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第34話

エルフの国、アズルウッド森林国とドワーフの国、グランツ地国……。

両国の関係は、思いもよらない方向へと展開していた。

お見合いこそ失敗に終わったものの、両国の絆は今までにないほど深まっていた。

開かれた広間での出来事は、新聞では奇妙な方向に報じられたが、それでも確かな変化が生まれていた。


「すげぇ……こんな細かい彫刻が木でできるなんて」

「この光の加減、魔法で作ったのか?俺たちの鍛冶とは全然違う」

「おい見ろよ。葉っぱ一枚一枚が透けて見えるぞ」


ドワーフたちは巨大な馬車に乗って帰路に着く。魔導鎧という物騒な装備を身につけた者は最早おらず、代わりにエルフの民芸品で馬車は一杯だった。

繊細な木彫りの置物や、魔力が込められた小物たち。それらを大切そうに抱える兵士たちの表情は、柔らかい。


「まぁ、この鉱石……月の光を閉じ込めたみたい」

「これは地底の深い場所でしか採れない宝石なんですって。素敵ね」

「この青い鉱石の輝きは一生忘れられそうにないな……」


見送るエルフたちの手には、ドワーフから贈られた地下の貴重な鉱石が握られていた。

エメラルドのような緑色をした鉱石や、月の光を宿したかのような銀色の原石。初めて見る素材に、エルフの民衆たちは目を輝かせながら、快く彼らを見送る。

両国の民たちは、お互いの文化の美しさに触れ、そして理解を深め始めていた。それは小さな、しかし確かな一歩だった。




♢   ♢   ♢




地下宮殿の謁見の間で、カイナブルは祖母バルドリーナ太后と向き合っていた。

水晶シャンデリアが放つ幻想的な光の中、先日のような険悪な空気はなく、むしろ穏やかな空気が漂っている。


「どうであったか」


バルドリーナの声が、静かに響く。その声には、これまでにない柔らかさがあった。


「ババァ……あ、いや、太后様の言う通り、実際にエルフと会ってきたぜ」


カイナブルは、珍しく柔らかな表情を浮かべながら言った。


「会って、話をして……自分がどれだけ愚かだったか思い知った」


バルドリーナは無言で、孫の言葉に耳を傾けている。


「俺は何も知らなかった。エルフがどんな種族なのかも、どんな文化を持っているのかも。ただ、周りの大人たちの話を鵜呑みにして、見もしないものを憎んでいた」


カイナブルは自嘲するように笑う。その笑みには、これまでの傲慢さの欠片もない。


「彼らの暮らしには、俺たちには想像もつかない美しさがあった。木々と共に生きる術、自然と調和する知恵。それは地底で暮らす俺たちとは全く違う、でも……同じように尊い文化なんだ」


一呼吸置いて、彼は続ける。


「何て浅はかな男だったんだろう。偏見だけで物事を決めつけ、自分の殻に閉じこもって……アンタに散々説教されても、頭を真っ白にしてただ抵抗していただけ」


カイナブルの声には後悔と共に、新たな発見への喜びが混ざっていた。


「エルミア姫と話して、初めて分かった。俺たちの憎しみってのは、ただの思い込みでしかなかったんだって。実際に会って、話して、相手を知ることの大切さを」

「そうか……」


バルドリーナは静かに頷き、目を瞑る。その表情には、カイナブルには読み取れない何かが宿っていた。

暫くの沈黙の後、バルドリーナは言った。


「──お前がそう思ったのなら、もう妾からは何も言わぬ。お前の選択を、ただ見守るだけだ」


その言葉に首を傾げるカイナブル。いつものババァなら、もっと自分をガキ扱いするはずなのに、と。

バルドリーナは目を瞑ったまま、静かに告げる。


「妾は、お前と同じように憎しみを消すことは出来ん」


その言葉が、重い空気と共に謁見の間に満ちていく。


「こうして目を瞑れば、今でもエルフどもに殺された我が子らの顔が浮かぶのさ。息子や娘たちが、友が……無残に殺されていく姿が……」


重い空気が満ちる中、バルドリーナは静かに言葉を紡ぐ。

その声には、これまでの威厳は微塵も感じられない。まるで遠い過去の亡霊に憑りつかれたかのように、虚ろで儚い響きだった。


「──だが、それは奴等も同じこと。殺し殺され、その果てに私たちは運良く生き残っただけの存在……」


一呼吸置いて、彼女は続ける。その表情には、数千年の重みが刻まれていた。


「理屈では分かっている。しかし、この愚かな感情の波は……どれだけ時が経とうとも、妾を苦しめ続ける」


その言葉を聞いたカイナブルは、初めて見る太后の弱さに戸惑っていた。

いつも自分を圧倒し、時に暴力すら振るってきた最強の存在。その祖母が、今は儚く、そして脆い存在に見えた。

だが、その弱さこそが真実なのだと、カイナブルは理解していた。

強さの仮面の下に隠された、消すことのできない痛みと苦しみ。それは彼女の存在そのものだったのかもしれない。


「そりゃ、当然だろ」


カイナブルは静かに答える。


「俺達と違って、実際に体験したんだ。戦場で、仲間を……家族を失ったんだ。忘れられるわけが、ねぇ」


その言葉には、これまでの反抗的な調子は微塵もない。ただ純粋に、祖母の痛みを理解し、受け入れようとする優しさだけがあった。

そして、彼は決意に満ちた声で続けた。


「──だから、これからはアンタの代わりに俺が時代を作ってやるよ。安心して休んでな」


その言葉には、もう迷いはなかった。祖母の背負ってきた重荷を、今度は自分が受け継ぐという覚悟。

それは単なる無邪気な約束ではなく、新しい時代を作るという、確かな決意だった。


カイナブルの言葉に、バルドリーナはきょとんとした表情を浮かべ、ふっと寂しげな笑みを漏らす。

その笑顔は、外見相応の愛らしいもので、いつもの恐ろしい祖母の面影は微塵もない。まるで本当の少女のような、儚い笑みだった。


「生意気な孫だ。こんな台詞を吐けるようになるとは……。もし妾が数千年若かったら、惚れてしまうところだったかもしれんな。冗談抜きで」


その言葉に、カイナブルの顔が見る見る青ざめていく。


「おい!?急に怖いこと言うなよ!?誰が自分のババァに惚れられて嬉しいんだよ!?しかも『冗談抜き』って何!?」


カイナブルは後ずさりしながら叫ぶ。先ほどまでの穏やかな空気は、彼の悲鳴と共に木っ端微塵に砕け散った。

「冗談さ」とバルドリーナは笑うと、何かを思い出したように表情を変えた。


「……そういえば、エルミア姫の兄には会ったか?」

「兄?エルミアに兄貴なんていたのか?」


その言葉を聞いて、バルドリーナは眉を顰めた。その表情には、これまでにない暗い影が差している。


「なに?会わなかったのか……?まぁ、会わなくて正解かもしれんが……バルドロめ、こやつに隠しておったか」


バルドリーナの意味深な言葉に、カイナブルは身を乗り出す。


「おい、どういうことだ?何を隠してたって?親父が俺に話してないことがあるのか?」


カイナブルの疑問に、バルドリーナは何かを思案するような仕草をした。

その表情には、重い秘密を告げることへの躊躇いが浮かんでいる。

そして、しばらくの逡巡の後、小さく息を吐き、こう言った。


「エルミア姫の兄、アイガイオン」


バルドリーナの掌が震える。それは怒りか、はたまた恐怖か。

その小さな体が、激しい感情に支配されているのが見て取れた。


「奴は、アイガイオンは……大戦の時に、数多の同胞の命を奪い去った仇敵。我々グランツ地国の憎むべき敵」


バルドリーナの声が低く響く。


「いや、それだけではない。世界中の全ての国が、奴の率いる狂った軍勢に蹂躙され、全ての種族がその脅威に怯えていた。あの時代、アイガイオンの名を聞かぬ者はいなかった」

「お、おい。何言ってんだ?」


突然語り出したバルドリーナに対してカイナブルは首を傾げた。だが彼女は、過去の亡霊に取り憑かれたように言葉を紡ぎ続ける。


「奴はエルフの狂王の下、世界中の命を殺戮して暴れまわった。何千何万もの尊き命を、まるで稲穂を収穫するように、無慈悲に刈り取っていった。その剣の下には、種族も性別も、年齢の区別すらなかった」


ごくり、とカイナブルの喉が無意識に鳴る。

バルドリーナは更に続けた。その声は、地底の底から響いてくるような重さを帯びていた。


「奴は。アイガイオンは。狂った殺戮者。そして何より──お前の姉を殺した、許し難き仇なのだ」




♢   ♢   ♢




「……」


──アズルウッドの王子・アイガイオンは城のテラスから夕焼けを眺めていた。

その瞳に宿るのは、憎悪でも嫌悪でもない。どこまでも虚ろで、この世の全てを見透かしたような空虚な眼差し。

ゆっくりと、彼の手が腰の紅い剣に伸びる。剣が僅かに鞘から抜かれ、そこから禍々しい魔力が漏れ出す。


彼の後ろには、漆黒の鎧に身を包んだエルフの騎士たちが控えている。アイガイオンに絶対の忠誠を誓う、深淵騎士たち。彼らもまた、主の如く無表情で、侍るだけ。


その重苦しい空気が破ったのは、一人の少年の声だ。


「兄様」


アイガイオンは振り返らない。だが、その声と足音だけで来訪者が誰であるかを悟っていた。

深淵の騎士たちは、ハイエルフの第二王子カフォンの姿を認めると、一斉に膝をつく。その動きは完璧に統制が取れており、まるで影絵のように美しくも不気味な光景を作り出していた。


「カフォンか」


アイガイオンがそう呟くと、カフォンはその横に並び立ち同じ景色を無言で眺める。


「エル姉様好き好き病を発症していた兄様が、グランドワーフたちの滞在中に姿を見せなかったので心配してたんですよ。まさかこんなところで、物騒な騎士たちとロマンチックに黄昏ていただなんて」


カフォンの言葉には、優雅な笑みの下に皮肉が滲んでいた。


「……」


アイガイオンは答えない。剣から漏れる禍々しい魔力だけが、微かに波打つように揺らめいていた。

深淵の騎士たちは、二人の王子の会話を聞きながらも、一切の反応を示さない。まるで影のように、ただそこに存在するだけであった。

不意にカフォンが言った。その声には、まるで世間話でもするかのような軽やかさがあった。


「──ところで、何故ドワーフが来た時にオルドロとその息子を殺さなかったので?ドワーフの英雄王を容易く殺せる好機だったのに。まぁ、もう帰っちゃったけど」


アイガイオンの表情が一変する。そこにいたのは紛う事なき鬼神の化身。

先程まで無表情を貫いていたハイエルフの麗人は、悪鬼を思わせる憤怒の形相で全身を震わせていた。その怒りは、彼を取り巻く狂気さえも霞ませる程の激しさだった。

常人であれば側にいるだけで死に至るような覇気を漂わせ、全身を巡る血液が沸騰しそうなまでの熱気を帯びている。


「俺に」


狂気すら跳ね除け、怒りに全身を支配されたアイガイオンが低く呟く。その声には、これまでの虚無とは真逆の、生々しい感情が満ちていた。


「そのような、卑劣な真似をしろというのか」

「……あぁ、成程。カイナブル王子の演説に、心を打たれてしまったんですね?それとも、王子が『アレ』の弟だから?」


その瞬間であった。全てを斬り裂く魔剣が、神速でカフォンへと突き付けられる。

物理法則を歪め、音速を遥かに超える速度で放たれた剣に、反応できる存在など存在しない。

しかしカフォンは、剣など意に介さないかのように、嘲笑うように言った。


「大戦の時に罪のないドワーフたちを何百人、何千人と殺しておいて、たった一度の演説で改心するなんて。『狂気の深淵』と呼ばれた所以かな……その気分屋っぷりには感服いたしますよ」


その皮肉めいた言葉には、不敵な笑みが伴っていた。まるで兄の剣など存在しないかのように、カフォンは優雅に微笑む。


「──流石は兄様。愛する者を自らの手で殺しただけのことはある。その狂気は本物だ」


その瞬間、世界から音が消え去った。

風の音も、吐息の気配も、鼓動の振動も、全てが失せた。

音速を超え、空気の壁すら突き破ったアイガイオンの斬撃がカフォンを襲う。


腰の剣に込められた膨大な魔力と闘気の爆発によって生じる暴力的な一撃。正しく一太刀で大地を割る程の絶大な威力を誇っていた。

しかし、カフォンは眉一つ動かさずに手を翳す。迫りくる死の一撃に、ただ一言だけ言葉を放った。


「止まれ」


全てが静止した。

音が消え去り、時が止まったかのように静寂が世界を支配する。まるで無に二人だけが取り残されたような虚無感。

そして、その中心に佇むカフォンの紅い瞳がアイガイオンを見つめていた。


「──余は殺せるぞ」


カフォンが、いや……カフォンであるはずの何者かの声が虚無の世界に響く。

カフォンは、静止した世界で一人動き始める。そしてゆっくりとアイガイオンに近づくと彼の頰に触れた。


「これまで何千、何万、いや何億もの命を奪ってきた余ならば……全てを無に帰し、全てを壊し、全てを殺し尽くすことなど容易いこと。余に愛や情など、存在しないのだから」


その声は、少年のものでは決してなかった。

深淵の底から這い上がってきたかのような、古の時代から続く殺戮の意思そのものが、カフォンの口を借りて語っているかのようだった。


「だが、今はその時ではない……。故に、生存を許す」


優しく頬を撫でながらそう呟くと、カフォンはゆっくりと目を閉じた。

途端に世界に音が戻り、時が動き出す。その瞬間、アイガイオンの身体がグラリと傾いた。

深淵の騎士たちは一斉に主の元へと駆け寄り、崩れ落ちそうな身体を支える。ハイエルフ同士の争いに、下位種である彼らは本能的に関わることができない。それは種族の血に刻まれた掟のようなものだった。


「ぐっ……!クソッ……!!」


物理法則を歪め、世界の理をも無視した膨大な力をその身に浴びた反動。一瞬で莫大な体力を消費し、消耗し尽くしたアイガイオンはその場に膝をつく。

そんな兄を、カフォンは冷めた目で見下ろしていた。その表情には、面白くない芝居を見せられたかのような、退屈そうな色が浮かんでいる。

漆黒の鎧に身を包んだ騎士たちの間で、アイガイオンは歯軋りをしながら、弟を睨み上げていた。


「──これは、余興だ」


カフォンは冷たく言い放つ。


「エルミアが異種族との婚姻を決めた瞬間……その時こそ、世界を崩落させる。この世界に存在する全ての命を、余の手で刈り取ってやる」


一呼吸置いて、さらに続ける。


「エルミアが全ての異種族とのお見合いを終えた時……その瞬間に、この世界を無に帰してやろう。全てを、消し去ってやるのだ」


その言葉には狂気すら感じられなかった。

まるで当然の事実を語るかのような、淡々とした口調。それがより一層、その言葉の持つ恐ろしさを際立たせていた。


「そして、今度こそ」


カフォンは陽光に手を伸ばす。まるで、遥か遠くの何かに縋りつくように。

小さな、未成熟な指の間から零れ落ちる光が、虚ろな影を作り出していた。


「余は、真の超越種に至るのだ──」


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