はどうして知らない人に対してその感覚で接しに行ったのかと問われれば、「仕事じゃないから」の一つだろう。それに、司雲は嫌そうな顔をしなかったから、自分がやりやすいように接したのだ。
そうしたら、まさかの攻略対象の簫司羽だった司雲。まだここまでなら、「お、ラッキー! このまま攻略進めてこー!」となっただろう。実際彼は、このまま簫司羽が王宮に戻る前に出来る限りの攻略を詰めなければと意気込んでいた。
しかし、その直後に発覚した原作ルート。愛を拗らせ暴走した簫司羽が、「秦景楓」とついでにその恋人である顧軒までを冷宮に監禁し、我が物とした世界線だ。そこの「秦景楓」は意味こそ違うが二人ともを愛していたから、せめて簫司羽の穴を埋めてやろうと寄り添う。顧軒もまた、疲れた末に現状打破を諦め、受け入れる事にした。そんなほの暗いエンドを意図せず知ってしまったから。
(多分、システムはこのエンドを回避させる為に自分を呼んだんだ。いくら愛されているとは言え、監禁エンドはごめんだ! あれは作品として見るから良いのであって、我が身で体感していいものではない!)
一人になれる台所で、冷蔵庫に手を突きぐるぐると目を回す。
では、彼はそれを知って衝撃的だったから困惑しているだけか? なんとかしなければと躍起になって、頭が冷静になっていないだけ? それにしては不自然な要素が入っている気がしてやまなかった。
きっとこれは、司雲として接していた期間があったから湧き立った感情だろう。
(意味が分からない。僕は何を感じているんだ、本当に。自分の感情が分からないなんて、現実にありえるのか……?)
今までの人生の中で、一人の人物と長く一緒にいる事はなかった。故に彼は、他人に抱く感情は意外に淡白で、深入りする事がなかったのだ。しかし、司雲とはひとつ屋根の下で数週間も過ごした。仕事仲間ではなくその場しのぎの保護者変わりでもない、同性の友達として。その時点で、未知だったのだ。
「素連に桃渡しに行こ……」
冷蔵庫から一つ桃を取り出し、籠に入れる。
こういう時、彼女は癒しだろう。性別と言う壁が逆に良いように働いてくれているのだ。
(何気に、僕が女院の方に顔を出すのは初めてかもな……流石に、男から女の子の住み家にお邪魔するっていうのはねぇ)
秦景楓は門を潜って初めての女院に入る。
雑草は綺麗に抜いてあって綺麗にされているようだ。女院は男院と比べ一回り以上大きいから、このように呼んで聞こえているかは五分五分だろう。しかし、今日は運が良かったようだ。料理の香りがする辺りに寄ってみると、ぐつぐつと音が聞こえた。
「素連ー、僕だよー。秦景楓、おすそ分けに来たんだ」
「あら、秦景楓さん。少々お待ちくださいねー」
素連の返答が聞こえた数秒後、火を止めた素連が回廊に出てくる。
「料理していたの?」
「はい。秦景楓さんに教わった事を活かして、花嫁修業です」
可愛らしくころころと微笑む。
素連の手際は最初よりも更によくなり、材料さえあれば今のように一人で自分のご飯を作れるほどにはなっているのだ。不定期的に開催しているお料理教室は青椒肉絲を作った時から計五回ほど行っているのだ、秦景楓はほんの少し「僕が育てた」と誇らしげに思っていた。これを口にすると気持ち悪い勘違い野郎みたいになるから、表には出さないが。
ちなみにの話だが、秦景楓のポイントの消費が激しいのは彼女の生活の支援もしているからでもある。少し多めに食材を仕入れ、彼女にも分けているのだ。流石に、スペースという特権で自分だけ飢えない生活をするという非道な真似は出来ないだろう。
そんな事を考えながらも、秦景楓は回廊に腰を下ろして本題に入る。
「そうだ、素連。今日はね、いつもと少し違ってね、桃をもらったからおすそ分けしにきたんだ。ほら、これ」
「わぁ、立派な桃ですね!」
彼女の両手程の大きさもある桃に、彼女の表情が更に明るく輝く。この反応を見るに、アレルギーとかはなさそうだ。
「うん、絶対お高い奴だよそれ。今度僕も何か作るつもりだから、もしよかったら食べにおいでよ」
「いいのですか? 是非お食べしたいです」
「よし来たっ。作る時また教えるね」
「ありがとうございます」
彼女と話すと自然と穏やかになれるような感覚がある。和やかな空気を肌で感じていると、気持ちがいつも通りに戻ったような気がした。しかし、それでも頭の片隅にあるのは簫司羽の事。
(もしかしたら、素連なら分かるかな……)
なんて、この話を切り出すか否かを悩んでいる。
そんな彼の様子は、傍から見れば何かにソワソワとしているように見えるだろう。それを感じ取った素連は、何かを察する。
「秦景楓さん。的外れな事を言っていたら申し訳ないのですが……それは、恋心由来だと思うのです」
素連の口から出たその言葉に、秦景楓は顔を上げ彼女に視線を移す。
そう言えば、彼女は「司雲は杏仁豆腐が好きだろう」と教えてくれた。それはつまり、彼女は傍から知っていたのだ。司雲が簫司羽だと。そう仮定すると、彼女が司雲に見せていた言動に納得がいく。そりゃ、冷宮に皇帝がいたら驚くし、そんな皇帝に対してフレンドリーに行く隣人を見たら「ぅえ? お前、え? マジ?」と思うだろう。まぁ素連はそんな事言って来なかったが。
「ねぇ素連。もしかして、素連は知っていた? 司雲が、その……簫司羽だって」
「えぇ、まぁ。一応、王宮勤めの下女ですので」
もっともな事を言って、彼女は控えめに笑みを浮かべた。
「はぁー、そりゃそうだよねぇー。皇后の宮で仕えてたんだもんね、そりゃ皇帝様のご尊顔くらい知っているよねぇー……」
頭を抱えたのは、自分の察しの悪さに一周回って感心していたからだ。素連はこんなにも分かりやすい匂わせをしていたというのに、何が「司雲って簫司羽の親戚かな?」だ。親戚だから味覚の好みが同じとはならないだろうが、何を思ってそんな風に考えたのか本当に理解できない。
見るからに落ち込んでいる秦景楓に、素連はほんのりと気まずそうに苦笑を浮かべる。
紫髪は王族の正式な血筋である事の証拠という知識は、この世界では一般常識のレベルなのだ。
「あり得ないと思うんだよ、顔も知らない相手に恋するって。いやね、僕一応妃だけどさ。旦那の顏も声も知らなかったし、その状態で簫司羽を好きって思う訳ないじゃんね。実物見たら、好みではあったんだけど……」
「それにしてもだよ。友達だと思ってた相手が旦那だったって無いシチュエーションすぎない!? どういう反応したらいいか分からないよ! しかも僕、当然のようにタメで行ってたし……今更対皇帝に切り替えられると思う? やったことないよその方向転換、普通逆じゃん。他人に敬語使ってて仲良くなったからタメにするじゃん、どうするのが正解なの」
口から次々と漏れ出たまとまりのない言葉は、素連に伝えようとして出た物ではないのだろう。己の自問を、彼女に聞いてもらっていたのだ。
「そうですねぇ。確かに、それは難しい話ですね」
素連はしっかりと理解を示してくれた。そして、彼の心に寄り添うように、そっと言葉を添える。
「難しい事ですけど……とりあえず、誤魔化さないで自分の心に向き合ってみるのが良いと思います。不快感がないのなら、それはプラスの感情になるはずです」
他人が出来るアドバイスとしては、これが限界だっただろう。秦景楓は吐息交じりに「そっかぁ……」と呟き、膝の上で手と手を結んだ。
「ねぇ素連。素連的にはさ、今でも僕が、簫司羽に恋しているように見える?」
「……私が思うに、『恋心』って、本来錯覚の一種だと思うんです」
「錯覚?」
知らない概念に首を傾げる秦景楓。問いかけると、素連はその抽象的なイメージをなんとか説明しようと考えてくれる。
「はい。どうしてかと訊かれたら上手く答えられませんが。だって、それがなにか、他の感情より分かりづらいじゃないですか。例えば、楽しいとか、怒っているとか、そういうのだともっと分かりやすいと思うんです。だけど、恋心っていうのはそれらの感情の延長線というか……何て言ったらいいかわかりませんけど」
上手く表現ができず、微苦笑を浮かべた。しかし、彼女が伝えんとしている事は伝わった。感情何てどれもはっきりとした定義がある訳ではないが、恋心は猶更そこが曖昧だと。だから、恋というのは錯覚なんじゃないかと言う話だ。
それはつまり、この感情も転じ様によれば恋心になるという事になるという事か。
「まぁ要するに、これが恋かどうかは自分で考えて決めろって訳ね……」
「決める、と言うより、自ずと決まると言いますか。私はその手の専門家ではないので、はっきりとこうだとは断言できませんが」
「いや、そう言う話においては、ある意味女の子の方が詳しかったりするんだよ」
女子程恋バナが好きな生物はいないだろう。何の解決もしなかったが、話す事で多少落ち着いた気がする。
「ごめんね、ありがとね素連。じゃあ、僕はあっちに戻るから。また何かあったら遠慮なく呼んでね」
「はい、少しでもお役に立てたのなら良かったです」
笑みを浮かべて手を振って、男院に戻る。
しかし、話して思考を落ち着かせることが出来たのか、そのお陰かは知らないが何となく頭の中にスッと落とし込まれた。
友達としての司雲と、攻略対象としての簫司羽、ドラマ世界線の「簫司羽」の三方。今一緒に暮らしている司雲及び簫司羽を、どの彼と重ねて接すればいいのかが分かっていないのだ。それぞれの彼に対する感情が相違しているから、こんな事になっている。
では、彼に抱いている核の感情は一体なんだろか。だからそれが分かってるのなら苦労はしないって話だ。
秦景楓は一人でに突っ込みながら、男院へ続く門を潜った。その途端、
「秦景楓」
門の死角にいた彼が、一声名前を呼んできた。
「ぅおっ!? 簫司羽っ?」
思わず跳ね上がった彼は、まるで背後に胡瓜を置かれた猫のような跳躍だった。
「あぁ、簫司羽だ。見て分かるだろう」
「う、うん。どっからどう見ても簫司羽だね……じゃなくて! どうしたの?」
首を傾げて問うてから、秦景楓はハッとする。今、自分は彼の事を何と呼んだ? 簫司羽とそのままっ呼ばなかったか? それに気付いた時、どうしてかヤバいと思ってしまった。
簫司羽は「ほう」と声を漏らし、意地悪い笑みを口元に浮かべる。
「ようやっと名前で呼ぶ気になったか」
「あ、違っ! 司雲! 司雲って呼ばせて! 心の準備が出来ていない!」
なんか地味に傷つけてしまいそうな程、精一杯の拒否だった。ブンブンと大袈裟なまでに手を振ながら顔を背けると「お昼の準備してくるねー!」と無駄に大声で告げて走り去った。
「ふっ……ふふ。本当に、見ていて飽きないな」
そんな様子の可笑しい彼に、簫司羽は塞いだ手の隙間から笑みを零す。
先程使いにやって来た男に「そろそろお戻り頂けないでしょうか……?」と訊かれたばかりなのだが。もう少しだけここにいる事にしよう、日々つまらない要求を断り続けるより余程面白いから。
サボればサボる程、溜まるのは仕事なのだが。まぁ最悪、その程度の仕事なら李公公が代行したって良い。本当はダメなのだが、書類に印を押すだけなのだから誰がしたって良いだろう。
(もう少し……もう少しだけ、彼奴を見ていたい。あの笑顔で、俺の名前を呼ばせたい)
その心は、正真正銘彼の素直な欲求だった。
初めて知り合った頃に見せた、疑うという事をしらないなんとも無防備な笑み。取って付けた適当な嘘に大した、なんの偏屈も無く「いい名前だね」と言ったあの時の笑顔で、「簫司羽」と呼ばせたかった。どうしてかは知らない、知る必要も無いだろう。
もしそれを例えるのであれば、「懐かない猫を懐かせたいと思う事」が近しいだろうか。簫司羽にとっては、戯れの一種だっただろう。人の悪く見える彼の笑みがその証拠だ。
そうは思うが、そんな場合ではないというのは実際問題。愉快そうに跳ねていた簫司羽の口元が一の字に戻り、彼は思案する。
(だが。事実、じっくりと戯れている暇はあまりないな。あまり、蛇を野放しにする訳にもいかない)
(罠でも仕掛けてみるのも一興か……一先ず、和念が奴の駒にならないか、警戒しておかねば……)
思考を巡らす彼の顏は、影の差した表情になっていた。それも必然だろう、この事は、決して明るい内容ではないのだから。
ジトっとほの暗くなる彼の背の影。気配が重く、場の空気を沈めている。
だが、そんな空気を鶏のけたたましい餌の催促の声が切り裂いて、
「もー! 朝あげたでしょーが! お前さ最近欲張り過ぎっ、マジで食うぞ!」
秦景楓のそんな鶏共に対する文句が完全に押しつぶしたのだ。